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月から落ちた少女と、神に愛された機械狼  作者: 玄達瀬


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第24話 精霊反応(四)

扉が、人ひとり通れるほど開いた。


外の空気が流れ込む。


冷たい。


けれど、白い霧は薄くなっていた。


夜明け前の青い光が、草の先に滲んでいる。


サトは最初に外へ出た。


ピッケルを構え、左右を見る。


補助観測室の裏手は、思ったより狭い斜面だった。


左手には、古い観測塔の黒い影。


右手には、北外れの村へ戻る細い山道。


そして正面には、落下の跡があった。


草木が丸く押し潰され、土がえぐれている。


その中心にあったはずの月竹は――


「……ない?」


サトは目を凝らした。


ない。


あれほど大きく、地面に突き刺さっていた月竹が、跡形もなく消えている。


「ツキハが乗ってきた舟がないぞ」


ツキハは、神威に支えられながら外へ出た。


そして、落下地点を見つめた。


「移動しています」


「自分でか?」


「いいえ。運ばれています」


サトは顔を上げた。


森の奥。


まだ緑の光が揺れていた。


そこに、巨大な影が見えた。


ぬらりとした長い体。


広い口。


その口に、白く輝く細いものを咥えている。


月竹だった。


月の光を残した竹の舟が、巨大な古い精霊の口に、そっと挟まれている。


噛み砕かれているわけではない。


まるで、落ちた雛を運ぶように。


あるいは、森に刺さった異物を、誰にも触られない場所へ移すように。


その巨大な影は、ゆっくりと森の奥へ消えていった。


「おい、持っていかれてるぞ!」


「仕方ありません」


「仕方あるだろ。あれ、ツキハの乗ってきたやつじゃないのか」


「はい。ですが、現在の私には運用できません」


「だからって、持っていかれていいのか?」


「あの舟からは、月の精霊流が漏れています。この場所に放置すれば、侵食獣を再び呼ぶ可能性があります」


サトは言葉に詰まった。


確かに、それは困る。


あれが餌になるなら、今すぐここから離した方がいい。


「じゃあ、あいつは舟を隠してくれてるのか?」


「推定としては、適切です」


「噛み砕かないよな?」


「不明です」


「そこは適切に安心させてくれ」


ツキハは少し考えた。


「少なくとも、敵意は感じません」


「それなら、まあ……」


サトは森の奥を見た。


巨大な影はもう見えない。


ただ、緑色の光だけが、水面に広がる波紋のように消えていく。


神威が、森の奥に向かって小さく鳴いた。


「わぉん」


サトも、少し遅れて頭を下げた。


「……ありがとうございます」


返事はなかった。


代わりに、足元の草が一斉に揺れた。


精霊虫の光が、ふわりと浮かび上がる。


小さな光が、いくつも、いくつも。


それらは、まっすぐサトたちの前には行かなかった。


まず、神威の周りをゆっくり回った。


壊れた右前脚の近く。


胸部装甲の傷。


焦げた尻尾の先。


そこに集まり、触れるか触れないかの距離で、淡く明滅する。


神威は、くすぐったそうに耳を伏せた。


「わぅ……」


「何だ。やっぱり、お前が呼んでるのか?」


サトが言うと、神威は困ったように鳴いた。


「きゅうん」


ツキハは、その光景をじっと見ていた。


さきほどまでのように、すぐには分析しなかった。


ただ、神威の周りを飛ぶ精霊虫を、ひとつひとつ目で追っていた。


「……違います」


「何が?」


「これは、随伴反応ではありません」


「さっき言ってたやつか」


「はい。誘導でも、制御でもありません。神威から命令信号は出ていません」


「じゃあ、なんなんだ?」


精霊虫の群れは、神威の右前脚の前で、ふわりと強く光った。


まるで、そこを心配しているみたいだった。


神威が一歩踏み出す。


右前脚が少し沈む。


すると、精霊虫たちは山道の石を避けるように、別の細い道へ流れていった。


サトは目を細めた。


「……歩きやすい方を教えてくれてる?」


「そのようです」


ツキハの声は、先ほどより少し小さかった。


「命令じゃないんだな」


「はい」


「じゃあ、やっぱり勝手にやってるのか」


ツキハは、神威を見た。


壊れかけの機械狼は、精霊虫たちに囲まれながら、少し困ったように耳を倒している。


それは、命令するものの姿ではなかった。


助けられているものの姿だった。


ツキハは、静かに言った。


「これは……好意、かもしれません」


サトは振り返った。


「好意?」


「はい。低位精霊が、自発的に神威を助けています。命令でも、機能でも、制御でもありません」


「ようやく分かったか」


「訂正します」


ツキハは、ほんの少しだけ目を伏せた。


「先ほどの推定は、不完全でした」


「まあ、そんなこともあるだろ」


「地上の精霊反応は、記録より複雑です」


「神威が変なんじゃないのか?」


「それもあります」


「わぉん?」


「お前、変だって」


「きゅうん」


神威は不満そうに鳴いた。


その周りで、精霊虫が淡く瞬いた。


まるで、慰めているように。


ツキハはそれを見て、もう一度、小さく言った。


「やはり、好意です」


今度の言葉には、断定というより、発見の響きがあった。


間違えて、見直して、ようやく理解した。


そんな声だった。


「この子は、好かれているのですね」


神威の背中のLEDが、ふわりと光った。


「神威、今は光っていいぞ」


「わぉん!」


「いや、やっぱり少しだけにしろ。目立つ」


「きゅうん」


サトは笑いかけて、それから山道を見た。


精霊虫の光が、北外れの村へ戻る道を照らしている。


完全な道ではない。


石もある。


ぬかるみもある。


倒れた枝もある。


けれど、神威が歩ける道だった。


「行くぞ」


サトは前を向いた。


「まずは北外れの村まで戻って報告だ。そこで一晩休ませてもらおう。神威をちゃんと直すのは、その後だ」


「その後…ですか」


ツキハが尋ねた。


「ああ。西はずれの村に俺の家がある。道具もある。部品も、少しはある」


「了解しました」


「私も、あなたに相談したいことがあります」


「歩きながらでいい」


「情報量が多いです」


「だったら、村に戻ってからでいい」


「了解しました」


神威が、小さく鳴いた。


「わぉん」


「お前はまず歩く。絶対に走るな」


「わぅ」


「あと、古い自然神が近くにいても、尻尾を振って突撃するな」


「きゅうん」


「する気だったな?」


神威は目を逸らした。


サトはため息をついた。


ツキハが、不思議そうに言う。


「神威は、古い神にも好意を示すのですか」


「たぶん、相手が大きくて強そうなら、とりあえず近づく」


「危険です」


「そうなんだよ」


「非効率です」


「本当にそうなんだよ」


神威が不服そうに鼻を鳴らした。


その音に、ツキハが少しだけ目を細める。


また、笑いかけているように見えた。


サトはそれを見て、少し安心した。


月から落ちた少女。


壊れかけの機械狼。


父のピッケルを持った、若い観測士。


三人とも、ぼろぼろだった。


それでも、歩ける。


歩けるなら、帰れる。


帰れるなら、まだ続きがある。


補助観測室の裏手を抜け、細い山道に入る。


精霊虫の光が、前を照らす。


遠くで、夜が薄くなっていく。


観測塔の黒い影が、少しずつ後ろへ遠ざかる。


朝の最初の光が木々の隙間から差し込み、神威の背中の装甲がかすかに輝いた。


古い機械の傷跡。


新しい修理の跡。


そこに、小さな緑の芽のようなものが、ひとつだけついていた。


サトは立ち止まった。


「……神威」


「わぅ?」


「お前、背中に何か生えてるぞ」


神威が振り返ろうとして、足をもつれさせかける。


「動くな!」


「きゅうん」


ツキハが、その小さな芽を見つめた。


そして、静かに言った。


「精霊化が、進行しています」


サトは固まった。


「……それ、いいことなのか?」


ツキハは少し考えた。


「不明です」


「また不明か」


「ですが」


ツキハは、神威の背中の芽にそっと触れた。


小さな芽は、朝の光を受けて、ほんの少しだけ揺れた。


「悪いものには見えません」


神威のLEDが、ふわりと光った。


今度は、サトも止めなかった。


夜明けの光に混ざれば、それくらいはきっと分からない。


神威は嬉しそうに、けれど脚をかばいながら、小さく鳴いた。


「わぉん」


サトは笑った。


「分かった分かった。帰ったら、そこも確認してやる」


ツキハが言う。


「記録します」


「何を?」


「神威は、修理のたびに変化しています」


「そのうち角とか生えないよな」


「わかりません。しかしこれからどうなっていくのか興味深いです」


サトは神威を見た。


神威は、よく分かっていない顔で尻尾を揺らしかけた。


「尻尾は揺らすな。歩きにくいだろ」


「きゅうん」


そうして三人は、北外れの村へ向かった。


背後では、夜の名残がまだ蠢いている。


森の奥には、侵食獣を追う古い何かがいる。


月竹は、その何かに運ばれていった。


月から落ちた理由も、神威の中に灯るものの正体も、まだ何も分かっていない。


それでも。


朝は来る。


精霊虫の光に導かれながら、サトたちは山道を下っていった。


次回から一話更新です(´・ω・`)

もし、少しでも続きが気になる人がいたら、評価ポッチしてもらえると崇めます。

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