第42話 森を抜ける道(三)
森の奥で、精霊虫らしき淡い光がひとつ浮かんだ。
神威の尻尾がぴくりと動く。
「探し物があります」
ツキハは言った。
「何を?」
「……姉を」
そこで、言葉が止まった。
ツキハは眉をわずかに寄せた。
自分の言葉が、自分でも正しいか分からない。
そんな顔だった。
「おそらく、人ではありません。けれど、私にとっては姉たちです」
「姉たち」
サトはその言葉を繰り返した。
初めて聞く言葉だった。
ツキハに姉がいる。
いや、いると言っていいのかも分からない。
人ではない。
けれど、姉。
サトは問い返したいことがいくつも浮かんだ。
だが、急かさなかった。
ツキハ自身も、まだ言葉を探しているように見えたからだ。
「私は、姉たちを探すために地上へ来ました」
ツキハはゆっくり続けた。
「姉たちは、人造神について情報を集めていました」
その言葉を聞いた瞬間、サトの背筋が固くなった。
人造神。
知っている。
知らないはずがない。
観測院に属する者なら、誰もがその名を知っている。
旧世界を滅ぼした神々。
正確には、旧人類が造り、制御できなくなった神に近い存在。
神蝕戦争。
精霊科学文明崩壊。
侵食獣。
狂機。
今の世界に残る多くの傷跡は、その名とどこかでつながっている。
けれど、それは村の若い観測士が、焚き火の前で気軽に扱っていい言葉ではなかった。
「……人造神の情報を、なんで」
「分かりません」
ツキハは首を横に振った。
「記憶が欠けています。姉たちの名前も、正確な人数も、目的も、すべてが完全ではありません」
「覚えてないのか」
「はい。ですが、姉たちは地上に関する何かを調べていました。人造神に関する情報。古い神々に関する情報。精霊圏に関する情報」
サトは黙って聞いていた。
焚き火の音だけが続く。
「私は、それを探すために来ました」
「誰かに命令されたのか」
ツキハは目を伏せた。
「命令、という形式ではありません」
「じゃあ、自分で決めた?」
「それも、完全には適切ではありません」
「どういうことだ」
「誰かが、探していました。誰かが、知りたがっていました。誰かが、もう一人になりたくないと願っていました」
サトは眉を寄せた。
「それは、ツキハのことか?」
ツキハは答えなかった。
代わりに、胸元の月片を握った。
「分かりません」
その声は、とても小さかった。
「私は、その願いの一部です。けれど、願った本人なのか、願いから生まれたものなのか、まだ判断できません」
サトは何も言えなかった。
分からないことが多すぎる。
月。
姉たち。
人造神。
願い。
ツキハ自身の記憶の欠落。
どれも大きすぎて、今のサトには掴めない。
だが、ひとつだけ分かることがあった。
ツキハは平気ではない。
自分が何者かも分からないまま、地上に落ちてきた。
探し物が何かも曖昧なまま、それでも探さなければならないと思っている。
それは、ひどく心細いことのはずだった。
「ツキハ」
「はい」
「今の話、全部分かったわけじゃない」
「はい」
「たぶん、俺に分からないことの方が多い」
「はい」
サトは、そこで一度言葉を止めた。
本当なら、言いたかった。
最後まで一緒に行く。
お前が探しているものが何であっても、見つかるまで隣にいる。
そう言えたら、どれだけよかっただろう。
だが、言葉は喉の奥で止まった。
ツキハの話は、あまりにも大きかった。
月から来た少女。
人造神を探す姉たち。
古い神々。
精霊圏の損傷。
それは、村の観測士が工具袋を背負ってどうにかできる話なのか。
サトは戦士ではない。
剣もろくに扱えない。
侵食獣に出会えば、今でも足がすくむ。
神威を修理することはできる。しかし、完璧ではない。
古い機械を読むことも、森の異常を観測することもできる。
けれど、ツキハがこれから向かう場所には、本当はもっと強い護衛が必要なのではないか。
カツザンに着けば、腕の立つ者がいるかもしれない。
熟練の腕をもった観測士がいるかもしれない。
人造神の記録に詳しい者がいるかもしれない。
自分よりずっと、ツキハの隣にふさわしい者がいるかもしれない。
そう思うと、胸の奥が少し痛んだ。
離れたいわけではない。
むしろ、離れたくなかった。
だからこそ、自分が隣にいていいのか分からなかった。
「サト?」
ツキハが小さく呼んだ。
サトは顔を上げた。
焚き火の向こうで、ツキハがこちらを見ている。
不安そうではない。
ただ、答えを待っていた。
サトは小さく息を吐いた。
「……カツザンに着くまでは、一緒だ」
それが、今のサトに言える精一杯だった。
ツキハがわずかに首を傾げる。
「カツザンに着いてからは、不明ですか」
サトは苦笑した。
やはり、そこを聞くのか。
「そこは……着いてから考える」
「不確定です」
「ああ。不確定だ」
サトはピッケルの柄を握った。
「でも、少なくともカツザンまでは俺が案内する。神威もいる。道中で壊れたら直す。迷ったら地図を読む。危ないものがあれば、できるだけ避ける」
「はい」
「それ以上のことは、今の俺には約束できない」
言ってから、サトは少しだけ悔しくなった。
格好のいい言葉ではなかった。
頼もしい言葉でもなかった。
けれど、嘘ではない。
ツキハはしばらく黙っていた。
それから、小さく頷いた。
「適切です」
「そうか?」
「はい。できない約束をしないことは、信頼に値します」
サトは目を瞬かせた。
そんなふうに受け取られるとは思わなかった。
「……そりゃどうも」
「それに」
ツキハは胸元の月片から手を離した。
「私は、サトに案内してほしいです」
サトは返事に詰まった。
神威が、わぅ、と小さく鳴いた。
まるで同意するように。
「お前は分かって鳴いてるのか?」
「わぅ」
「絶対分かってないだろ」
神威は得意げに尻尾を振った。
その尻尾の先に、淡い光が止まった。
精霊虫だった。
小さな光の粒のような虫が、神威の尻尾の先でふわりと揺れている。
神威は固まった。
動くと逃げると思っているらしい。
サトは思わず笑った。
「番をしろって言っただろ」
「きゅうん」
「精霊虫の方から来た場合はどうするんだ、みたいな顔をするな」
ツキハが静かに言った。
「命令ではありません。好意です」
「だから分かってるって」
「好意は、拒絶すると損傷する場合があります」
「精霊虫が傷つくのか?」
「神威がです」
神威が、わぅ、と鳴いた。
とても納得した声だった。
「お前は都合のいい時だけ理解するな」
サトは呆れながらも、神威の尻尾に止まった精霊虫を見た。
淡い光。
森の中を漂う、小さな精霊のかけら。
それが神威の金属の尻尾に止まっている。
機械と精霊。
旧世界の残骸と、新しい森。
その境目に、神威はいる。
そして今、その隣にツキハがいる。
月から落ちてきた少女。
自分が何者かも分からないまま、誰かを探している少女。
サトは焚き火に枝を足した。
火の粉が夜へ昇る。
村はもう見えない。
けれど、完全に遠ざかったわけでもない。
ロッカの言葉。
村長の紹介状。
ガラの路銀。
ツキハが残した紙の束。
全部が、まだ背中にある。
「明日はもっと森の奥へ入る」
サトは言った。
「二日は街道に出ない。人目を避けて、南東へ回る」
「了解しました」
「神威、明日は勝手に精霊虫を追うなよ」
「わぉん」
「その返事、信用できないな」
神威は口を開けて笑った。
その胸元で、小さな芽が焚き火の光を受けて揺れていた。
森の夜は深い。
けれど、火は消えていない。
二人と一匹の最初の夜は、そうして静かに過ぎていった。




