第43話 峠の古道(一)
翌朝、森は昨日よりも深くなっていた。
いや、深くなったように感じただけかもしれない。
木々の種類が少し変わっている。
幹は太く、根は地面の上を這い、枝葉は空を覆うように重なっていた。
森都キョウの西外れにある村の周辺にも森はある。
けれど、そこはまだ人の手が入っている森だった。
薪を拾う者がいる。
観測士が通る。
獣除けの札が打たれている。
古い道も、かすかに残っている。
だが、今歩いている森は違った。
人が遠慮しながら通らせてもらっている。
そんな感じがした。
「……道、細くなってきたな」
サトは足元を見ながら言った。
昨日まで辛うじて続いていた獣道は、朝になってからほとんど消えかけている。
苔に覆われた石。
根に押し上げられた土。
半分沈んだ古い舗装材。
それらを頼りに、サトは進む方向を見極めていた。
神威はその横を歩いている。
右前脚の補助ブレースが、昨日より少し大きな音を立てていた。
山道に入ったせいだ。
平地では問題なくても、傾斜が続くと負担が出る。
「神威、止まれ」
「わぅ?」
「脚を見る」
サトが言うと、神威は素直に腰を下ろした。
ただし、尻尾だけは少し揺れている。
診てもらえるのが嬉しいのかもしれない。
サトは膝をつき、右前脚の補助ブレースに触れた。
金具が少し熱を持っている。
摩耗もある。
まだ危険なほどではないが、このまま峠道を登り続ければ、夕方にはずれるかもしれない。
「やっぱり負担が出てるな」
「神威の歩行機構に異常ですか」
ツキハが隣にしゃがんだ。
「異常ってほどじゃない。けど、山道用の調整がいる」
「山道用」
「ああ。平地と同じ歩き方をすると、右脚だけ先に痛む」
「痛む、ですか」
ツキハは神威の脚を見つめた。
機械の脚。
金属と人工筋肉と古い配線。
そこに、サトの修理跡がいくつも重なっている。
「神威は痛覚を持っていますか」
「分からん」
サトは工具袋から細いレンチを取り出した。
「ただ、嫌なときは嫌そうにする。動かしにくいときは不安そうにする。だから、痛いに近いものはあるんだと思う」
「観測に基づく推測ですね」
「まあな」
サトは金具を緩め、角度を変えた。
右前脚の補助ブレースを、少しだけ外側に逃がす。
傾斜でかかる力を分散するためだ。
完璧ではない。
だが、何もしないよりはましだ。
「よし。立ってみろ」
「わぅ」
神威は慎重に立ち上がった。
前脚を一度上げ、地面に置く。
もう一度上げる。
少し首を傾げる。
そして、尻尾を大きく振った。
「良さそうか」
「わぉん!」
「よしよし。吠えるな。山で響く」
サトがそう言うと、神威は慌てて口を閉じた。
その様子を見て、ツキハが小さく瞬きをした。
「神威は、注意を理解しています」
「都合のいい注意だけな」
「都合の悪い注意は?」
「聞こえないふりをする」
「高度です」
「褒めるな」
神威は少し得意げに胸を張った。
胸元の芽が、山の冷たい風に揺れた。
◇
昼前になると、森の中に古い石段が現れた。
苔と根に覆われているが、明らかに人の手で作られたものだった。
段の幅は広い。
ところどころ崩れている。
その脇には、折れた柱のようなものが立っていた。
近づくと、それが古い街道灯だと分かった。
精霊科学文明期のものだ。
上部の発光部は砕け、内部の導線は植物の根に飲み込まれている。
それでも、支柱には薄く文字が残っていた。
「旧街道か」
サトはピッケルを手に取り、先端の小さな端子を街道灯に接続した。
古い回路が生きていれば、断片的な記録くらいは読めるかもしれない。
ピッケルの柄に埋め込んだ表示板が、弱く光った。
文字が流れる。
ほとんどは破損していた。
だが、いくつか読める。
「……森都キョウ、東外縁連絡路。峠管理区画。通行制御、停止中」
「停止中、ということは現在は管理されていないのですね」
「そうだな。数百年くらい停止中だと思う」
「長期停止です」
「長期すぎるな」
サトは端子を抜いた。
神威が街道灯の匂いを嗅いでいる。
金属と苔と古い油の匂いがするのだろう。
「食べるなよ」
「わぅ?」
「なんで心外そうなんだ」
神威は不満げに耳を伏せた。
ツキハは街道灯ではなく、石段の奥を見ていた。
「この道の先に、峠があります」
「分かるのか」
「精霊流の向きが変わっています。ここから先は、森都キョウの周辺域から外へ抜ける境目です」
サトは少しだけ黙った。
境目。
その言葉は、思ったより胸に残った。
昨日、村を出た。
だが、まだ森都キョウの気配は残っていた。
知っている木々。
知っている湿り気。
知っている鳥の声。
けれど、この峠を越えれば、それも薄れていくのだろう。
「……行くか」
サトは言った。
「はい」
「わぅ」
三人は石段を登り始めた。
◇
峠道は、思った以上に険しかった。
石段は途中で崩れ、そこから先は斜面に沿って伸びる細い道になった。
右側は森。
左側は谷。
谷の底には白い霧が溜まっている。
落ちれば、ただでは済まない。
「神威、谷側に寄るな」
「わぅ」
「ツキハも足元気をつけろ」
「はい。観測しています」
「観測してても転ぶときは転ぶ」
「経験則ですか」
「そうだ」
サトは短く答えた。
実際、何度か転びかけたことがある。
観測院の仕事で山に入れば、足元の注意を怠っただけで怪我をする。
旧世界の機械より、ただの濡れた石の方が危ないこともある。
神威は慎重に歩いていた。
だが、慎重すぎて時々止まる。
止まっては谷を覗く。
そして耳を立てる。
「何かいるのか?」
「わぅ」
神威は谷底を見ている。
サトも目を凝らした。
霧の中で、何かが光った。
精霊虫ではない。
もっと大きく、ゆっくりした光。
複数ある。
「精霊獣か?」
サトが呟くと、ツキハが静かに頷いた。
「谷底に小型の群れがいます。敵意はありません」
「じゃあ、刺激しないで通る」
「適切です」
神威が、わぅ、と小さく鳴いた。
「お前も吠えるなよ」
神威は口を閉じた。
分かりやすい。
やがて道は、古い展望所のような場所に出た。
山の中腹に作られた小さな広場だった。
半分崩れた石の欄干。
苔に沈んだ案内板。
根に抱かれた古いベンチ。
その奥に、一本の道標が立っていた。
石と金属を組み合わせた古い標識だ。
表面には、旧世界の文字と、精霊科学文明期の観測記号が混ざって刻まれている。
文字は風化していたが、完全には消えていない。
「道標だ」
サトは近づいた。
指で苔を払う。
古い文字が現れる。
「読めますか」
「少しなら」
サトは目を細めた。
西。
森都キョウ。
東。
大陸沼。
北。
鈴音鹿都。
南。
精霊深津峡。
かなり古い地名も混ざっている。
今でも使われているものもあれば、もう誰も呼ばなくなったものもある。
「森都キョウは西。大陸沼は東。北へ行くと鈴音鹿都。南は……精霊深津峡か」
「目的地はカツザンです」
「ああ」
サトは荷袋から地図を取り出した。
村長が持たせてくれた古い地図だ。
新しい道は少ない。
古い道はもっと信用できない。
それでも、何もないよりはずっといい。
サトは地図を石の上に広げた。
ツキハが横から覗き込む。
神威も覗き込む。
「神威、お前は地図読めないだろ」
「わぅ」
「読めるみたいな顔をするな」
神威は尻尾を振った。
サトは地図の一点を指した。
「今いるのがこのあたり。森都キョウの外縁を南東へ回って、峠に入った。ここから普通に北へ抜ければ、鈴音鹿都を経由してカツザン方面へ向かえる」




