第140話 同胞(一)
「ヤツト……」
ハクの光学センサーが、黒い角級を捉えた。
「ケッチャクヲ、ツケル」
雪原に、誰の声もなかった。
白尾村から一キロほど離れた平原。
白い雪は、すでに幾度もの戦闘で黒く汚れていた。
坑道の罠。
自然の罠。
月の罠。
サトたちが用意した手札は、ほとんど使い切っている。
それでも角級は止まらなかった。
だが、今。
壊れかけた銀狼が、その前に立っている。
ハクの銀白の装甲は裂け、主脊梁を支える補助具は歩くたびに軋んでいた。
前脚の駆動は不安定。
背部の外装は応急固定。
胸部からは、細かな火花が散っている。
戦える状態ではない。
誰が見ても、そう分かる姿だった。
「いけません」
レタラサラが震える声で言った。
「ハク。いけません。それ以上は……」
ハクは答えなかった。
ただ、黒い角級を見据えていた。
角級もまた、ハクを見ていた。
崩れた肩。
穴の開いた背。
潰れかけた脚。
黒く爛れた装甲。
腕や脚の欠けた部分は、どす黒い何かが形を作っていた。
目にあたる部分には、漆黒の渦があった。
そこから瘴気のような闇が漏れ、周囲の雪を犯していく。
かつての原型は、ほとんど残っていない。
壊れ、ひしゃげ、混ざり、喰らい、喰われ、もはや守護機だったものとは呼べない何かへ変わっていた。
それでも、ハクには分かるのだろう。
目の前の黒い獣が、かつて何であったのか。
「皮肉ナ、モノダ」
ハクが言った。
発声器は軋み、ところどころ音が乱れている。
「速サガ、自慢ノ、我ラノ決着ガ……コノヨウナ形ニ、ナルトハ」
角級から返答はない。
ただ、黒い雪を踏みしめる音だけがした。
「ソウハ、思ワヌカ」
ハクの光学センサーが、静かに瞬いた。
「同胞ヨ」
角級が吠えた。
「ギギャアァァォォオオォォォオ!」
甲高く、耳障りで、すべてを恨むような叫びだった。
雪原が震える。
黒い瘴気が、角級の背から吹き上がる。
サトは思わずピッケルを握り直した。
神威が低く唸る。
ツキハが月片を胸元に引き寄せる。
レラは動かない腕を押さえ、ノチウはエーテルブラスターを構えたまま、息を殺していた。
ハクは、わずかに頭を下げた。
「……終ワリニ、シヨウ」
◇
かつて、二体の銀狼がいた。
都市を守るために作られた機械狼。
境界を見張り、人を守り、災いを退けるための守護機。
世界が滅びの日を迎えたあと、人類の数は大きく減った。
都市は沈み、道は途切れ、空は濁り、文明の多くは沈黙した。
人間だけではない。
守護機もまた、多くが散った。
補給は途絶えた。
整備する者も減った。
部品は失われ、記録は欠け、命令系統は遠い昔に断絶した。
それでも、彼らは守った。
わずかに生き残った人間を。
寒さに震える子どもを。
旅の途中で倒れた老人を。
瓦礫の街で火を守る集落を。
それが彼らの存在意義であり、生きる目的だった。
一体は、雪幌都周辺を守った。
もう一体は、苫小沼威周辺の守護を主軸とした。
自然災害。
有害超獣。
敵意ある精霊獣。
狂った機械。
そして、侵食されたものたち。
時には単独で。
時には協力して。
二体の機械狼は、壊れかけた世界で、人間を守り続けた。
機械の体は、ゆっくりと朽ちていった。
関節は軋み、装甲は剥がれ、センサーは曇り、尾の駆動系は何度も断線した。
それでも、動けるなら動いた。
立てるなら立った。
牙が残っているなら、牙を向けた。
だが、何百年か経ったころ、不思議なことが起き始めた。
壊れたはずのセンサーが、雪の向こうの気配を捉えた。
断線したはずの尾が、風に応じて動いた。
攻撃の瞬間、いつもより強い一撃が出るようになった。
装甲の隙間に、白い霜ではない光が宿ることがあった。
連れ添うようになった妻は、それを精霊化の進行だと言った。
ハクの心臓――エーテルコアエンジンには、精霊を用いた技術が使われている。
長い年月を経て、そのコアから漏れ出したものに、祈りや願いが何度も混ざり合った。
村人の感謝。
救われた子どもの笑顔。
炉の前で捧げられた小さな祈り。
雪の夜に、銀狼の無事を願った声。
それらが積もり、巡り、やがてハクの身体の一部を、精霊流が構成するようになったのだという。
難しいことは、ハクには分からなかった。
ただ、それで使命を果たせるのなら、喜ばしいことだと思った。
また、長い月日が流れた。
ある日、人間から苫小沼威が侵食獣によって滅ぼされたことを知った。
牙級が群れて襲ってきたのだという。
警備隊は全滅。
多くの人間が亡くなった。
家も、道も、観測所も、守るべきものの多くが黒く沈んだ。
それでも、多くの人間が雪幌都へ逃れることができた。
避難民が最後に見たもの。
それは、傷ついた機械狼が、侵食獣の群れを足止めするため、たった一体で立ち向かう姿だった。
壊れた装甲。
砕けた牙。
それでも退かず、逃げる人間たちの背を守り続ける銀狼の姿だった。
ハクは、その話を聞いた時、こう思った。
ああ。
やつは、立派に務めを果たして逝ったのだ。
そう思っていた。
そう考えていた。
それなのに。
ある冬の日。
北から、精霊流の乱れが来た。
白い雪を黒く染める、異様な気配。
ハクとレタラサラが向かった先で見たものは、闇を纏い、正気を失い、多くの何かと混ざり合い、侵食獣と化した同胞の姿だった。
かつて守ったものを忘れたのか。
忘れさせられたのか。
それとも、守れなかった痛みだけが残ったのか。
ハクには分からなかった。
分かったのは一つだけ。
終わらせなければならない。
それが、残された自分の務めだった。
◇
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神威もたぶん尻尾を振ります。




