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月から落ちた少女と、神に愛された機械狼  作者: 玄達瀬


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第48話 大陸沼の東岸(三)

 最初にサトが渡った。

  

 壊れた支柱の上に足を置く。


 濡れている。


 滑る。


 下は濁った水。


 深さは分からない。


 サトはピッケルを杖のように使い、慎重に進んだ。


 一歩。


 二歩。


 支柱が軋む。


 ツキハの糸が震える。


 ナマズの髭が、水面をなぞる。


 そのたびに、小さな波が足場を揺らした。


「サト、右足元が沈みます」


「分かった」


 サトは足を移した。


 直後、さっきまで踏もうとしていた浮遊材が水に沈んだ。


 冷たい汗が背中を伝った。


「助かった」


「観測継続します」


「頼む」


 サトはどうにか観測所の側面まで渡り切った。


 次はツキハだ。


 ツキハは月光糸を維持したまま、自分も渡らなければならない。


 外套の裾が風に揺れる。


 足場が細い。


「いけるか」


「可能です」


「無理なら言え」


「状態に注意します」


 ツキハは一歩踏み出した。


 糸を張り替えながら進む。


 まるで自分の足場を、自分で縫い止めるようだった。


 だが、半分ほど渡ったところで、ナマズが動いた。


 大きな尾が、水中で揺れる。


 波が来る。


「ツキハ!」


 サトが叫んだ。


 ツキハは反応した。


 月光糸を一本、近くの鉄骨へ伸ばす。


 波が足場を揺らした。


 ツキハの体が傾く。


 外套が水面に触れた。


 だが、糸が張った。


 ツキハはぎりぎりで踏みとどまった。


「問題ありません」


「問題ありそうに見えたぞ!」


「少しだけありました」


「少しじゃない!」


 ツキハは何とか渡り切った。


 肩で息をしている。


 指先が少し震えていた。


 サトはそれに気づいたが、今は何も言わなかった。


 最後は神威だ。


 問題は、神威が一番重いことだった。


 足場が耐えられるか分からない。


また、不安定な足場を歩いたせいか背中にある荷物の固定が若干ずれている


「きゅうん」


「荷物より自分の心配をしろ」


 神威は慎重に足場へ乗った。


 ぎしり、と音がした。


 サトの顔が引きつる。


「ゆっくりだ。絶対に跳ぶな」


「わぅ」


 神威は一歩進んだ。


 腹部パネルからは、弱い整流パルスが続いている。


 ナマズは動かない。


 ただ、こちらを見ている。


 金色の目。


 沼そのもののような目。


 神威は視線を合わせないようにしている。


 偉い。


 今回は本当に偉い。


 だが、足場の方が限界だった。


 神威が三歩目を置いた瞬間、支柱の下で何かが砕けた。


 ばきん、と嫌な音が響いた。


「神威、走れ!」


 サトが叫んだ。


 神威は走らなかった。


 代わりに、伸縮尻尾が伸びた。


 サトが預かっていた荷物に向かって。


「違う!」


 サトは叫んだ。


 足場が傾く。


 神威の前脚が滑る。


 だが神威は、自分の体ではなく、サトの工具袋を尻尾で引っかけた。


 工具袋が水に落ちる寸前で止まる。


 その代わり、神威の体が大きく傾いた。


「自分を先に守れ!」


「わぅ!」


 得意げに鳴くな。


 サトは咄嗟にピッケルを伸ばした。


 ツキハも月光糸を放つ。


 糸が神威の補助ブレースに絡む。


 サトのピッケルが首元の金具を引っかける。


 足場が沈む。


 水が跳ねる。


 神威の後ろ脚が水に浸かった。


「引け!」


「はい!」


 二人で同時に引いた。


 神威も必死に前脚を動かす。


 腹部パネルの光が乱れかける。


 ナマズの精霊獣が、ゆっくりと尾を動かした。


 大きな波が来る。


 終わった、と思った。


 だが、その波は足場を壊さなかった。


 逆に、神威の体を押し上げるように流れた。


 サトは目を見開いた。


 ナマズがこちらを見ている。


 金色の目は、怒っているようにも、呆れているようにも見えた。


「……通してくれてるのか?」


「敵対反応、低下」


 ツキハが息を詰めながら言った。


「おそらく、神威の行動を攻撃ではないと判断しました」


「荷物を守ったからか?」


「不明です。ただ……」


「ただ?」


「少し、呆れているように見えます」


「精霊獣にも呆れられたぞ、神威!」


「わぅ!」


「誇るな!」


 最後のひと引きで、神威の体が観測所側の足場へ転がり込んだ。


 金属の体が床にぶつかり、派手な音を立てる。


 神威はすぐに起き上がろうとして、右前脚を滑らせた。


「動くな!」


 サトは慌てて押さえた。


 ツキハも膝をつく。


 神威の脚。


 腹部パネル。


 尻尾。


 荷物。


 どれも濡れている。


 だが、沈んではいない。


 工具袋も無事だった。


 サトは深く息を吐いた。


「……助かった」


「はい」


 ツキハも小さく息を吐いた。


 神威は、尻尾で工具袋を差し出した。


 得意げだった。


 ものすごく得意げだった。


 サトはそれを受け取り、神威の頭を軽く叩いた。


「自分を先に守れ!」


「わぅ」


「褒めてない」


「わぅ?」


「いや、少しは褒めてる。でも順番が違う」


 神威は満足そうに口を開けた。


 サトは呆れながらも、少し笑ってしまった。


 そのとき、水面が再び揺れた。


 三人は身構えた。


 巨大なナマズの精霊獣が、ゆっくりと体を沈め始めていた。


 金色の目が、最後に神威を見た。


 神威は固まる。


 そして、小さく頭を下げた。


 礼のつもりらしい。


 ナマズは何も言わない。


 ただ、長い髭を水面に揺らし、そのまま濁った水の中へ消えていった。


 水面の波が、少しずつ落ち着いていく。


 葦原の音が戻る。


 鳥の声が戻る。


 沼は、何事もなかったかのように静かになった。


「……通っていいってことか」


 サトは呟いた。


「おそらく」


 ツキハは水面を見つめたまま言った。


「縄張りの中心を避けたため、通過を許されたのだと思います」


「許された、か」


 サトは濡れた工具袋を抱え直した。


 重い。


 だが、無事だ。


「沼って怖いな」


「はい」


「森より怖いかもしれない」


「比較は困難です」


「今は沼の方が怖い」


「記録します」


「しなくていい」


 神威が、わぅ、と鳴いた。


 サトは神威を見る。


 右前脚は無事そうだ。


 腹部パネルも閉じている。


 ただし、泥だらけだった。


「帰ったら洗うぞ」


「きゅうん」


「嫌そうな声を出すな。洗う」


 ツキハが小さく首を傾げる。


「帰る、とはカツザンですか。村ですか」


 サトは少しだけ黙った。


 それから、沼の向こうを見た。


 水と葦と沈んだ遺跡の先に、まだ見ぬ道が続いている。


「どっちでもいい。無事に着いた場所で洗う」


「適切です」


 サトは笑った。


「よし。もう少し進もう。ここで休むと、さっきのナマズの縄張りに近すぎる」


「はい」


「神威、歩けるか」


「わぅ」


 神威は立ち上がった。


 少し泥を飛ばした。


「こら、飛ばすな!」


「わぅ?」


「わざとじゃない顔をするな」


 サトは濡れた袖を振り、ツキハは外套についた泥を見つめていた。


「汚れました」


「旅だからな」


「旅は汚れますか」


「かなり汚れる」


「記録します」


「それは記録していい」


 三人は沈んだ観測所の側面を抜け、次の足場へ移った。


 背後では、壊れた支柱がゆっくりと水に沈んでいく。


 もう、戻る道はない。


 サトはそれを見て、少しだけ息を呑んだ。


 だが、すぐに前を向いた。


 大陸沼の東岸は、どこまでも湿っていた。


 水と葦と遺跡が入り混じり、歩くたびに別の音がする。


 森のように、木々が行く先を隠すわけではない。


 ここでは、遠くまで見える。


 見えるのに、どこが安全か分からない。


 それが怖かった。


 けれど、三人で渡れた。


 サトが地形と機械を読み。


 ツキハが月光糸で足場を支え。


 神威が、壊しそうで壊さず、守った。


 少し順番は間違えたが。


「神威」


「わぅ」


「さっきのは無茶だった」


「きゅうん」


「でも、助かった」


 神威の耳が立った。


「だから次は、自分も荷物も両方守れ」


「わぅ!」


「できるみたいな返事をするな。たぶん難しいぞ」


 ツキハが横から言った。


「神威なら、試みると思います」


「それが怖いんだよ」


 神威は胸を張った。


 背中の芽が、湿地の風に揺れる。


 沼の水面に、午後の光がきらめいていた。


 その向こうで、さっきのナマズのものかもしれない波紋が、ゆっくり広がって消えた。


 大陸沼の東岸。


 サトは濡れた工具袋を抱え直し、泥だらけの神威を見て、ため息をついた。


「まず今夜は、乾かすところを探さないとな」


「洗浄も必要です」


「言うな。分かってる」


「神威の防水処理も再確認が必要です」


「分かってる」


「サトの衣服も泥を含んでいます」


「それも分かってる」


 神威が、わぅ、と鳴いた。


 どこか楽しそうだった。


 サトは空を見上げた。


 峠の向こうにいた昨日より、空が広い。


 水の匂いが濃い。


 足元は頼りない。


 進む先も分からない。


 けれど、不思議と足は止まらなかった。


「行くぞ」


 サトは言った。


「ここで止まってたら、沼に飲まれる」


「はい」


「わぅ」


 三人は、湿地の細い足場を渡っていく。


 森を抜けた旅人たちの影が、水面に揺れていた。


神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。

神威もたぶん尻尾を振ります。

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