第47話 大陸沼の東岸(二)
鈍い音がする。
内部が空洞になっている。
「見た目より薄い。踏むと割れる」
「こちらは?」
ツキハが少し離れたパネルを指した。
水面に斜めに乗っている過去の太陽光集積装置。
表面は割れているが、枠は残っていた。
サトは近づき、ピッケルで叩いた。
今度は硬い音が返る。
「使える。けど滑るな」
「固定します」
ツキハが手を伸ばした。
細い月光糸が、パネルの枠と近くの鉄骨に絡みつく。
糸は光を帯び、ぴんと張った。
パネルの揺れが小さくなる。
「助かる」
「維持時間は長くありません」
「渡る間だけでいい」
サトが先に渡った。
足元が少し沈む。
水が跳ねる。
だが、割れない。
「次、ツキハ」
「はい」
ツキハは外套の裾を押さえながら、慎重に渡った。
最後に神威。
「ゆっくりだ。走るな。跳ぶな。匂いを嗅ぐな」
「わぅ」
「最後のは不満か?」
神威は不満げに鼻先を下げた。
だが、言われた通りゆっくり進んだ。
パネルがぎしりと鳴る。
神威の重さで少し沈む。
ツキハの月光糸が震えた。
「神威、止まるな。進め」
「わぅ」
神威は一歩、また一歩と進む。
渡り切った瞬間、尻尾を振った。
「よし。よくやった」
「わぉん」
「吠えるな」
そのときだった。
水面が揺れた。
最初は風かと思った。
だが違う。
葦原の向こうで、水が盛り上がっている。
ゆっくり。
大きく。
まるで、水の下から島が浮かび上がるように。
ツキハが顔を上げた。
「サト」
「ああ。分かってる」
水面の向こうで、巨大な背が現れた。
ぬめるような黒い体。
苔と水草をまとった皮膚。
左右に長く伸びる髭。
頭部は古い岩のように大きく、目は金色に光っている。
巨大なナマズだった。
ただの生き物ではない。
体の周りに、淡い精霊光が揺れている。
水がその巨体に逆らわず、むしろ従うように流れていた。
「沼の精霊獣……」
サトは小さく呟いた。
神威が低く唸りかけた。
サトは即座に首元を押さえた。
「唸るな」
「……わぅ」
「敵じゃない。たぶん」
ツキハが小声で言った。
「強い敵意はありません。ただし、警戒されています。おそらくここは縄張りの縁です」
「縁でこれか」
ナマズの精霊獣は、ゆっくりと体を動かした。
その動きだけで、水が押される。
足場に波が当たった。
太陽光パネルが揺れる。
鉄骨が軋む。
サトは思わず膝を曲げて踏ん張った。
「まずいな」
「攻撃されていますか」
「攻撃されなくても、足場が壊れる」
ナマズは進路を塞ぐように、沈んだ観測所の前に体を横たえた。
観測所は、沼の中に半分沈んだ建物だった。
上階だけが水から出ている。
そこを通れば、向こう岸の足場に抜けられる。
だが、その前を巨大なナマズが塞いでいる。
遠回りするには、水路が深すぎる。
戻るには、今渡ってきた足場が心もとない。
「サト、どうしますか」
「戦わない」
サトはすぐに言った。
「あれを怒らせたら終わりだ。俺たちは沼の上にいる。向こうの方が圧倒的に有利だ」
「では、回避ですか」
「回避したい。でも通らせてもらわないと進めない」
サトは周囲を見た。
沈んだ観測所。
壊れた橋。
パネル。
浮遊材。
鉄骨。
水の流れ。
ナマズの位置。
そして、精霊流。
見えないはずのものを、見ようとする。
サトはツキハほど精霊流を読むのが得意ではない。
それでも、観測士だ。
水面の揺れ、葦の傾き、精霊虫の飛び方、神威の反応。
それらから、異常を探る。
「……縄張りの中心じゃない」
「分かるのですか」
「あのナマズ、こっちを追い払いたいだけだ。たぶん、観測所の奥に近づかれたくない」
「奥に何かあります」
ツキハは目を細めた。
「小さい精霊反応があります。ただし、攻撃的ではありません」
「卵か、寝床か、古い依り代か」
「可能性があります」
「じゃあ、真正面から行くのは駄目だ」
サトは沈んだ観測所の側面を見た。
壊れた橋の残骸がある。
橋板は落ちているが、支柱はまだ残っている。
その上に、パネルや浮遊材が引っかかっていた。
危なっかしい。
だが、使えなくはない。
「右側の支柱を渡る。観測所の正面には近づかない」
「足場が不安定です」
「だから固定してくれ」
「了解しました」
ツキハが手を伸ばした。
月光糸が何本も伸びる。
支柱に絡み、浮遊材に絡み、割れたパネルの枠を押さえる。
光の糸が、湿地の風に震えた。
「維持できますか」
「長時間は不可能です」
「どのくらい」
「急げば、三人が渡る程度」
「十分だ」
サトは神威を見た。
「神威。腹部パネル、弱く開けるか」
「わぅ」
「威嚇じゃない。整えるだけだ。沼の精霊流を乱すな。弱くだ」
神威は真面目な顔になった。
腹部パネルが、かすかに開く。
淡い白い光がにじんだ。
いつもの強い忌避信号ではない。
もっと弱い。
水面のざわつきを抑えるような、細い脈動。
ナマズの金色の目が、神威を見た。
神威は固まった。
「怖がるな」
「きゅうん」
「怖いのは分かる。俺も怖い。でも動くな」
ナマズはすぐには動かなかった。
ただ、水面の波が少しだけ弱まった。
「効いてるのか」
「敵対反応は上昇していません」
ツキハが言った。
「神威のパルスは、沼の精霊流を乱していません。むしろ、こちらに敵意がないことを示しているようです」
「よし。今のうちに渡る」
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