第45話 峠の古道(三)
神威は不満げに耳を伏せた。
ツキハは東の空を見ていた。
夕暮れの色が薄くなり、上空には一番星が出始めている。
いや、星ではないものもあるのかもしれない。
旧世界の衛星。
壊れた観測端末。
落ちずに残った残骸。
サトには見分けられなかった。
ツキハは、胸元の月片に手を添えた。
「ツキハ?」
サトが声をかけると、ツキハは少し遅れて振り向いた。
「はい」
「大丈夫か」
「状態に変化があります」
「どんな」
「空を見ていると、記録の断片が戻ります」
サトは黙った。
焚き火の夜に、ツキハは話していた。
姉たち。
人造神。
願い。
そして、欠けた記憶。
「話せるか」
「断片的です」
「それでいい」
ツキハは東の空を見上げた。
「月から地球付近までは、予定進路内でした」
その声は静かだった。
だが、昨日よりも少し遠くを見ている声だった。
「月竹は、地球周辺の観測点まで問題なく到達していました。軌道補正も正常。精霊圏感応も安定。地上降下は、予定通りに行われるはずでした」
「じゃあ、何が起きた」
「衛星軌道上に残された月地球間補正進路誘導端末から、異常信号を受け取りました」
聞き慣れない名前だった。
だが、言葉の意味は何となく分かる。
月と地球の間を移動する機体に、進路を教えるための古い端末。
旧世界なら、そんなものが空に残っていてもおかしくない。
「そのルナ・リレーっていうのは、本来は安全なものなんだよな」
「はい。本来は、月と地球の間を移動する機体に補正信号を送る端末です。航行誤差を修正し、降下角度を調整し、精霊圏との干渉を抑制します」
「でも、壊れてた」
「おそらく」
「おそらく?」
ツキハは少しだけ眉を寄せた。
「完全な故障ではありませんでした。信号は出ていました。形式も、誘導信号に近いものでした」
「じゃあ、何が異常だったんだ」
「誘導ではありませんでした」
風が吹いた。
峠の上の草が、さわさわと揺れる。
「呼び声のようでした」
ツキハは言った。
「呼び声?」
「はい。正しい進路を示す信号ではなく、何かを願うような信号でした」
サトは空を見上げた。
夕暮れの空。
そこに、壊れた端末がある。
誰にも見えない場所で、何百年も信号を出し続けている。
それを想像すると、少しだけ背筋が冷えた。
「それで月竹は制御を失ったのか」
「はい。航行制御が乱れました。月との通信も不安定になりました。精霊圏感応にも、予期しない干渉が発生しました」
「それで、地上に落ちた」
「はい」
ツキハは胸元の月片を握った。
「ですが、墜落という表現が完全に適切かは分かりません」
「どういうことだ」
「落とされたのか、呼ばれたのか、逃げたのか。判断できません」
サトは言葉を失った。
落とされた。
呼ばれた。
逃げた。
それぞれ意味が違いすぎる。
「誰に呼ばれたんだ」
「分かりません」
ツキハは小さく首を振った。
その声は、少しだけ震えていた。
サトは何も言えなかった。
その言葉には、覚えがあった。
ツキハが以前にも似たようなことを言っていた気がする。
誰にも聞こえない声。
誰にも届かない声。
それはツキハ自身のことなのか。
月にいる誰かのことなのか。
それとも、空に残された壊れた端末のことなのか。
サトには分からなかった。
神威が、きゅうん、と鳴いた。
珍しく、静かな声だった。
サトは神威の頭に手を置いた。
金属の頭は少し冷えていた。
だが、内側には確かに熱がある。
「ツキハ」
「はい」
「その声が、まだ聞こえるのか」
ツキハは空を見上げたまま、少しだけ目を細めた。
「今は、聞こえません」
「そうか」
「ですが、月が高くなれば、また断片が戻る可能性があります」
「無理に思い出さなくていい」
「情報は必要です」
「必要でも、無理に思い出すな」
ツキハがサトを見た。
「不適切ですか」
「不適切かどうかは分からない。でも、苦しそうに見える」
ツキハは黙った。
しばらくして、小さく頷いた。
「状態に注意します」
「それでいい」
サトは東の空から視線を戻した。
大陸沼の方角は、夕闇に沈み始めている。
明日からは、森の道ではなくなる。
湿地。
水。
沈んだ旧都市。
そして、人目を避けるための遠回り。
「今日は、この観測塔跡で野営しよう」
「安全ですか」
「完全には分からない。でも、下るよりはましだ。暗くなってから山道を下る方が危ない」
「適切です」
神威が、わぅ、と鳴いた。
「お前はもう歩きたくないだけだろ」
「わぅ」
「正直でよろしい」
サトは荷を下ろした。
風を避けられる場所を探し、崩れた壁の内側に寝床を作る。
ツキハは周囲の精霊流を観測する。
神威は一応、見張りの位置についた。
ただし、座った瞬間に尻尾の動きが鈍くなった。
かなり疲れている。
「今日はよく歩いたな」
サトが言うと、神威は胸を張ろうとして、途中で小さく軋んだ音を立てた。
「無理するな」
「きゅうん」
「明日、脚をもう一度見る」
神威の尻尾が少し揺れた。
夕闇が濃くなる。
西の森は黒く沈み、東の低地には薄い霧が広がっていく。
空には、月が昇り始めていた。
ツキハはその月を見ていた。
サトは何も言わなかった。
ただ、焚き火の準備をしながら、ふと思った。
村を出てまだ二日だ。
それなのに、もうずいぶん遠くまで来たような気がする。
森都キョウの外へ。
知っている道の外へ。
そして、ツキハの記憶の奥へ。
旅はまだ始まったばかりだった。
だが、サトにはもう分かっていた。
この旅は、ただカツザンへ向かうだけの旅ではない。
月から落ちた少女が、何を探しているのか。
そして自分が、どこまで隣にいられるのか。
それを確かめる旅になる。
焚き火に火がついた。
峠の風が、火の粉を夜へ運んでいく。
その向こうで、神威が小さく鳴いた。
「わぅ」
まるで、大丈夫だと言うように。
サトは少しだけ笑った。
「そうだな。まずは明日だ」
峠の古道に、夜が降りた。
空には月。
東には大陸沼。
西には、もう見えない村。
三人はその境目で、二度目の夜を迎えた。




