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月から落ちた少女と、神に愛された機械狼  作者: 玄達瀬


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第20話 補助観測室の夜(三)

「神威!」


「わぅ……!」


「動くなって言っただろ!」


「わぅ!」


「助かったけど!」


サトは歯を食いしばり、ピッケルに力を込めた。


黒い根が焼ける。


白い煙ではなく、灰色のノイズのようなものが上がった。


最後に、ぶつり、と音がした。


根が切れた。


扉の外で、裂爪級が大きく暴れた。


補助観測室全体が揺れる。


だが、黒い根は床の上でしばらく痙攣したあと、崩れるように消えた。


サトは荒く息を吐いた。


「……今のは、勝ちでいいか?」


神威が床に伏せたまま、小さく鳴いた。


「わぉん」


「お前はあとで説教だ」


「きゅうん」


ツキハは、床に残った黒い痕を見ていた。


表情は薄い。


けれど、その手は少し震えている。


サトはそれに気づいた。


「大丈夫か」


「機能は低下しています。ですが、生命活動は継続しています」


「そうじゃなくて」


ツキハは顔を上げた。


サトは言葉を探した。


「怖かったかって聞いてる」


ツキハは、すぐには答えなかった。


外では、裂爪級が再び扉の向こうを歩き回っている。


爪音が、右へ行き、左へ戻る。


補助観測室の中だけが、妙に静かだった。


やがてツキハは、小さく頷いた。


「怖い、に該当する反応があります」


「そうか」


「不適切ですか」


「いや」


サトはピッケルを床に置いた。


「それは、かなり普通だ」


「普通」


「そう。普通」


ツキハは、その言葉を確かめるように繰り返した。


「普通」


神威が、そっと尻尾を伸ばした。


今度は熱を出さない。


ただ、ツキハの近くに置くだけだった。


ツキハはそれを見た。


しばらくして、指先で神威の尻尾に触れた。


「冷たいです」


「金属だからな」


「でも、少し温かいです」


神威のLEDが、またかすかに光った。


「神威、今は光るなって」


「わぉん?」


「嬉しいのは分かるけど、外にいるやつに見つかる」


「きゅうん」


ツキハが、ほんの少しだけ首を傾げた。


「嬉しいと、危険でも光る」


「そういうやつなんだ」


「非効率です」


「まったくだ」


サトがそう言うと、神威は不満そうに鼻を鳴らした。


生き物の鼻ではない。


けれど、それは確かに、拗ねた音だった。


サトは笑いそうになって、こらえた。


笑っている場合ではない。


だが、笑えるなら、まだ大丈夫だ。


サトは立ち上がり、部屋の中を見回した。


非常用の箱がある。


古い観測机もある。


壊れた表示板の中には、まだ使える透明板が残っているかもしれない。


扉の隙間を塞ぐ材料にはなる。


「朝まで持たせる」


サトは言った。


「扉の下を塞ぐ。神威はそのまま動くな。ツキハは、光を頼む。弱くていい」


「了解しました」


「あと、無理はするな。さっきみたいな糸は、必要なときだけだ」


「了解しました」


「本当に分かってるか?」


「不明です」


「そこは分かっててくれ」


サトは非常用の箱を開けた。


中には、古い布、固定帯、割れた保存食の容器、折り畳み式の支柱が入っていた。


大したものではない。


だが、今は宝に見えた。


サトはそれらを床に並べた。


ピッケルで長さを測る。


神威の尻尾で支柱を曲げる。


ツキハの光で手元を照らす。


三人で、扉の下を塞いでいく。


誰も、まともに万全ではなかった。


サトは疲れ切っている。


神威は壊れかけている。


ツキハは、まだ立つことも難しい。


それでも、不思議と作業は進んだ。


サトが考える。


神威が支える。


ツキハが見る。


それぞれが、できることだけをしていた。


やがて、扉の下の隙間は、折り畳み支柱と透明板と古い布でふさがれた。


完璧ではない。


裂爪級が本気で壊しに来れば、すぐ破られるだろう。


だが、細い根が簡単に入ることはない。


「よし」


サトは床に座り込んだ。


今度こそ、本当に力が抜けた。


「これで、少しは休める」


外ではまだ、裂爪級がいる。


夜も明けていない。


救援も来ない。


それでも、扉の向こうの音は、さっきより遠く聞こえた。


ツキハが、サトの隣に座った。


神威は二人の前に伏せている。


まるで、自分が扉になるつもりのようだった。


「神威、寝るなよ」


「わぉん」


「いや、少しは休め。でも異常があったら起きろ」


「わぉん?」


「難しい注文なのは分かってる」


ツキハが、神威を見た。


「この子は、眠るのですか」


「たぶん。休止みたいなものだけど」


「夢は見ますか」


サトは少し考えた。


神威の過去は、まだよく分からない。


長い間、山を歩いていた機械。


獣を遠ざけ、人を導き、誰かに忘れられて、ゴミ山に落ちていた機械。


夢を見るかどうかなんて、サトにも分からない。


「見るかもしれないな」


「機械が?」


「機械でも、夢くらい見るかもしれない」


サトは、自分で言ってから少し照れた。


「まあ、適当だけど」


ツキハは真面目に頷いた。


「適当。地上語として、曖昧な観測結果を許容する表現」


「そこまで分析しなくていい」


「不適切ですか」


「いや、ツキハらしい」


「私らしい」


ツキハは、その言葉を初めて聞いたように繰り返した。


私らしい。


その小さな声は、補助観測室の暗がりに、ゆっくり溶けた。


しばらく、誰も話さなかった。


外の爪音だけが、ときどき聞こえる。


遠くで、月竹が光っているのだろう。


白い霧が、扉の隙間からわずかに漏れ込んでいる。


夜は、まだ長い。


だが、サトは目を閉じなかった。


眠れば、次に目を開けられる保証はない。


ピッケルを握り、扉を見つめる。


その横で、ツキハが小さく言った。


「サト」


「何だ」


「私は、月から落ちました」


「さっき聞いた」


「ですが、少し記憶が欠けています。落ちた理由が、すべては分かりません」


サトはツキハを見た。


ツキハは、胸元の欠けた月片に触れている。


「ただ、ひとつだけ、聞こえていました」


「何が」


「誰にも届かない声です」


神威の耳の部品が、ぴくりと動いた。


ツキハは神威を見た。


「たぶん、この子にも少し聞こえていた声です」


神威は答えなかった。


ただ、青い目を細めた。


サトは、ピッケルを握る手に力を込めた。


外で、裂爪級がまた扉を引っかいた。


ぎぎ。


ぎぎぎ。


夜の底を削る音がする。


ツキハは静かに続けた。


「月は、ひとりでした」


その言葉だけが、補助観測室の中で、やけに冷たく響いた。


もし、少しでも続きが気になる人がいたら、評価ポッチしてもらえると崇めます。

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