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月から落ちた少女と、神に愛された機械狼  作者: 玄達瀬


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第49話 沼辺の夜と記憶の靄(一)

いつも読んでくださりありがとうございます。

二話投稿とか需要ありますか……?


山場が近いことと、少し書き溜めもできたので、読んでくださる方がいそうなら検討しています。


リアクションがあると、「読んでくれている方がいるんだな」と分かって、とても励みになります。

いいね・評価・感想など、そっといただけると嬉しいです。

 東岸を進んで数日がたった。

 その日の野営地は、沈んだ建物の上だった。


 正確には、かつて湖岸に建っていた観測所の屋上らしい。


 屋上といっても、半分は泥と苔に覆われ、ひび割れた床の隙間から葦が生えている。


 低い手すりは途中で折れ、水面の方へ傾いていた。


 建物の下層は、すでに沼に沈んでいる。


 耳を澄ませば、足元の下の暗い空間で、水がゆっくり揺れている音がした。


「……ここ、本当に大丈夫なのか」


 サトはピッケルで床を軽く叩いた。


 鈍い音が返る。


 空洞はある。


 だが、すぐに崩れるほどではない。


「少なくとも、さっきの足場よりはましだな」


「比較対象が不安定です」


 ツキハが言った。


「それはそう」


 サトは苦笑しながら、神威の右前脚を確認した。


 泥はかなり入り込んでいる。


 だが、補助ブレースは無事だった。


 腹部パネルも、簡易防水処理が効いたのか、大きな異常はない。


 尻尾の根元には水草が絡まっていた。


「神威、動くな」


「きゅうん」


「嫌そうな声を出すな。これを取らないと、あとで詰まる」


 サトが水草を引き抜くと、神威はくすぐったそうに後ろ脚を動かした。


「動くなって」


「わぉん」


「返事はいいんだよ」


 ツキハは少し離れた場所で、濡れた外套を絞っていた。


 月光を受ける薄い布の表面に、泥の跡が残っている。


 本人は気にしていないように見えた。


 だが、時折、その汚れをじっと見ている。


「外套、大丈夫か」


「機能に大きな損傷はありません」


「見た目は?」


「汚れています」


「だな」


「旅は汚れる、と記録しました」


「正しい記録だ」


 サトは神威の脚を拭き終え、焚き火の準備を始めた。


 湿地では乾いた枝が少ない。


 拾えたのは、屋上に吹き寄せられた枯れ葦と、建物の残骸から外れた古い木片くらいだった。


 木片は湿っていたが、神威のウォーマーで少し乾かせば火はつきそうだった。


「神威、弱く温められるか」


「わぅ」


「燃やすなよ。乾かすだけだ」


「わぉん」


 腹部のパネルが小さく開き、弱い熱が木片へ向けられる。


 じわじわと湿気が抜け、白い蒸気が立った。


 その匂いに混じって、沼の匂いが濃くなった。


 葦。


 泥。


 水草。


 古いコンクリート。


 錆びた鉄。


 森の夜とは違う。


 水の上の夜は、音が遠くまで響く。


 鳥の羽ばたきも、どこかで跳ねる魚の音も、葦の葉が擦れる音も、すべてが薄い水面を伝ってくるようだった。


 焚き火に火がつくころには、空に月が昇っていた。


 大陸沼の水面に、月が映る。


 揺れていた。


 風が吹くたび、月は細かく砕けて、またひとつに戻る。


 ツキハは、その月を見ていた。


 焚き火の近くに座ったまま、動かない。


 サトは最初、ただ眺めているだけだと思った。


 けれど、違った。


 ツキハの手が、胸元の月片に触れている。


 指先に力が入っていた。


「ツキハ」


 サトが呼んでも、返事はなかった。


 水面の月だけを見ている。


「ツキハ」


 二度目で、ようやくツキハは瞬きをした。


「はい」


「大丈夫か」


「状態に変化があります」


「また記憶か」


「おそらく」


 声は静かだった。


 だが、どこか遠い。


 サトは焚き火の向こうから、少しだけ身を乗り出した。


「月が恋しいのか」


 聞いてから、少し踏み込みすぎたかもしれないと思った。


 だが、ツキハは怒らなかった。


 困ったように、水面の月を見つめた。


「恋しい、という感情かは不明です」


 少し間があった。


 葦の向こうで、小さな水音がした。


「ですが、戻らなければならない場所であるとは、感じます」


「戻らなければならない場所」


「はい」


 ツキハは月片を握った。


「私は、何者なのか、うまく思い出せません」


 サトは黙った。


 神威も、いつの間にかウォーマーを止めていた。


 耳のような可動部を、ツキハへ向けている。


「ツキハじゃないのか」


「ツキハです」


 ツキハはすぐに答えた。


 その答えだけは、迷わなかった。


「けれど、それだけではありません。もっと大きなものの一部だったような気がします」


「もっと大きなもの」


「はい」


 ツキハは目を伏せた。


 サトは焚き火に枝を足した。


 火が小さく跳ねる。


「ルナか」


 ルナ。


 人類を滅ぼしたと伝えられる人造神。


 七柱いるといわれる、その一柱。


 触れてはならぬものとして語られてきた存在。


 遠すぎる名前。


 具体的なことはわからない。しかし、誰もが御伽噺で一度は聞く名前だ。


 けれど今、その名は、目の前の少女の沈黙とつながっていた。


 ツキハの肩が、ほんの少し動いた。


 サトはそれを見逃さなかった。


 だが、続けて問い詰めなかった。


 まだツキハ自身も、言葉にできないのだろう。


「話せるところだけでいい」


「はい」


 ツキハは小さく頷いた。


「私に神のような権能はありません。月竹を完全に操ることもできませんでした。月光糸も、長くは持ちません」


「でも、あのとき俺たちは助かった」


「一時的な拘束です。討伐能力はありません」


「俺も討伐能力なんてない」


 サトは神威を見た。


「神威も……まあ、壊れる能力ならある」


「わぅ!」


 神威が不満げに鳴いた。


「何だよ。事実だろ」


「わぅ」


「壊れながら助ける能力、に言い換えるか」


 神威は少し考えたように耳を動かした。


 それなら少し納得したらしい。


 サトはツキハへ視線を戻した。


「強いか弱いかで言うなら、俺たち全員そんなに強くない」


「神威は強いです」


「壊れる」


「サトは修理できます」


「時間があればな」


「サトは観測できます」


「見間違えることもある」


「私は、月光糸を使えます」


「さっき足場を支えた」


「長くは持ちません」


「長く持たなくても、渡れた」


 ツキハは黙った。


 焚き火の火が、彼女の横顔を照らしていた。


 月光と焚き火の色が混ざり、表情が少し揺れて見えた。


「……サトは、評価が甘いです」


「そうか?」


「はい。私は、自分の能力を正確に把握する必要があります」


「なら、聞かせてくれ」


 サトは軽く膝を抱えた。


「俺も知っておいた方がいい。無理させないためにも」


 ツキハは少し考えた。


 それから、胸元の月片を手のひらに乗せた。


 小さな月の欠片のようなものが、淡く光っている。


「これは、月片です」


「ペンダントみたいなものか」


「形状としては、そうです。ただし、装飾品ではありません」


 月片の表面に、細かな光の筋が走った。


「航路情報の一部が入っています。月竹の記録とも接続しています。ただし、多くが欠損しています」


「それで、空を見たときに記憶が戻ったりするのか」


「はい。月や星、旧軌道上の残響に反応する場合があります」


「便利だけど、不安定だな」


「はい。不安定です」


 ツキハは月片を握り直した。


「簡易結界の基点にもなります。転送補助にも使えるはずです」


「転送?」


 サトは思わず聞き返した。


「完全なものではありません。対象も距離も限られます。連続使用もできません。月竹との接続が不完全なため、現状では失敗する可能性も高いです」


「つまり、簡単には使えない」


「はい。非常時以外は不適切です」


「分かった」


 次に、ツキハは右手を上げた。


 細い光の糸が、指先から一本伸びた。


 月の光を細く撚ったような糸だった。


「月光糸です」


「これは何度も助けられてる」


「敵を縫い止めることができます。足場を固定することもできます。傷口や壊れた回路を、一時的に結ぶこともできます」


「回路も?」


「はい。ただし、根本的な修理ではありません。ほどければ、元に戻ります」


「応急処置か」


「はい。応急処置です」


 糸はしばらく宙に伸びていたが、やがて薄くなって消えた。


 ツキハの指先が少し震える。


「長時間の維持はできません。複数本を同時に使うと、さらに短くなります」



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