第37話 龍都カツザンへ(二)
この村は良い村だ。
けれど、強い村ではない。
ここは平和で小さな村だ。それ故に小さな侵食獣一体でも大変な騒ぎになる。徘徊する旧世界の機械にも怯える始末だ。
ツキハを守りきれる保証など、どこにもなかった。
沈黙が流れた。
ツキハは何かを言いかけた。
しかし、言葉は出なかった。
村長は少しだけ表情を緩めた。
「それにな、ツキハ殿。これはこれで、よいきっかけではないですかな」
ツキハが顔を上げる。
「どのみち、長くこの村にいるつもりはなかったのでは」
今度はサトが驚く番だった。
「なっ……ツキハ、そうなのか」
ツキハは答えなかった。
サトは胸の奥がざわつくのを感じた。
勝手に思っていた。
この日々が、もう少し続くのだと。
修理小屋で神威の調整をして、ツキハが横から意味の分からない助言をして、神威が余計な機能を展開して、サトが怒る。
そんな日常が続くのだと。
ツキハがいつか出ていくかもしれない。
考えれば当たり前のことだった。
彼女は月から来た。
何か理由があるに決まっている。
それなのに、サトは考えていなかった。いや、考えないようにしていたのか。
「月からわざわざお越しになったのじゃ。観光でなければ、何かやんごとなき理由がおありでしょう」
場を和ませようとしたのか、村長はわずかに笑った。
ツキハは胸元に手を当てた。
そこには、ちいさな装飾品がある。
欠けてひびの入った、月の欠片のような石。
灯りを受けて、淡く光った。
「探さなければならないものがあります」
ツキハは小さな声で言った。
「しかし、まだ方向すら掴めていません」
「探し物……」
サトは聞き返した。
ツキハはうなずいた。
けれど、それ以上は言わなかった。
言えないのか。
言いたくないのか。
サトには分からなかった。
分からないことが、少しだけ悔しかった。
「でしたら、どうですかな」
村長が言った。
「とりあえず、サトと神威を連れて行くというのは」
ツキハが顔を上げる。
「サトは幼い頃から見てきました。多少、口が悪いところはありますが、観測士としての腕はよい。機械にも強い。遺跡歩きも慣れておる。きっと役に立ちます」
「…多少ってなんですか」
「だいぶ、に訂正するか?」
「多少でお願いします」
村長は鼻で笑った。
「神威もおる。まだ壊れかけではあるが、ただの機械狼ではない。ツキハ殿も、それはご存じでしょう」
神威が胸を張った。
背中の芽が揺れた。
ツキハは俯いた。
サトも、すぐには言葉が出なかった。
探し物とは何だ。
どうして言ってくれなかった。
いつ出ていくつもりだった。
俺たちは、少しは仲間になれたんじゃなかったのか。
そんな言葉が、喉元まで上がってくる。
だが、口にすればツキハを責めることになりそうで。
ツキハは責められるようなことをしたわけではない。
ただ、言えなかっただけだ。
出会ってまだ半月ほどしか経っていない。
それなのに、自分だけが当たり前のように一緒にいるつもりでいた。
そのことに気づいて、サトはますます言葉を失った。
ふた呼吸ほど間が空いた。
やがて、ツキハが小さく言った。
「……ないのです」
サトは顔を上げた。
「サトと神威についてきてほしい。そう思う気持ちは、あります」
ツキハの声は震えていた。
「けれど、危険な旅です。私についてくる利点など、ありません。不適切です」
彼女は自分の指をぎゅっと握った。
「今の話も、そうです。私がこの村を出ていけばよいだけの話です。ここは、とても暖かい村です。住民は優しく、仕事もあります。サトも、神威も、慕われています」
サトは黙って聞いていた。
「サトと神威は、村に――」
「ツキハ」
サトは、その言葉を遮った。
ツキハがこちらを見る。
その瞳は、不安げだった。
初めて会ったときのように、どこか遠くを見ている目ではなかった。
今、目の前のサトを見ていた。
「一緒に行こう」
ツキハの目が大きく開かれた。
けれど、すぐに耐えるように唇を結ぶ。
「サト。危険です」
「ああ。自慢じゃないが、俺は弱っちいからな」
「自覚があるのは適切です」
「そこは否定してほしかったな」
サトは苦笑した。
「でも、逃げ足はなかなかのもんだ。遺跡では役に立つぞ。これでも観測士だからな」
サトは足元の神威を見た。
「神威も、まあ……なんだかんだで役に立つ」
神威が、わぉん、と抗議するように鳴いた。
もっと褒めろ、という顔だった。
「かなり役に立つ」
神威は満足そうに尻尾を振った。
その尻尾の先が椅子の脚にぶつかり、こん、と音を立てる。
ツキハは小さく息を吸った。
「……知っています。サトも、神威も、役に立ちます。とても」
「なら決まりだ」
「けれど、私から差し上げられるものがありません」
「いいんだ」
サトは迷わなかった。
「俺が行きたいと思った。今、決めた」
「もう……決まってしまったのですか」
柔らかい風が窓から入ってくる。
「ああ。こちらの事情はこちらで適切に処理した」
ツキハは一瞬、きょとんとした。
それから、ふっと笑った。
「なんですか、その理由は。不適切です」
「便利な言葉だな、適切って」
「サトの使い方は、不適切です」
そう言いながら、ツキハの目から一粒の涙がこぼれた。
月の光を溶かしたような、透明な雫が風に揺れて。
灯りを受け、ほんの少しだけ精霊の光を帯びたように見えた。
神威が立ち上がり、そっとツキハの膝に頭を寄せる。
ツキハは驚いたように瞬きをして、それから神威の頭を撫でた。
「神威も……来てくれますか」
「わぉん」
答えるまでもない、というような声だった。
サトは村長の方を向いた。
「村長」
「なんじゃ」
「猶予はどのくらいありますか」
村長は腕を組んだ。
「すでにキョウでは噂になっておるじゃろう。目ざとい商人なら、明日にでも動くかもしれん。荒くれ者が来るには、もう少しかかる」
「つまり」
「今晩を入れて三日」
村長は少し考え、首を横に振った。
「いや、二日の方がよい。三日目の朝には村を出なさい」
「分かりました。すぐに旅支度を進めます」
サトは立ち上がった。
それから、少し迷って、深く頭を下げた。
「村長。お世話になりました」
村長はしばらくサトを見ていた。
いつものように怒鳴ることも、茶化すこともしなかった。
「サト」
「はい」
「強さとは、武力だけを指すものではない」
サトは顔を上げた。
「お主は弱い。剣も振れん。侵食獣相手に正面から立てるような男ではない」
「そこまで言いますか」
「事実じゃ」
村長は淡々と言った。
けれど、その目は優しかった。
「だが、お主は壊れたものを見捨てん。分からぬものを、分からぬまま放り出さん。怖くても、必要なら足を前に出す。そういう強さもある」
サトは何も言えなかった。
「成長して、また帰ってきなさい」
村長はゆっくりと言った。
「ここがお主の故郷じゃ」
胸の奥が熱くなった。
村長とは、サトが悪ガキだった頃からの付き合いだ。何度も怒鳴られた。何度もゲンコツを食らった。父がいなくなってからも、厳しい言葉ばかりかけてくる人だった。
その村長が、今はこんな顔をしている。
サトは唇を噛み、もう一度頭を下げた。
「……はい」
村長は次に、ツキハへ向き直った。
「ツキハ殿」
「はい。村長」
「よい旅を」
ツキハは背筋を伸ばした。
「はい」
「それと」
村長はちらりとサトを見た。
「サトを頼みましたぞ」
サトは思わず顔を上げた。
「いや、そこは俺がツキハを頼まれるところじゃないんですか」
「お主だけでは心配だから言っておる」
「ひどくないですか」
「適切な判断じゃ」
ツキハが小さく笑った。
「はい。サトを頼まれました」
「ツキハまで」
神威が、わぉん、と鳴いた。
まるで、自分も頼まれたと言っているようだった。
村長は深くうなずいた。
「神威も頼んだぞ」
神威は胸を張った。
その胸元で、小さな芽が灯りを受けて揺れる。
まるで旅立ちを喜んでいるように。
まるで、これから向かう遠い道を知っているように。
サトは紹介状を受け取った。
封の上には、森都キョウ西外れ観測院の印が押されている。
行き先は、龍都カツザン。
遠い都。
知らない道。
危険な旅。
そして、ツキハの探し物。
何一つ分からないことだらけだった。
それでも、サトの足はもう止まっていなかった。
「行こう。ツキハ、神威」
ツキハは涙の跡を指で拭い、静かにうなずいた。
「はい」
神威が力強く鳴いた。
「わぉん!」
その声は、夜の観測院に明るく響いた。
半月だけ続いた日常は、終わろうとしていた。
けれど、それは別れではなかった。
二人と一匹の日常が、少しだけ遠くへ歩き出す。
ただ、それだけのことだった。




