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月から落ちた少女と、神に愛された機械狼  作者: 玄達瀬


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第29話 観測院への報告(二)

きゅいんきゅいん(`・ω・´)

少しだけ休むつもりだった。


床に座り、壁にもたれる。


サトの顔が見える。


呼吸が見える。


危険はない。


神威の駆動音も、遠くで静かに続いている。


ツキハは目を閉じた。


ほんの短時間だけ、観測を中断する。


そう考えた。


しかし、次に目を開けたとき、窓の外は朝になっていた。



サトは、顔に何かの気配を感じて目を覚ました。


最初に見えたのは、白かった。


いや、銀色だった。


近い。


ものすごく近い。


目の前に、ツキハの顔があった。


サトは息を止めた。


ツキハは寝台の端に上半身を預けるようにして眠っていた。


どういう体勢なのか分からない。


床に座ったまま、いつの間にかサトの布団の近くへ倒れ込んだらしい。


顔が近い。


近すぎる。


まつ毛が見える。


薄く開いた唇が見える。


髪から、かすかに甘い香りがした。


昨日使った湯の匂いか。


それとも、ツキハ自身の匂いなのか。


分からない。


分からないが、今それを考えてはいけない。


サトの背中に冷や汗が流れた。


やばい。


何がやばいのか分からないが、とにかくやばい。


サトは慎重に動こうとした。


音を立てずに布団から出る。


ツキハを起こさない。


何事もなかったことにする。


それが最善だ。


サトはゆっくりと肩を引いた。


その瞬間。


ツキハの目が、ぱちりと開いた。


銀色の瞳が、真正面からサトを見た。


サトは固まった。


ツキハも固まった。


しばらく、二人は寝たままの体勢で見つめ合った。


距離は、近い。


非常に近い。


サトの心臓が、ありえない速さで鳴り始める。


「……おはようございます。サト」


ツキハが言った。


いつも通りの声だった。


いつも通りすぎて、逆におかしい。


「お、おはよう」


サトも答えた。


寝たまま。


目の前にツキハの顔があるまま。


なぜ自分はこの体勢で挨拶をしているのか。


朝から何をしているのか。


まったく分からない。


「体調はどうですか」


「え」


「昨日、サトは椅子に座ったまま睡眠状態に移行しました。寝床へ移動させました」


「あ、ああ。そうか。ありがとう」


「問題ありません」


「それで、ツキハはなぜここに」


「サトの状態を確認していました」


「確認」


「はい」


「どれくらい」


「途中で睡眠状態に移行したため、不明です」


「不明か……」


サトはゆっくり視線をそらした。


やばい。


何かが本当にやばい。


相手に悪気がないのが、さらにやばい。


「と、とりあえず起きよう」


「了解しました」


ツキハは上半身を起こそうとした。


その瞬間、足がしびれていたのか、少し体が傾いた。


サトは反射的に支えた。


支えた結果、また距離が近くなった。


「……」


「……」


「足の感覚が、一部ありません」


「それは、しびれたんだ」


「しびれ」


「しばらく動かすな。急に立つと転ぶ」


「了解しました」


ツキハは真面目に頷いた。


サトは片手で顔を覆った。


朝から疲れる。


裂爪級とは別の意味で、心臓に悪い。


そのとき、修理小屋の方から神威の鳴き声がした。


「わぉん!」


助かった。


サトは心からそう思った。


「神威が呼んでる。行こう」


「はい」


「いや、まず足のしびれが取れてからな」


「了解しました」


少しして、二人は修理小屋へ戻った。


神威は伏せたまま、尻尾を小さく振っていた。


動くなと言われているので、必死に小さく振っている。


それでも床を叩いている。


「振るな」


「きゅうん」


「いや、心配してくれたのは分かる。けど振るな」


「わぅ」


サトは神威の脚を確認した。


夜のあいだに固定がずれていない。


熱も高すぎない。


胸部装甲も問題ない。


背中の芽は、相変わらずそこにある。


「よし。歩くのはまだ最低限だ。観測院まで行ったら、あとはじっとしてろ」


「わぉん」


「分かってない返事だな」


ツキハが神威を見て言った。


「神威は、外出に対して期待を示しています」


「期待するな。報告に行くだけだ」


朝食は簡単に済ませた。


粥と、近所の誰かが置いていった干し肉。


誰が置いたのかは分からない。


ただ、包みには子どもの字で「神威もたべていい?」と書かれていた。


「食べられないけど、気持ちはもらっておこうな」


「わぅ」


神威は嬉しそうに耳を動かした。


食べられないものでも、自分のために用意されたと分かるらしい。


サトは包みを棚に置き、ピッケルを背負った。


「行くぞ」


「はい」


「わぉん」


三人は修理小屋を出た。


朝の村は、すでに動き始めていた。


畑へ向かう者。


井戸で水を汲む者。


観測院へ古い部品を運ぶ者。


村人たちはサトたちを見ると、仕事の手を止めて声をかけてくる。


「サト、もう動いて大丈夫なのか」


「神威、無理するなよ」


「ツキハさん、寒くないかい」


「観測院に行くのか。村長ならもういるぞ」


サトは一つずつ短く返した。


ツキハは、そのたびに会釈した。


神威は褒められるたびに胸を張ろうとした。


そのたびに、サトが止めた。


「胸を張るな。脚に響く」


「きゅうん」


観測院は、村の中央にあった。


大きな建物ではない。


だが、村のほかの家よりは古く、頑丈に作られている。


石の土台に、太い木の柱。


入口には、古い金属板を再利用した看板が掛かっていた。


そこには、擦り切れた文字で「観測院」と刻まれている。


観測院は、村の頭脳であり、倉庫であり、市場でもあった。


遺跡や森から出たものを持ち込む場所。


それが危険なものか、使えるものか、売れるものかを調べる場所。


村人が発掘した遺物を買い取り、必要なら修理し、森都キョウから来る商人へ売る場所。


サトの村が細々と暮らしていけるのは、この観測院があるからでもあった。


入口の横には、今日も発掘帰りの村人が並んでいた。


錆びた歯車。


半分割れた透明な板。


用途の分からない筒。


古い配線束。


どれも、一見すればただのガラクタだ。


だが、その中に時々、とんでもなく価値のあるものが混ざる。


サトの父は、そういうものを見つける目があった。


サトも、その目を少しだけ受け継いでいる。


「サト!」


入口で記録板を持っていたロッカが、こちらに気づいた。


「来たな」


「寝坊するなと言われたからな」


「本当に寝坊しなかった。偉い」


「お前に褒められると腹が立つ」


「元気そうで何より」


ロッカはにやにやしてから、ツキハを見た。


「ツキハさんも、おはようございます」


「おはようございます。ロッカ」


「神威も、おはよう」


「わぉん」


「おお、返事した。かわいいな」


神威が嬉しそうに胸を張ろうとした。


「張るな」


「きゅうん」


ロッカは笑いながら、観測院の奥を指した。


「村長が待ってる。いや、今日は観測院長として待ってる、と言った方がいいか」


「どっちでも同じ人だろ」


「肩書きは大事だぞ。話がややこしいときほどな」


ロッカは少しだけ表情を改めた。


「北外れの村からの伝令は、昨日のうちに来てる。ガラさんが言ってただろ。だから今日は、向こうの報告に、サトたち本人の報告を合わせる形で正式記録にする」


「分かった」


「報告は?」


「俺からする」


「了解」


ツキハが静かに頷いた。


「報告はサトから行います」


神威が、横で機械音を鳴らした。


「きゅぃん、きゅいん、きゅぃん」


「お前は報告しなくていい」


「わぅ?」


「鳴き声だけだと記録係が困る」


ロッカが真面目な顔で言った。


「神威発言記録。一、きゅぃん。二、きゅいん。三、きゅぃん」


「書くな」


「冗談だ」


「お前の場合、冗談で済まない」


そのときだった。


静かだと思ったら、神威がいなかった。


「……神威?」


サトは振り返った。


神威は、観測院の入口から少し離れた井戸の近くにいた。


井戸のそばには、古い木が一本立っている。


神威はその木の前で伏せるような姿勢になり、腹の両脇から薄いパネル状の装置を展開していた。


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