第32話 観測院への報告(五)
「朝も出ていました」
「朝?」
ロッカの目が光った。
サトは全身が固まった。
「ツキハ、その話は今しなくていい」
「なぜですか」
「報告と関係ない」
「サトの体調確認に関係します」
「しない」
ロッカが身を乗り出した。
「朝、何があった?」
「何もない!」
「何もない顔じゃない」
「観測するな!」
エンザが咳払いした。
「話を戻せ」
「はい」
サトは助かったと思った。
心から思った。
ツキハは不思議そうにしていたが、それ以上は言わなかった。
報告は続いた。
裂爪級については、森都キョウへの正式な警告を出すことになった。
北外れの村にも、再調査までは観測塔周辺に近づかないよう伝える。
古い精霊らしきものについては、刺激しない。
竹に似た舟が運ばれた先は不明。
ただし、追跡はしない。
少なくとも今は。
「追わないんですか」
サトが尋ねると、エンザは即答した。
「追わん」
「でも、あの舟はツキハの」
「古い精霊が運んだものを、慌てて取り返しに行くほど、この村は勇敢ではない」
「それは、まあ」
「勇敢と無謀は違う。サト、そこを神威にも教えておけ」
「毎日教えています」
「成果は?」
「薄いです」
「きゅうん」
神威が情けない声を出した。
エンザは少しだけ笑った。
「竹に似た舟については、まず情報を集める。森の古い水場、洞、地脈の集まる場所。そういう場所に詳しい者に聞く」
「森都キョウにも報告を?」
「する。ただし、書き方は選ぶ。『月から来た少女』などとそのまま書けば、余計な者まで寄ってくる」
サトは頷いた。
それは避けたい。
観測院への報告は必要だ。
森都キョウへの警告も必要だ。
けれど、ツキハを見世物にする必要はない。
「報告書には、観測塔周辺で未知の落下遺物を確認。現在は古い精霊反応により移動。同行者ツキハは落下遺物に関する知識を有する可能性あり。落下時の衝撃により記憶に混濁が見られるため、保護観察中、とする」
ロッカが筆を走らせる。
「保護観察中、ですか」
ツキハが繰り返した。
「悪い意味ではない」
エンザが言った。
「守るためでもある」
「理解しました」
「理解が早いな」
「サトにも、すべて話すなと言われました」
「サトにしては賢い」
「村長」
「褒めている」
「褒め方が雑です」
エンザは少し笑った。
そのとき、観測院の外から子どもの声が聞こえた。
「神威、まだー?」
「報告終わったー?」
「芽、伸びたー?」
ロッカが肩をすくめる。
「村の観測者たちが待っていますね」
「野次馬だろ」
「未来の観測院員かもしれない」
「まずは静かに待つことを覚えてほしい」
神威は外の声に反応し、そわそわし始めた。
「動くな」
「わぅ」
「あと少しだ」
エンザは机の上の記録をまとめ、最後にサトを見た。
「今日のところは以上だ。神威を休ませろ。ツキハも、おぬしも休め」
「はい」
「明日からは、神威の修理を続けながら、観測院へ記録を出せ。ロッカにも手伝わせる」
「もちろん」
ロッカが軽く手を上げた。
「面白いし」
「仕事としてやれ」
「仕事として面白い」
「言い方」
エンザはツキハに向き直った。
「ツキハ」
「はい」
「この村にいるあいだ、困ったことがあれば観測院へ来るといい。サトだけでは頼りないこともある」
「村長」
「サトは良い若者だ。だが、無理をする。神威に似ている」
「俺が神威に似てるんですか」
「神威がおぬしに似たのかもしれん」
サトは言い返せなかった。
神威が、なぜか嬉しそうに鳴いた。
「わぉん」
「そこは喜ぶところか?」
「きゅうん?」
ツキハは二人を見て、静かに言った。
「サトと神威は、似ています」
「ツキハまで」
「どちらも、損傷を無視して他者を優先します」
サトは言葉に詰まった。
ロッカが、珍しく茶化さなかった。
エンザも黙っている。
神威だけが、意味を完全には理解していないように首を傾げた。
「……そういうところは、似なくていいんだけどな」
サトは小さく言った。
ツキハは首を横に振った。
「いいか悪いかは、まだ不明です」
「不明か」
「ですが」
ツキハは神威を見た。
「その性質により、私は助かりました」
神威の耳が立った。
サトは視線をそらした。
「……報告は終わったんだろ。帰るぞ」
ロッカがにやりとした。
「照れた」
「照れてない」
「観測事実」
「記録するな」
「もうした」
「消せ」
「心に記録した」
「またそれか」
観測院を出ると、子どもたちが待っていた。
神威を見るなり、わっと集まりかける。
「近づきすぎるな!」
サトが言うと、子どもたちはぎりぎりのところで止まった。
「神威、報告できた?」
「怒られた?」
「芽、見せて!」
「リスのやつ、もう一回やって!」
神威は嬉しそうに尻尾を振りかけた。
「振るな」
「きゅうん」
ツキハが子どもたちを見て、小さく言った。
「神威は、村でも好意を受けています」
「そうだな」
「地上には、好意が多いです」
「そうでもないぞ」
サトは苦笑した。
「嫌なことも、怖いことも、面倒なことも多い」
「はい」
「でも、この村には多いかもな」
ツキハは、観測院の前で騒ぐ子どもたちと、神威を心配そうに見る村人たちを眺めた。
それから、静かに頷いた。
「記録します」
「何を」
「サトの村は、神威に甘い」
「それは否定できない」
「サトにも甘いです」
「それはどうかな」
「朝食に干し肉が置かれていました」
「……まあ、そうだな」
「ツキハにも、上着が用意されました」
「そうだな」
「では、甘いです」
サトは少し笑った。
「そうかもしれない」
神威が、その横でまた木の方を見ていた。
井戸の近くの木。
リスのいる洞。
サトは即座に言った。
「神威。今日はもうやめろ」
「わぅ」
「リスも休ませろ」
「きゅうん」
「お前も休む」
「わぅ……」
神威は名残惜しそうに木を見た。
木の洞から、リスが顔を出していた。
まるで、もう終わりなのかと言っているようだった。
サトは頭を抱えた。
「リスまで期待するな……」
ロッカが後ろで笑った。
「神威、村の人気者だけじゃなく、森の人気者にもなるな」
「これ以上、人気者になると困る」
「なぜ?」
「修理するのは俺だからだ」
神威が、きゅうんと鳴いた。
サトはその頭を軽く撫でた。
「分かってる。お前がそういうやつなのは、もう分かってる」
ツキハが横で言った。
「サトは、神威に甘いです」
「……記録するなよ」
「記録します」
「するのか」
「重要です」
サトはため息をついた。
けれど、嫌ではなかった。
観測塔の夜は、まだ終わっていない。
裂爪級はどこかにいる。
竹に似た舟も戻っていない。
ツキハのことも、神威の芽も、分からないことばかりだ。
それでも今は、村の朝の中にいる。
観測院への報告は済んだ。
神威は歩いている。
ツキハも隣にいる。
サトは、ピッケルの紐を肩に掛け直した。
「帰るぞ。今日は休んで、午後からもう一度神威を見る」
「了解しました」
「わぉん」
「走るなよ」
「わぅ」
「リスのところにも寄らない」
「きゅうん」
「そんな悲しそうな声を出すな」
子どもたちが笑った。
村人たちも笑った。
ツキハは、その笑い声を静かに聞いていた。
そして、ほんの少しだけ口元を緩めた。
サトはそれに気づいたが、何も言わなかった。
言えば、きっとツキハはまた首を傾げる。
だから、そのまま歩いた。
神威の横で。
ツキハの少し前で。
西の外れの村の、よく知った道を。
朝の光の中、二人と一匹分の足音が、修理小屋へ向かってゆっくり続いていった。
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