第40話 森を抜ける道(一)
村の門は、すぐに見えなくなった。
朝の森は薄く霞んでいた。
湿った土の匂い。
葉の裏から落ちる雫の音。
遠くで鳴く鳥の声。
いつもなら、何も特別ではない音だった。
けれど今は、そのひとつひとつが妙に耳に残る。
サトは荷紐を肩に掛け直した。
背には工具袋。
腰には父のピッケル。
荷袋の奥には村長から預かった紹介状と、護身用のグレネードが入っている。
どれも重かった。
けれど、一番重いのは荷物ではなかった。
後ろにあるはずの村。
そこに置いてきたものの重さだった。
「……神威」
サトが低く呼ぶと、少し前を歩いていた神威がぴたりと止まった。
そして、また振り返った。
これで何度目だろう。
神威の耳のような可動部が、村の方角へ向いている。
伸縮する尻尾の根元が、かたかたと小さく鳴っていた。
嬉しいときの揺れではない。
不安なときの震えだ。
「振り返るな」
サトは、なるべく軽い声で言った。
「俺まで振り返りたくなる」
「きゅうん」
神威は情けない声を出した。
サトは苦笑しそうになって、できなかった。
分かっている。
神威だって、あの村に長くいたわけではない。
それでも、あの村はもう、ただの通り道ではなかったのだ。
「行くぞ。ここで立ち止まってたら、村長に怒られる」
「わぅ」
「そうだ。たぶん俺が怒られる」
神威は少しだけ耳を立てた。
納得したらしい。
そこは納得しなくていい。
サトが歩き出すと、神威も並んで歩き出した。
右前脚の補助ブレースが、土を踏むたびに小さく鳴る。
以前よりずっと安定していた。
だが、完全ではない。
旅の途中で何度も調整が必要になるだろう。
サトは神威の歩き方を横目で確認した。
少し右に重心が逃げる。
荷物を背負わせすぎると危ない。
今日のところは、工具の一部だけにしておいて正解だった。
「サト」
後ろから、静かな声がした。
ツキハだった。
村で用意してもらった外套を羽織っている。
元の薄い衣を覆うためのものだが、どうしても月光のような布のきらめきが隙間から見える。
目立たないための外套なのに、かえって目を引く。
サトはそのことを指摘しようとして、やめた。
今言ってもどうにもならない。
「どうした」
「この道は、森都キョウへ向かう道ではありません」
「ああ」
「方角が南東へずれています」
「村長に言われただろ。しばらく迂回する。森都キョウへまっすぐ向かわない」
「追跡を避けるため、ですね」
「そういうことだ」
ツキハは頷いた。
だが、表情はあまり変わらない。
不安そうには見えなかった。
少なくとも、表面上は。
サトは少しだけ視線を下げた。
ツキハの手が、胸元に触れている。
そこには、月片がある。
彼女が大切にしている、小さな月の欠片。
ツキハは、それに何度も指を添えていた。
無意識なのだろう。
本人は気づいていないかもしれない。
サトは、その仕草を見て初めて、少し安心した。
平気なわけではない。
不安がないわけでもない。
ただ、彼女はそれを言葉にしていないだけなのだ。
「疲れたら言えよ」
「問題ありません」
「問題あるときほど、お前はそう言いそうだから信用できない」
「不適切ですか?」
「不適切っていうか、危ない」
ツキハはしばらく考え込んだ。
「では、状態に変化があった場合は報告します」
「それでいい」
「サトも、状態に変化があれば報告してください」
「俺?」
「はい。先ほどから、呼吸が浅いです」
サトは言葉に詰まった。
神威が、わぅ、と鳴いた。
まるで同意するように。
神威は少し得意げに胸を張った。
背中と胸元の小さな芽が、ぴこりと揺れた。
「……先に進むぞ」
サトはそう言って歩き出した。
◇
村を出てから半日ほどは、細い獣道を進んだ。
正規の街道ではない。
森都キョウ周辺の観測士が、古い調査のために使う裏道だ。
人通りはほとんどない。
その代わり、道は悪い。
根が地面を這い、倒木が道を塞ぎ、古い標識は苔に埋もれている。
神威は何度か倒木を飛び越えようとして、サトに止められた。
「跳ぶな。脚に負担がかかる」
「わぅ」
「不満そうな声を出すな。お前の右脚、まだ仮修理だからな」
神威は倒木の前でしゃがみ、渋々くぐった。
背中の荷物が枝に引っかかり、がたん、と音を立てる。
「ああ、もう。止まれ」
サトは神威の荷紐を外し、枝から荷袋を引き抜いた。
中身を確認する。
簡易寝具。
水袋。
小型工具。
保存食。
異常なし。
「ほら、こうなるだろ」
「きゅうん」
「反省してる顔はうまいな」
神威は耳を伏せた。
だが尻尾は少しだけ揺れている。
反省しているのか、構ってもらえて嬉しいのか分からない。
たぶん後者だ。
ツキハはその様子をじっと見ていた。
「サトは、神威の行動をよく理解しています」
「そうか?」
「はい。神威は言葉をほとんど発しません。しかし、サトは多くを読み取っています」
「長く修理してると、何となく分かるだけだ」
「それは、観測ですか?」
サトは荷紐を結び直しながら、少し考えた。
「観測、なのかもしれないな」
「では、神威は観測対象ですか」
「違う」
返事はすぐに出た。
自分でも少し驚くほど早かった。
ツキハが目を瞬かせる。
「違うのですか」
「違う。神威は……」
サトは神威を見た。
神威は自分の荷物を直してもらい、嬉しそうに口を開けている。
いつものように、舌はない。
機械の口腔部から、微かな駆動音がしているだけだ。
それでも、どう見ても笑っていた。
「神威は、神威だ」
「定義としては不明瞭です」
「だろうな」
「しかし、サトにとっては適切なのですね」
「ああ」
ツキハは小さく頷いた。
「記録します」
「何を?」
「神威は、神威」
「それ記録するほどのことか?」
「重要です」
ツキハは真面目な顔で言った。
サトは少しだけ笑った。
胸の奥に残っていた重さが、ほんの少しだけ軽くなった気がした。
◇
日が傾くころ、三人は森の中の小さな窪地に着いた。
古い街道の休憩所跡だ。
石組みの井戸は崩れ、屋根は落ち、柱だけが苔に覆われて残っている。
だが、風は避けられる。
焚き火の跡もあった。
ここなら野営できる。
「今日はここまでだな」
サトは荷を下ろした。
神威も真似して腰を下ろす。
その拍子に、背中の荷袋がずり落ちた。
「だから急に座るなって」
「わぅ」
「返事はいい」
ツキハは周囲を見回した。
「精霊流は安定しています。侵食獣の残響は、近くにはありません」
「助かる」
「ただし、南側の林に小型の精霊反応が多数あります」
「精霊虫か?」
「おそらく」
その言葉を聞いた瞬間、神威の耳がぴんと立った。
サトはすぐに神威の頭を押さえた。
「行くな」
「わぅ?」
「まだ何も言ってないみたいな顔をするな。行く気だっただろ」
神威は目をそらした。
機械なのに、目をそらしたように見える。
「番をしろ。遊ぶな」
「わぅ」
「精霊虫に好かれてるからって、ついていくな。迷子になられると困る」
「好意で迷子」
ツキハはその言葉を繰り返した。
「不思議な状態です」
「神威にはよくある」
神威は少し得意げに胸を張った。
「褒めてない」
「わぅ?」
サトはため息をつき、焚き火の準備を始めた。
落ちている枝を拾う。
乾いた葉を集める。
火打ち石を取り出す。
ツキハがすぐ横にしゃがみ込んだ。
「手伝います」




