第18話 補助観測室の夜(一)
ぎぎ。
ぎぎぎ。
古い金属が、少しずつ削られていく音だった。
補助観測室の中は暗い。
天井の非常灯は既に死んでいて、小さな窓から僅かな月の光が差し込んでいる。
壁際には壊れた観測机。
床には割れた表示板。
隅には、何かの記録筒らしきものが散らばっている。
ここが昔、空を読むための小部屋だったことは分かる。
だが今は、ただの逃げ場だった。
サトは床に座り込んだまま、息を整えていた。
腕が痛い。
足も痛い。
手の甲には、白い霧に切られた細い傷が何本も走っている。
それでも、まだ動ける。
動けるなら、やることがある。
「……まず、扉だな」
サトは立ち上がろうとして、膝が笑った。
「くそ。足にきてる」
「負傷していますか」
横から、静かな声がした。
ツキハだった。
彼女は壁際に座っている。
月の光のような髪は乱れ、薄い衣の裾には白い霧がまだまとわりついていた。
顔色は、青白い。
いや、もともと白いのかもしれない。
地上の人間とは、血の巡り方からして違うように見えた。
「俺は大丈夫。問題は、神威だ」
サトは床に伏せた神威を見た。
神威は腹をつけたまま、動かないようにしている。
胸部装甲には裂爪級の爪痕。
右前脚の補助フレームは歪み、関節の奥で時折、小さな火花が散っていた。
尻尾だけが、不安そうに床を叩いている。
かつん。
かつん。
「尻尾は動かすな。そこまで壊れたら、もう本当にどうしようもない」
「きゅうん」
「そういう顔をしても駄目だ」
サトは神威の前に膝をついた。
工具袋を開く。
中身は少ない。
予備の導線。
小型の固定具。
薄い金属板が二枚。
あとは、ピッケル。
本格修理には足りない。
だが、朝まで動かさないための修理なら、どうにかなる。
「完全に直すんじゃない。これ以上壊れないようにする」
「わぉん」
「そう。おすわりだ」
神威は少し不満そうに瞼を下げた。
サトはその様子を見て、少しだけ笑った。
外で、裂爪級がまた扉を叩いた。
ごん。
補助観測室が震える。
天井から埃が落ちた。
ツキハが、扉の方を見た。
「外部の存在は、こちらを捕食対象として認識しています」
「だろうな」
「主対象は、私かもしれません」
サトの手が止まった。
「……分かるのか?」
「はい。あれは欠けた流れを探しています。私は、落下時に多くの流れを失いました。欠けています」
ツキハは、自分の胸元にある月片のような首飾りに触れた。
そこには、細いひびが入っている。
淡い光が、そのひびの奥で不規則に揺れていた。
弱っている。
サトにも、そう見えた。
「欠けてるから、食われるってことか」
「おそらく」
「そんな冷静に言うな」
「不適切ですか」
「不適切っていうか……」
サトは言いかけて、やめた。
ツキハは本気で聞いている。
冗談でも、皮肉でもない。
地上の言葉の使い方を、まだ探っているのだ。
「まあ、今はいい。食われないようにする。それだけだ」
「了解しました」
ツキハは頷いた。
その仕草は素直すぎて、逆に少し怖いくらいだった。
サトは神威の脚部に視線を戻した。
「神威、尻尾の熱を借りる。最小出力」
「わぉん」
神威は尻尾を伸ばした。
二股の先端が、そっと開く。
青白い熱が、細く灯った。
「……Kinetic Animal-deterrence / Observation Unit」
「え?」
サトが振り返る。
ツキハは神威を見つめたまま、低く続けた。
「動物忌避・観測用自律四足歩行機械。暫定分類。西暦二一〇〇年から二二〇〇年台の地上防衛補助機……だと思われます」
神威が首を傾げた。
「わぉん?」
「お前、そんな大層な名前だったのか?」
サトは思わず神威を見た。
神威はよく分かっていない顔で、尻尾の先を少しだけ揺らした。
「揺らすな。溶接前だ」
「きゅうん」
ツキハは、さらに小さな声で言った。
「まだ、地球を守っていたのですね」
その言葉は、誰に向けたものでもないようだった。
サトは少しだけ眉をひそめる。
「まだ、って?」
ツキハは数秒、黙った。
まるで、自分の中にある記録と、目の前の現実を照合しているようだった。
「私の知識では、その系統機はすでに運用終了しています」
「運用終了?」
「はい。地上環境安定化計画の後期に、多くが停止、または回収されたはずです」
「……はず、か」
サトは神威の傷だらけの装甲を見た。
ゴミ山に埋もれていた機械狼。
森を歩いていた古い案山子。
村の子どもたちに尻尾を振る、壊れかけの相棒。
それが、ツキハの知識の中では、もう存在しないはずのものらしい。
「その知識、どれくらい新しいんだ?」
ツキハは首を傾げた。
「新しい、とは」
「今の地上のことを、どれくらい知ってる?」
ツキハは少し考えた。
「一般的な人類社会。精霊圏。古き神々。人造神。地上環境安定化計画。神蝕戦争前期の記録。月面側観測資料。その他、断片的な歴史知識を保持しています」
「多いな」
「ただし」
ツキハは、淡々と続けた。
「更新されていない可能性があります」
サトは、思わず苦笑した。
「それは、けっこう大事な注意書きだな」
「不適切ですか」
「いや。すごく適切だ」
神威が、二人の顔を交互に見た。
自分の話をされていることだけは分かるらしい。
胸を張ろうとして、傷んだ装甲がぎしりと鳴った。
「だから胸を張るな。お前は今、旧式かどうかより、まず壊れてるんだよ」
「きゅうん」
ツキハは神威を見つめていた。
その瞳に、ほんの少しだけ、不思議そうな色が浮かぶ。
「壊れていても、動いています」
「ああ」
「運用終了していても、守ろうとしています」
サトは神威の脚部に手を置いた。
金属は冷たい。
けれど、内部にはまだ熱がある。
「そういうやつなんだ」
ツキハは、静かに頷いた。
「記録を修正します」
「何の記録を?」
「神威は、まだ地球を守っています」
神威の背中のLEDが、かすかに点滅した。
「神威、光るな」
「わぉん?」
「今のは、たぶん褒められたんだ」
神威の尻尾が、少しだけ嬉しそうに揺れた。
「だから揺らすなって」
「今揺れたら、俺の指が焼ける」
「きゅうん」
「怖がるな。怖がると揺れる」
神威の尻尾が、ぴたりと止まった。
サトは息を止め、折れかけた金具の継ぎ目を焼いた。
じゅ、と小さな音がする。
古い金属が熱で歪む。
完全ではない。
だが、割れ目は塞がった。
「よし。次、導線」
サトは神威の脚部装甲を少しだけ開いた。
中の配線は、ひどい状態だった。
何本か切れかけている。
一本は、裂爪級の爪がかすめたのか、黒く焦げていた。
「お前、よくこれで走ったな」
「わぉん」
「褒めてない。いや、少しは褒めてる。でも反省しろ」
「わぉん」
「だから元気に返事をするな」
サトは焦げた導線を切り、予備の細い線でつなぎ直した。
手元が暗い。
月明かりだけでは作業には向かない。
すると、ツキハがゆっくりと手を上げた。
指先に、淡い月光が灯る。
それは小さな灯りになって、サトの手元を照らした。
「これで見えますか」
サトは目を細めた。
白すぎない。
眩しすぎない。
ちょうど、細かい配線が見える明るさだった。
「助かる」
「適切ですか」
「かなり」
ツキハの表情は、ほとんど変わらなかった。
けれど、光がほんの少しだけ安定した。
サトは作業を続けた。
導線をつなぐ。
固定具を締める。
裂けた外装に薄い金属板を当てる。
神威はじっとしていた。
時折、外の音に反応して耳の部品が動く。
そのたびにサトが「動くな」と言う。
神威が「きゅうん」と返す。
ツキハは、そのやり取りをずっと見ていた。
ぎぎぎ。(´・ω・`)
もし、少しでも続きが気になる人がいたら、評価ポッチしてもらえると崇めます。




