第29話 観測院への報告(二)
きゅいんきゅいん(`・ω・´)
少しだけ休むつもりだった。
床に座り、壁にもたれる。
サトの顔が見える。
呼吸が見える。
危険はない。
神威の駆動音も、遠くで静かに続いている。
ツキハは目を閉じた。
ほんの短時間だけ、観測を中断する。
そう考えた。
しかし、次に目を開けたとき、窓の外は朝になっていた。
◇
サトは、顔に何かの気配を感じて目を覚ました。
最初に見えたのは、白かった。
いや、銀色だった。
近い。
ものすごく近い。
目の前に、ツキハの顔があった。
サトは息を止めた。
ツキハは寝台の端に上半身を預けるようにして眠っていた。
どういう体勢なのか分からない。
床に座ったまま、いつの間にかサトの布団の近くへ倒れ込んだらしい。
顔が近い。
近すぎる。
まつ毛が見える。
薄く開いた唇が見える。
髪から、かすかに甘い香りがした。
昨日使った湯の匂いか。
それとも、ツキハ自身の匂いなのか。
分からない。
分からないが、今それを考えてはいけない。
サトの背中に冷や汗が流れた。
やばい。
何がやばいのか分からないが、とにかくやばい。
サトは慎重に動こうとした。
音を立てずに布団から出る。
ツキハを起こさない。
何事もなかったことにする。
それが最善だ。
サトはゆっくりと肩を引いた。
その瞬間。
ツキハの目が、ぱちりと開いた。
銀色の瞳が、真正面からサトを見た。
サトは固まった。
ツキハも固まった。
しばらく、二人は寝たままの体勢で見つめ合った。
距離は、近い。
非常に近い。
サトの心臓が、ありえない速さで鳴り始める。
「……おはようございます。サト」
ツキハが言った。
いつも通りの声だった。
いつも通りすぎて、逆におかしい。
「お、おはよう」
サトも答えた。
寝たまま。
目の前にツキハの顔があるまま。
なぜ自分はこの体勢で挨拶をしているのか。
朝から何をしているのか。
まったく分からない。
「体調はどうですか」
「え」
「昨日、サトは椅子に座ったまま睡眠状態に移行しました。寝床へ移動させました」
「あ、ああ。そうか。ありがとう」
「問題ありません」
「それで、ツキハはなぜここに」
「サトの状態を確認していました」
「確認」
「はい」
「どれくらい」
「途中で睡眠状態に移行したため、不明です」
「不明か……」
サトはゆっくり視線をそらした。
やばい。
何かが本当にやばい。
相手に悪気がないのが、さらにやばい。
「と、とりあえず起きよう」
「了解しました」
ツキハは上半身を起こそうとした。
その瞬間、足がしびれていたのか、少し体が傾いた。
サトは反射的に支えた。
支えた結果、また距離が近くなった。
「……」
「……」
「足の感覚が、一部ありません」
「それは、しびれたんだ」
「しびれ」
「しばらく動かすな。急に立つと転ぶ」
「了解しました」
ツキハは真面目に頷いた。
サトは片手で顔を覆った。
朝から疲れる。
裂爪級とは別の意味で、心臓に悪い。
そのとき、修理小屋の方から神威の鳴き声がした。
「わぉん!」
助かった。
サトは心からそう思った。
「神威が呼んでる。行こう」
「はい」
「いや、まず足のしびれが取れてからな」
「了解しました」
少しして、二人は修理小屋へ戻った。
神威は伏せたまま、尻尾を小さく振っていた。
動くなと言われているので、必死に小さく振っている。
それでも床を叩いている。
「振るな」
「きゅうん」
「いや、心配してくれたのは分かる。けど振るな」
「わぅ」
サトは神威の脚を確認した。
夜のあいだに固定がずれていない。
熱も高すぎない。
胸部装甲も問題ない。
背中の芽は、相変わらずそこにある。
「よし。歩くのはまだ最低限だ。観測院まで行ったら、あとはじっとしてろ」
「わぉん」
「分かってない返事だな」
ツキハが神威を見て言った。
「神威は、外出に対して期待を示しています」
「期待するな。報告に行くだけだ」
朝食は簡単に済ませた。
粥と、近所の誰かが置いていった干し肉。
誰が置いたのかは分からない。
ただ、包みには子どもの字で「神威もたべていい?」と書かれていた。
「食べられないけど、気持ちはもらっておこうな」
「わぅ」
神威は嬉しそうに耳を動かした。
食べられないものでも、自分のために用意されたと分かるらしい。
サトは包みを棚に置き、ピッケルを背負った。
「行くぞ」
「はい」
「わぉん」
三人は修理小屋を出た。
朝の村は、すでに動き始めていた。
畑へ向かう者。
井戸で水を汲む者。
観測院へ古い部品を運ぶ者。
村人たちはサトたちを見ると、仕事の手を止めて声をかけてくる。
「サト、もう動いて大丈夫なのか」
「神威、無理するなよ」
「ツキハさん、寒くないかい」
「観測院に行くのか。村長ならもういるぞ」
サトは一つずつ短く返した。
ツキハは、そのたびに会釈した。
神威は褒められるたびに胸を張ろうとした。
そのたびに、サトが止めた。
「胸を張るな。脚に響く」
「きゅうん」
観測院は、村の中央にあった。
大きな建物ではない。
だが、村のほかの家よりは古く、頑丈に作られている。
石の土台に、太い木の柱。
入口には、古い金属板を再利用した看板が掛かっていた。
そこには、擦り切れた文字で「観測院」と刻まれている。
観測院は、村の頭脳であり、倉庫であり、市場でもあった。
遺跡や森から出たものを持ち込む場所。
それが危険なものか、使えるものか、売れるものかを調べる場所。
村人が発掘した遺物を買い取り、必要なら修理し、森都キョウから来る商人へ売る場所。
サトの村が細々と暮らしていけるのは、この観測院があるからでもあった。
入口の横には、今日も発掘帰りの村人が並んでいた。
錆びた歯車。
半分割れた透明な板。
用途の分からない筒。
古い配線束。
どれも、一見すればただのガラクタだ。
だが、その中に時々、とんでもなく価値のあるものが混ざる。
サトの父は、そういうものを見つける目があった。
サトも、その目を少しだけ受け継いでいる。
「サト!」
入口で記録板を持っていたロッカが、こちらに気づいた。
「来たな」
「寝坊するなと言われたからな」
「本当に寝坊しなかった。偉い」
「お前に褒められると腹が立つ」
「元気そうで何より」
ロッカはにやにやしてから、ツキハを見た。
「ツキハさんも、おはようございます」
「おはようございます。ロッカ」
「神威も、おはよう」
「わぉん」
「おお、返事した。かわいいな」
神威が嬉しそうに胸を張ろうとした。
「張るな」
「きゅうん」
ロッカは笑いながら、観測院の奥を指した。
「村長が待ってる。いや、今日は観測院長として待ってる、と言った方がいいか」
「どっちでも同じ人だろ」
「肩書きは大事だぞ。話がややこしいときほどな」
ロッカは少しだけ表情を改めた。
「北外れの村からの伝令は、昨日のうちに来てる。ガラさんが言ってただろ。だから今日は、向こうの報告に、サトたち本人の報告を合わせる形で正式記録にする」
「分かった」
「報告は?」
「俺からする」
「了解」
ツキハが静かに頷いた。
「報告はサトから行います」
神威が、横で機械音を鳴らした。
「きゅぃん、きゅいん、きゅぃん」
「お前は報告しなくていい」
「わぅ?」
「鳴き声だけだと記録係が困る」
ロッカが真面目な顔で言った。
「神威発言記録。一、きゅぃん。二、きゅいん。三、きゅぃん」
「書くな」
「冗談だ」
「お前の場合、冗談で済まない」
そのときだった。
静かだと思ったら、神威がいなかった。
「……神威?」
サトは振り返った。
神威は、観測院の入口から少し離れた井戸の近くにいた。
井戸のそばには、古い木が一本立っている。
神威はその木の前で伏せるような姿勢になり、腹の両脇から薄いパネル状の装置を展開していた。
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