第150話 海の中での月見酒(一)
神威の整備を終えた、その日の夜。
分厚い雲が空を覆い、海上では冷たい風が吹き荒れている。
月竹は荒天を避け、海の中を進んでいた。
白い船体を、暗い海水が包んでいる。
ときおり遠くで雷が光るたび、海面の向こうが一瞬だけ白く染まった。
だが、深い海の中までは、風も波も届かない。
月竹の内部は静かだった。
神威は格納部での整備を終え、今はメインルームの片隅で眠っている。
白い腹部装甲を上に向け、四本の脚を無防備に投げ出していた。
整備で長い時間じっとしていた反動なのか、それとも単に気が抜けたのか。
規則的な駆動音を立てながら、完全に熟睡しているようにみえる。
そして背中から伸びた小さな芽が、船内の空気に合わせるようにゆっくり揺れていた。
サトは一人、メインルームの窓際に座っていた。
窓の向こうには、暗い海が広がっている。
正確には、月竹の外部観測映像を壁面へ映し出しているものだ。
光の届かない海底。
ときおり、青白く発光する魚の群れが横切っていく。
サトの前には、小さな徳利と盃が置かれていた。
皿の上には、薄く切った腸詰と、塩を振った煎り豆。
どちらも白尾村を出る際、積み込んでもらったものだ。
徳利の中身も、白尾村で造られた火酒だった。
酒精が強く、口に含むと喉が熱くなる。
だが、その後には穀物の甘さと、木の実のような香りが残る。
サトは腸詰を一切れ口に運び、盃を傾けた。
「……ふぅ」
喉から腹へ、熱がゆっくりと落ちていく。
普段、酒を飲むことはほとんどない。
嫌いというわけではない。
ただ、旅の途中では何が起こるか分からない。
酔って判断を鈍らせるわけにはいかなかった。
だが今夜は、月竹の航行も安定している。
外は荒れているが、海中まで追ってくるようなものも観測されていない。
何より、白尾村を離れてから、サトの頭の中には様々なことが浮かんでは消えていた。
ハク。
レタラサラ。
白尾村を襲った侵食獣。
白石島で出会った狂機ザラス。
カツザン近くの霧の結界。
そして、初めてツキハと出会った夜。
あの頃から考えれば、ずいぶん遠くまで来た。
サトがもう一口飲もうとした時、背後から声がした。
「サト。まだ起きていたのですか」
振り返る。
白い月衣をまとったツキハが、メインルームへ入ってくるところだった。
「ああ。色々考えてたら、眠れなくてな」
ツキハはテーブルの上へ視線を落とした。
「お酒ですか。珍しいですね」
「白尾村を出る時に、積み入れてくれたやつだ。せっかくだから、少しだけな」
「火酒ですね」
「知ってるのか?」
「記録にはあります。穀物や木の実、果実などを発酵させ、蒸留して酒精濃度を高めた飲料です」
「飲んだことは?」
「ありません」
「初めてか」
「はい」
ツキハは、徳利と盃を興味深そうに見つめている。
サトは少し考え、空いている椅子を引いた。
「ツキハも飲んでみるか?」
「頂いてもよいのですか」
「ああ、もちろんだ」
ツキハはサトの隣に座った。
サトは棚から小さな盃をもう一つ取り出す。
「ツキハもお疲れ様」
「サトも、お疲れ様でした」
サトが徳利を傾ける。
透明な火酒が、小さな盃の中へ流れ込んだ。
「火酒は強いから、一気に飲むなよ」
「分かりました」
「あと、無理して飲まなくてもいいからな」
「はい。まずは少量を試します」
ツキハは両手で盃を持ち上げた。
香りを確かめるように、少しだけ顔を近づける。
そして、ほんの一口だけ飲んだ。
「……」
ツキハの動きが止まった。
「どうだ?」
「喉が熱いです」
「火酒だからな」
「舌も少し痺れます」
「強かったか?」
ツキハは口の中に残った味を確かめるように、しばらく黙っていた。
「ですが、嫌ではありません」
「そうか」
「飲み込んだ後に、甘い香りが残ります。それから……」
ツキハは胸元へ手を当てた。
「なんだか、ポカポカします」
「それが酒だ」
「神威ウォーマーとは違う温かさです」
「酒と比べられる機械狼も珍しいな」
サトは笑いながら、煎り豆を一つ口へ入れた。
ツキハも皿から一粒取り、火酒をもう一口飲む。
最初よりは慣れたらしい。
今度は顔をしかめなかった。
静かな時間が流れた。
月竹の外では、暗い海を小さな発光生物が漂っている。
遠くで雷が光った。
海面の向こうに生まれた白い光が、水の中でぼんやりと広がり、すぐに消えた。
ツキハが盃をテーブルへ置く。
「それで、何を考えていたのですか」
「ん?」
「色々考えていて、眠れなかったと言っていました」
「ああ」
サトは盃の中に残っていた火酒を飲み干した。
すぐにもう一杯を注ぐ。
「白尾村を襲おうとした侵食獣のことだ」
「角級の個体ですか」
「そいつだけじゃない。あの時に来た侵食獣全部だな」
「はい」
「あいつら、ハクさんの信号を追ってたんだよな」
「そうですね。白尾村へ接近していた侵食獣は、ハクさんが発していた境界管理信号に反応していたと考えられます」
「だから神威がその信号を真似して、坑道まで誘い込めた」
「はい。神威が模倣信号を発信し、ハクさんの位置を誤認させました」
「ああ。そうなんだが……」
サトは煎り豆を指先で転がした。
うまく言葉にできないものが、胸の奥に引っかかっている。
「サトは、何か気になるのですか」
「うーん。なんか、もやもやしててな」
「もやもや」
「そもそも、侵食獣って過去の記憶はあるのか?」
ツキハは答えず、サトの続きを待った。
「この前の角級は、元はハクさんと同じ機械狼だった」
「はい。北方境界管理機に近い機体であったと考えられます」
「カツザンの近くにあった霧の結界。あそこで出会った牙級は、おそらく元は精霊獣だったんだろ」
「カバネたちが倒した個体ですね」
「そうだ」
サトは頷いた。
「それから、ツキハと初めて会った時に追ってきたやつ」
「観測塔付近に出現した侵食獣ですか」
「ああ。あれは、色んな何かが混ざったみたいな姿をしてた」
獣。
機械。
骨。
泥。
黒い影。
どれか一つでは説明できない姿だった。
「元が機械のやつもいる。精霊獣だったやつもいる。何だったのか分からないやつもいる」
「はい」
「侵食獣って、結局何なんだろうな」
ツキハは盃へ視線を落とした。
透明な酒の表面に、外部映像の青い光が映っている。
「以前、侵食獣は欠けたものに集まりやすいという話をしたことを覚えていますか」
「ああ。覚えてるよ」
サトは少し笑った。
「なんだか懐かしいな」
「はい」
「侵食獣から逃げるために、観測塔の横にあった小屋へ立てこもって。そこで話してた」
「神威が外で、侵食獣を引きつけている間に駆け込みました」
「そうだったな」
今考えれば、無茶なことをしたものだ。
出会ったばかりの少女を守るため、神威は一頭で侵食獣を食い止めた。
サトは神威を助けるため、何の保証もないまま外へ飛び出した。
「ずいぶん前のことに感じる」
「実際には、旅を始めてから、それほど長い時間は経っていません」
「色々ありすぎたからな」
「はい。私も、長い時間が経ったように感じます」
ツキハは盃を傾け、火酒を少し口に含んだ。
「侵食獣には様々な姿があります。ですが、その全てに共通するものがあります」
「黒い影か」
「はい」
機械狼の身体にも。
牙級の精霊獣にも。
名状しがたい混合物のような侵食獣にも。
黒い影がまとわりつき、渦巻いていた。
「あれは何なんだ?」
「呪い。穢れ。侵食の残り香。地域や時代によって、様々な呼ばれ方をされています」
「ツキハの記録では?」
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




