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月から落ちた少女と、神に愛された機械狼  作者: 玄達瀬


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第46話 大陸沼の東岸(一)

峠を下り始めてから、森の匂いが変わった。


 土の匂いが薄くなった。


 代わりに、水の匂いが近づいてくる。


 湿った葉。


 腐りかけた葦。


 苔に沈んだ石。


 それから、古い鉄の錆びた匂い。


 サトは足元を確かめながら、斜面を下った。


 昨日の山道よりはましだった。


 だが、楽ではない。


 道は雨水で削られ、ところどころ小さな沢のようになっていた。


 神威はそのたびに足を止める。


 水が流れている場所をじっと見て、前脚を出し、引っ込める。


「神威」


「わぅ?」


「そんなに慎重にならなくても、そこは浅い」


 サトが言うと、神威はおそるおそる前脚を水に入れた。


 ぱしゃり、と小さな音がした。


 次の瞬間、神威は大げさに前脚を上げる。


「濡れただけだ」


「きゅうん」


「溶けない。お前は砂糖じゃない」


 ツキハが横から小さく首を傾げた。


「神威の外装は糖類ではありません」


「分かってる。たとえ話だ」


「たとえ話は、時々不正確です」


「正確すぎるたとえ話は、あんまり面白くないんだよ」


 ツキハは少し考えた。


「では、神威は砂糖ではないが、水に不安を示す個体です」


「それはただの説明だな」


「不適切ですか」


「いや、かなり正確ではある」


 神威は二人の会話など知らないという顔で、水の流れを避けながら歩いている。


 水際に弱い。


 正確には、神威の体そのものが水で壊れるわけではない。


 外装は古いが頑丈だ。


 内部にも最低限の防水処理はある。


 ただし、それは旧時代の基準での話だった。


 今の神威は継ぎはぎだらけだ。


 サトが修理した箇所も多い。


 むき出しに近い配線もある。


 右前脚の補助ブレースも、泥と水にはあまり強くない。


 川に落ちたり、沼に沈んだりすれば、ただでは済まない。


「……今日中に、簡単な防水処理はしておきたいな」


「必要ですか」


「大陸沼に近づくなら必要だ。昨日までみたいな森道とは違う」


「了解しました。水辺での行動時、神威の状態を優先観測します」


「頼む」


 サトはそう言って、前を見た。


 木々の密度が、少しずつ薄くなっている。


 枝葉の向こうが明るい。


 空が広くなっていく。


 そして、斜面を下り切ったところで、急に視界が開けた。


「……着いた」


 サトは思わず足を止めた。


 眼下に、巨大な沼が広がっていた。


 沼、と呼ぶには大きすぎる。


 湖、と呼ぶには形が壊れすぎている。


 そこには水面があり、葦原があり、浮き島があった。


 沈んだ道路の縁が細い線のように続き、建物の屋上だけが水から出ている。


 ところどころに、旧世界の太陽光パネルや鉄骨が、水面に斜めに突き出ていた。


 地面に見える場所が、本当に地面とは限らない。


 浮き草の下は深い水かもしれないし、泥かもしれないし、数百年前の屋根かもしれない。


 遠くには、旧世界の高い塔らしきものが斜めに傾き、半分ほど水に沈んでいた。


 そこに鳥が巣を作っている。


 水面は銀色に光り、風が吹くたびに葦がざわざわと揺れた。


「大陸沼だ」


 サトは言った。


「昔は湖だったらしい。今は、湖と森と遺跡が混ざってる」


 ツキハはじっと眺めていた。


 瞳に、広い水面の光が映っている。


「大陸、というには小さいです」


「昔の人がそう呼んだんだ。見た者には大陸みたいに見えたんだろ」


「観測者の主観ですか」


「たぶんな」


 神威も前に出た。


 水面を見て、耳を立てる。


 それから、足元の泥に前脚を置いた。


 ずるり、と滑った。


「おい!」


 サトは慌てて神威の首元を掴んだ。


 神威の体が傾く。


 背中の荷物が大きく揺れた。


 ツキハが反射的に手を伸ばす。


 細い精霊糸が伸び、神威の荷紐に絡んだ。


 神威はどうにか踏みとどまった。


 泥が跳ね、サトの服にかかった。


「……危ないだろ!」


「わぅ」


「お前、水に弱いんだから近づくな」


「わぅ?」


「興味だけで沈むな」


 神威は申し訳なさそうに耳を伏せた。


 だが視線はまだ水面へ向いている。


 反省はしている。


 好奇心は消えていない。


「最悪だな」


 サトはため息をついた。


「まず神威の処理をする。これ以上進む前に、右脚と腹側だけでも水を弾くようにする」


「手伝います」


「頼む」


     ◇


 大陸沼の東岸には、古い作業場の跡があった。


 かつては観測所か、湖岸管理施設だったのだろう。


 今は壁の半分が崩れ、床には泥が入り込み、天井からは植物の根が垂れている。


 それでも、風は避けられる。


 サトはそこで神威を座らせた。


「動くなよ」


「わぉん」


「絶対だぞ」


「わぉん」


「今の返事は信用できない」


 神威は少し不満そうに口を閉じた。


 サトは工具袋を開け、薄い樹脂膜の入った小瓶を取り出した。


 村での旅支度のとき、念のため持ってきたものだ。


 完全な防水材ではない。


 旧世界の外装保護剤を、今の観測院で使えるように薄めたものだ。


 金属の継ぎ目に塗れば、少しは水を弾く。


 長くは持たない。


 だが、一日か二日なら十分だ。


「右前脚、腹側、尻尾の根元。あと背中の荷紐周りも見ておくか」


「神威の口腔部は処理しなくてよいのですか」


「口から水に突っ込む予定はない」


 サトは言った。


 すると神威が目をそらした。


「おい」


「わぅ?」


「突っ込む予定がありそうな顔をするな」


 ツキハは神威の前にしゃがみ、真面目な顔で言った。


「神威。水中への突入は不適切です」


「わぅ」


「不適切です」


「きゅうん」


 神威は少しだけしょんぼりした。


 サトは処理剤を布に染み込ませ、右前脚の継ぎ目に塗り込んだ。


 泥を拭き、金具を締め直す。


 次に腹側のパネル周辺。


 腹部パネルは、神威の大事な機能のひとつだ。


 精霊獣が苦手とする信号を出すこともできるし、弱い整流パルスを出すこともできる。


 だが、ここに水が入り込むと厄介だった。


「神威、腹部パネルを少し開けろ」


「わぅ」


 神威の腹側が、かすかに駆動音を立てて開いた。


 サトは内部を覗き込む。


 古い機械部品。


 サトが継ぎ足した導線。


 ツキハが見つけた熱変換板。


 そして、どこから入り込んだのか分からない細い根のようなもの。


 神威の胸元から伸びている芽と同じ気配がする。


「……また増えてないか」


「増殖ではありません。馴染んでいます」


 ツキハが横から言った。


「馴染むなよ」


「精霊流との接続は安定しています」


「機械としては不安定なんだよ」


 サトはぼやきながらも、その根のようなものを傷つけないように処理剤を塗った。


 神威はくすぐったいのか、後ろ脚を小さく動かす。


「動くな」


「きゅうん」


「我慢しろ」


 処理が終わるころには、昼を少し過ぎていた。


 雲が流れ、湿地に日が差す。


 水面が眩しく光る。


 遠くで、大きな何かが跳ねる音がした。


 ばしゃん、という低い音。


 神威が即座に耳を立てた。


「行かない」


「わぅ」


「今のは返事じゃなくて未練だ」


 サトは荷物をまとめた。


「先へ進むぞ。ここからは足元をよく見る」


「はい」


「神威は俺の後ろ。勝手に水辺へ寄るな」


「わぅ」


「ツキハは精霊流の乱れを見てくれ。」


「了解しました」


 三人は、湿地の東岸を進み始めた。


     ◇


 道は、道ではなかった。


 沈んだ湖岸道路。


 建物の屋上。


 倒れた標識。


 水面から突き出た太陽光パネル。


 浮き草に覆われた鉄骨。


 それらが、かろうじて線のようにつながっているだけだった。


 サトは何度も足を止めた。


 泥の色を見る。


 水の流れを見る。


 古い構造物の傾きを見る。


 踏める場所と、踏んではいけない場所を見分ける。


「ここは駄目だ」


 サトは半分水に浸かった床をピッケルで叩いた。



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