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月から落ちた少女と、神に愛された機械狼  作者: 玄達瀬


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141/159

第141話 同胞(二)

「ユクゾ」


 ハクが、ゆっくりと顔を上げた。


 角級が、笑ったように見えた。


「グギギィギヒヒィャグガァァ」


 耳障りな音が、雪原を裂いた。


 次の瞬間、ハクが動いた。


 脚の補助具が火花を散らす。


 かつてのハクなら、雪上を白い閃光のように駆けただろう。


 だが、今のハクの脚は壊れている。


 主脊梁は砕けかけ、補助具と応急処置でかろうじて身体を保っている。


 それでも、重かった。


 長い年月を境界に立ち続けた守護機の突進だった。


 ハクは角級へ体当たりした。


 鈍く重い金属音が、雪原に響き渡る。


 ガァン、と空気が震えた。


 角級の巨体が仰け反る。


 黒い雪が舞う。


 だが、角級は倒れない。


 仰け反った反動を利用し、丸太のように太い尾を振るった。


 尾が、横殴りにハクを薙ぐ。


「グウウッ」


 ハクの身体が雪原を滑った。


 装甲が剥がれ、補助具から火花が散る。


「ハク!」


 レタラサラが叫んだ。


「あ……あっ……だめです……それ以上戦っては」


 レタラサラは首を振りながら、ハクへ近づこうとした。


 だが、ハクが顔を上げた。


「サラ、クルナ」


 ぴしゃりとした声だった。


 弱っていても。


 壊れていても。


 それは、夫の声だった。


 レタラサラは、足を止めた。


 無言で涙を流していた。


 サトは、何も言えなかった。


 おそらく、ハクはもう覚悟を決めている。


 角級が追撃に入った。


 闇にまみれた腕が、大きく振りかぶられる。


 その一撃が落ちれば、今のハクでは耐えきれない。


「ハク!」


 サトが叫ぶ。


 ハクの両肩が、開いた。


 応急固定していた装甲の下から、小さな発射筒がせり出す。


 次の瞬間、二つの弾体が至近距離で射出された。


 角級の胸部へ命中。


 爆発。


 白い光と黒い霧が、雪原に弾けた。


 角級の腕が、一瞬だけ止まる。


 ツキハが目を見開いた。


「あれは……対侵食獣用グレネード?」


 彼女はサトを見た。


「サト。どういうことですか」


「森都《シント》を旅立つ時、ロッカから受け取ったやつだ」


 サトは角級から目を離さずに言った。


「ここぞという時に使えってな」


「それを、ハクに?」


「ああ」


 サトは唇を噛む。


「ハクに頼まれた。自分に切り札が欲しい。相手を出し抜ける何かが欲しいと。だから、託した」


「そんなことが……」


 レタラサラが、震える声で呟く。


 対侵食獣用グレネード。


 それは確かに強力な武装だった。


 だが、本来は人間が対峙し得る相手を想定したものだ。


 角級相手に、ましてやこれほど侵食が進んだ個体相手に、決定打になるものではない。


 二つ重ねても、一呼吸。


 一瞬、動きを止めるのが限界だった。


 しかし。


 ハクには、その一呼吸で十分だった。


 ハクは待っていたのだ。


 相手が振りかぶり、懐が空く、この瞬間を。


 爆煙の中、ハクが踏み込む。


 壊れた脚が雪を噛む。


 補助具が悲鳴を上げる。


 それでも、ハクは角級の懐に入った。


 そして、その首筋に噛みついた。


 ガギギギィ。


 硬い金属に、硬い牙が食い込む音。


 角級が暴れる。


 ハクの身体が大きく揺さぶられる。


 だが、ハクは離さない。


 ハクの胸部奥。


 エーテルコアエンジンが、唸った。


 心臓部から、直接、動力が引き出される。


 安全弁を通さない。


 緩衝層も通さない。


 コアから牙へ。


 生命線を焼くような、無茶な接続。


 サトは何度も断った。しかしハクはそれでもこの機能を欲した。


 それは修理ではない。


 武装でもない。


 機械のハクにとって、命を雷に変える自爆技に等しい最後の奥の手。


「牙雷撃」


 ハクが、低く告げた。


 雷が走った。


 角級の首筋から、全身へ。


 黒い侵食に覆われた装甲の隙間を、白い閃光が駆け抜ける。


 角級の体内で、何かが焼ける。


 黒い霧が弾け、煙が噴き上がる。


 雪原が白く染まるほどの光が広がった。


 角級が、悲鳴を上げた。


 それは怒りではなかった。


 憎悪でもなかった。


 壊れた記録が、最後に軋むような声だった。


 雷撃は止まらない。


 ハク自身の身体からも煙が上がっていた。


 補助具が砕ける。


 主脊梁が軋む。


 脚部の駆動が乱れる。


 それでも、牙は離れない。


 やがて、角級の巨体が崩れた。


 黒い脚が折れる。


 爪が雪を掻く。


 そのまま、重い音を立てて倒れ込んだ。


 ズドォォン。


 雪煙が上がる。




 角級が倒れた直後、壊れた記録が軋むような声が聞こえた。


 ほんの一瞬。


 聞き間違いだったのかもしれない。


「キョウカイ……イジョウ……ナシ……」


 誰に向けた報告だったのかは分からない。


 かつて守っていた都市へか。


 逃がした人々へか。


 それとも、目の前の同胞へか。


 雪煙が上がる。


 その横に、ハクも倒れた。


 壮絶な光景だった。


 誰も動けなかった。


 誰も喋れなかった。


 黒い雪。


 白い雷の残滓。


 倒れた二体の銀狼。


 長すぎる因縁が、ようやく終わったように見えた。


 最初に声を出したのは、サトだった。


「レタラサラさん!」


 サトは叫んだ。


「今です!」


 レタラサラは、はっと顔を上げる。


「っ……はい」


 彼女は駆け出した。


 倒れた角級の元へ。


 角級は沈黙している。


 だが、完全に消えたわけではない。


 黒い瘴気が、傷口からわずかに蠢いていた。


 呪いの欠片のようなものが、雪の上を這おうとしている。


 このまま放置すれば、また別の何かに乗り移るかもしれない。


 また同じ悲劇が起きるかもしれない。


 レタラサラは、角級の前に膝をついた。


 胸に手を当てる。


 三本の白い尾が、雪の上に広がった。


 彼女は祝詞を唱え始めた。


 それは、言葉というより歌に近かった。


 古くから白尾の里に伝わる、雪と森と祖霊へ捧げる祈り。


 失われたものを責めず、迷えるものを迎え入れるための鎮めの唄だった。


「ハルムカムイよ。


 遠きハルムカムイよ。


 雪の奥に坐すものよ。


 シリの底に眠るものよ。


 ウパシは降り、レラは巡り、アペは消えず。


 ワッカは黒きを洗い、ニタイは名を忘れぬ。


 カムイモシリより来たりしもの。


 アイヌモシリに迷いしもの。


 怒りは雪に預けよ。


 嘆きは風に返せ。


 名を失いしものよ。


 道を失いしものよ。


 守りし火の跡を忘れるな。


 背に負いし声を忘れるな。


 コタンの煙は、まだ空へ昇る。


 白き尾の影に入り、黒き夢よ眠れ。


 ウパシ。


 レラ。


 ワッカ。


 アペ。


 巡り、ほどけ、還り給え。


 白尾の祈りをもって、汝を抱く。


 シリへ。


 ニタイへ。


 遠きハルムカムイの膝元へ。


 静かに。


 静かに。


 雪となりて、還り給え」


 その声は、吹雪の中でも不思議なほど遠くまで届いた。


 雪が、静かに舞い始めた。


 角級の巨体が、少しずつ小さくなっていく。


 黒い装甲がほどける。


 闇が糸のように細くなり、レタラサラの前へ集まる。


 それは小さく丸まり、黒い珠のようになった。


 サトは息を呑んだ。


「レタラサラさん……?」


 レタラサラは、その黒い珠を両手で包んだ。


 そして、胸元へ引き寄せる。


 次の瞬間。


 黒い珠は、彼女の身体の中へ沈んだ。


「レタラサラさん!? 何を!」


 サトが叫ぶ。


 ツキハも目を見開く。


 神威が低く鳴いた。


 レタラサラは、ゆっくりと息を吐いた。


「問題ありません」


 その声は静かだった。


 だが、先ほどまでよりも少しだけ遠く聞こえた。


「侵食獣は、私に封印しました」


「封印って……」


 ツキハが言葉を失う。


 そして、気づいた。


「尻尾が……」


 レタラサラの背後に、四本目の尾が生えていた。


 白い尾が三本。


 そして、新しく現れた、闇のように黒い尾が一本。


 それは他の尾と同じように揺れている。


 けれど、色だけが違った。


 白い御前様の背に、一本だけ黒い覚悟が宿っていた。


「夫が命をかけて、侵食獣を鎮めました」


 レタラサラは、倒れたハクを見た。


「あとは、私が幾千の時間をかけてでも浄化いたしましょう」


 黒い尾が、静かに揺れる。


「それが、夫の望みです」


 サトは何も言えなかった。


 ツキハも。


 レラも。


 ノチウも。


 誰も。


 やがて、東の空が淡く白んだ。


 長い長い戦いが、終わろうとしていた。


 朝日が、雪原を照らす。


 白い雪。


 黒く汚れた戦場。


 倒れた銀狼。


 四本の尾を持つ白尾の御前。


 遠くから、声が聞こえた。


 人の声。


 橇の音。


 金属の鳴る音。


 ようやく、雪幌都《サツホロ》からの救援が到着したのだろう。


 だが、サトの意識はそこには向かなかった。


 レタラサラは、ハクの前に座り込んでいた。


 白い手が、傷ついた鼻先に触れる。


「ハク……」


 牙雷撃は、最後の奥の手だった。


 機械のハクにとっては、自爆技と言っていい。


 サトも、ふらつく足でハクに近づいた。


 ツキハがその横に並ぶ。


 神威も、足を引きずりながら近づいてきた。


「これは……」


 サトは言葉を失った。


 ハクの主脊梁は、中央で砕けていた。


 補助具は焼き切れ、固定していた複合板も割れている。


 エーテル流体は凍りかけ、胸部の奥からは、今にも消えそうな微かな光が漏れていた。


 ツキハが口元を押さえる。


 レタラサラは、何も言わなかった。


 ただ、ハクの頭を抱き寄せる。


 朝日が昇る。


 雪原の端で、救援の声が近づいてくる。


 サトは、砕けた主脊梁と、胸部の奥に残るかすかな光を見つめていた。

神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。


神威もたぶん尻尾を振ります。

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