第51話 沼辺の夜と記憶の靄(三)
「今は話せない?」
「…説明が難しいです」
ツキハはそう言ったあと、わずかに視線をそらした。
月片ではなく、外套の裾を見る。
サトはその反応を見て、少しだけ眉を上げた。
説明が難しい。
それだけではない気がした。
「……恥ずかしいとか?」
「状態に変化はありません」
「いや、今のは絶対にあるだろ」
「ありません」
「そうか」
サトは追及しなかった。
ツキハが隠そうとしているなら、今はそのままでいい。
話したくなったときに話せばいい。
神威だけが、わぅ、と不満そうに鳴いた。
自分だけ知らされていないのが気に入らないらしい。
「お前も分かってないだろ」
「わぅ」
焚き火が小さく爆ぜた。
沼の上に映る月が揺れる。
ツキハは再び、水面を見た。
「私は、姉たちを探します」
その声は、さっきより少しだけ強かった。
「姉たちは、人造神の情報を集めていました。おそらく、地上のどこかに痕跡があります」
「この前も言っていたな。その姉たちというのは、その」
サトは一度言葉を切った。
「生きているのか」
静かに尋ねる。
ツキハはすぐには答えなかった。
水面の月を見つめる。
揺れて、砕けて、またつながる月を。
「不明です」
やがて、そう言った。
「けれど、私より先に地上に降り立ったはずです」
「地上にいるかもしれないのか」
「はい」
「どこに」
「分かりません」
「手がかりは」
「欠けています」
ツキハは月片を握った。
「けれど、完全に失われたわけではありません。私は、おそらくその欠片を集めるために地上へ来ました」
カツザン。
古い山々の精霊流と機械遺跡が交差する山間都市。
カツザンは大きな街だ。
そこに行けば、何か分かるかもしれない。
分からないかもしれない。
だが、今は進むしかない。
「じゃあ、まずはカツザンだな」
「はい」
「そこで姉たちの手がかりを探す」
「はい」
「それで、見つからなかったら」
「次の手がかりを探します」
「長い旅になりそうだな」
「その可能性があります」
ツキハはまっすぐ答えた。
サトは少し笑った。
「まあ、短い旅だとは思ってなかった」
神威が、わぅ、と鳴いた。
それから、湿った尻尾を焚き火に近づけようとした。
「焦げる!」
サトは慌てて止めた。
「乾かすのと焼くのは違う!」
「わぅ?」
「本気で分かってない顔をするな」
ツキハが小さく言った。
「神威にも、防火処理が必要ですか」
「やめろ。これ以上、処理する箇所を増やすな」
「適切です」
少しだけ、空気が緩んだ。
沼の夜はまだ深い。
月は水面に揺れている。
ツキハの記憶も、きっとあの月のようなものなのだろう。
欠けて、揺れて、けれど完全には消えていない。
サトは焚き火を見つめた。
ツキハは強い。
そう思っていた。
月から来て、旧世界を知り、月光糸を操り、神威の異常も見抜く。
けれど、それは違うのかもしれない。
強いのではない。
懸命に足掻いているのだ。
様々なことを知っているから苦しみ、欠けているから不安になる。
それでも、探そうとしている。
サトはピッケルを膝の上に置いた。
「ツキハ」
「はい」
「全部思い出せなくてもいい」
ツキハがこちらを見る。
「一つずつでいい。分かったことから、話してくれ」
「はい」
「俺も、一つずつ考える」
「サトが?」
「俺が」
「適切です」
ツキハは小さく頷いた。
そして、少し遅れて言った。
「ありがとうございます」
「どういたしまして」
神威が、わぅ、と鳴いた。
「お前も聞いてたのか」
「わぅ」
「半分くらいだろ」
「わぅ?」
「まあ、半分でもいいか」
神威は満足そうに尻尾を振った。
火の粉が夜へ昇る。
沼の水面には、月が揺れている。
その月の奥に、ツキハが失くした記憶の欠片が沈んでいるように見えた。
三人は、しばらく何も言わなかった。
葦が鳴る。
遠くで魚が跳ねる。
沈んだ都市の下で、水がゆっくり流れている。
大陸沼の夜は、静かだった。
けれど、その静けさの底には、まだ見えない何かが眠っている。
サトはそう感じていた。
そしてたぶん、ツキハも。
神威は、少しだけ舟をこぐように頭を揺らしていた。
「寝るなら見張り交代してから寝ろ」
「きゅうん」
「きゅうんじゃない。本当に機械らしくないやつだ」
ツキハが小さく笑ったように見えた。
ほんの一瞬だった。
月の光が揺れて、表情までははっきり分からなかった。
だが、サトにはそれで十分だった。
今夜は、それでいい。
全部を思い出せなくても。
全部を説明できなくても。
水面の月が砕けても、またつながるように。
欠けたものも、いつか形を取り戻すかもしれない。
そう思える夜だった。




