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月から落ちた少女と、神に愛された機械狼  作者: 玄達瀬


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第138話 月の罠(一)

雪原を、白い影が戻ってきた。


 神威だった。


 腹部の共鳴パネルは半分砕け、そこから白い光が細く漏れている。


 右前脚をかばうようにして走っているため、いつものような軽やかさはない。


 それでも、神威は倒れなかった。


 雪を踏みしめ、息を荒げるように短く鳴きながら、サトたちのいる平原へ駆けてくる。


「神威!」


 サトは思わず駆け寄りかけた。


 だが、すぐに踏みとどまる。


 まだ終わっていない。


 神威も、それを分かっているようだった。


「わぅ……」


 神威はサトの前まで戻ると、少しだけ頭を下げた。


 腹部の破損したパネルが、ぎしりと嫌な音を立てる。


「お前、脚……」


「移動は可能です」


 ツキハが神威を見ながら言った。


「ただし、右前脚の負荷が増大しています。腹部共鳴パネルは、ほぼ機能停止」


「帰ったら絶対診る」


「わぉん」


「軽い返事するな。説教も込みだ」


「きゅーん」


 神威は少しだけ耳を伏せた。


 反省しているようにも見える。


 していないようにも見える。


 尻尾はこっそり揺れていた。


 サトは息を吐いた。


 怒りたい。


 頭を撫でたい。


 けれど、どちらも今は後だった。


 ここは、白尾村からおよそ一キロ離れた平原。


 森を抜けた先に広がる、風通しの良い雪原。


 身を隠すものは少ない。


 逃げ道も限られる。


 だが、そのぶん空が広い。


 ツキハが見上げた。


「角級、来ました」


 雪煙の向こう。


 黒い影が近づいてくる。


 雪崩を受け、氷柱に貫かれ、なお進むもの。


 黒く爛れた銀狼。


 守護者のなれの果て。


 角級は、一歩ごとに雪を黒く染めながら近づいていた。


 傷は深い。


 背部装甲は裂け、脚部も歪んでいる。


 それでも、止まらない。


 黒い侵食が、傷口を無理やり埋めている。


 壊れた部分に、闇そのものを詰め込んで動かしているようだった。


「さて」


 サトはピッケルを握り直した。


「最後の罠だ。ツキハ」


「はい」


 ツキハは、白兎端末を取り出した。


 白い兎を模した小型端末。


 月竹との接続を補助するための、ツキハにとって特別な装置だった。


 それを耳元に装着する。


 月片が淡く光る。


 ツキハの上で、兎耳が月光のように淡く輝いた。


「月竹」


 ツキハは静かに告げる。


「光学遮蔽迷彩、解除」


 空が揺れた。


 何もなかったはずの空間が、淡く歪む。


 雪雲の下。


 地上数百メートルの位置に、巨大な影が現れた。


 月竹だった。


 竹のような節を持つ、月の舟。


 白く、古く、美しく、どこか傷ついた姿で、それは空に浮かんでいた。


 サトは、その姿を見上げる。


「お前の月竹を、こんな風に使ってすまん」


 ツキハは目を伏せた。


 一瞬だけ。


 だが、次に顔を上げた時、その目には迷いがなかった。


「確かに、不適切です」


 ツキハは言った。


「でも、必要なことです」


 角級が近づいてくる。


 黒い爪が雪を砕く。


 そのたびに、白い平原が汚れていく。


 ツキハは白兎端末へ指を添えた。


「月竹、投下位置へ到達」


 空に浮かぶ月竹が、わずかに軋むような音を立てた。


「搭載物、固定解除します」


 サトは小さく息を吸った。


「本当にやるんだな」


「はい」


 ツキハは、角級を見据えたまま言う。


「不適切な使用方法ですが、許容します」


 月竹が、ゆっくりと回転した。


 下腹部にあたる格納部が開く。


 そこから、まず大きな岩が落ちた。


 続いて、石材。


 壊れた除雪具の重り。


 古い鉄塊。


 修理に使えなかった廃材。


 凍りついた丸太。


 白尾村の人々が、前日のうちに総出で積み込んだものだった。


 この村に滞在して、もう一か月を過ぎている。


 月竹の自動修復できるところはすでに終えていた。


 しかし、こんな使い方など、本来ならするべきではない。


 月竹は武装舟ではない。


 人を運び、物を運び、月と地上をつなぐための舟だった。


 やらなくて済むなら、やりたくなかった。


 けれど。


「質量と重力は、十分な武装となります」


 ツキハの声が、白い平原に落ちた。


 月竹は故障により、大気圏まで浮上することはできない。


 それでも、地上数百メートルから落ちる質量は脅威だった。


 まして、それを月竹はかなり前からこの位置へ浮上させ、周囲の風を読み、ツキハと通信を取りながら、落下位置を計算していた。


 風向き。


 高度。


 落下速度。


 角級の移動速度。


 雪面での滑り。


 すべてを合わせて、白尾村がかき集めた質量を、ただ一点へ落とす。


 その結果が、今、空から降ってきた。


 一発目。


 巨大な岩が、角級の背部に直撃した。


 爛れた背部装甲が砕け散る。


 黒い霧が噴き上がった。


 二発目。


 石材と鉄塊が、角級の片脚を押し潰した。


 黒い爪が雪に沈む。


 角級の巨体が、大きく傾いた。


 三発目。


 凍った丸太と廃材が束になって落下し、胸部周辺の外装を剥ぎ取った。


 轟音。


 白い雪原が爆ぜる。


 雪と土煙が、角級を包み込んだ。


 サトは歯を食いしばる。


 今度こそ、は言わない。


 それを口にした瞬間、ろくなことにならない。


 だが、効いた。


 月竹の落石は、角級に明確な大ダメージを与えていた。


 その時、雪煙の向こうから、二つの影が走ってきた。


 レラとノチウだった。


 レラは肩で息をしている。


 大剣の刃は欠け、柄のカートリッジは二つ空になっていた。


 ノチウの外套には黒い焦げ跡があり、エーテルブラスターの銃身から薄く煙が上がっている。


「遅くなった」


 ノチウが淡々と言う。


「爪級、沈黙確認」


「さらっと言うな」


 レラが荒い息のまま笑った。


「死ぬかと思ったわ」


「そっちも無事でよかった」


 サトは短く言った。


 本当はもっと言いたいことがあった。


 だが、今はそれで十分だった。


 レラは空を見上げる。


 月竹から、まだ細かな雪と破片が落ちていた。


「それよりツキハ。いい落石だな」


 レラは苦笑した。


「山より空の方が乱暴じゃねぇか」


「乱暴ではありません」


 ツキハは答える。


「計算です」


「計算であれなら、なお怖ぇよ」

神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。


神威もたぶん尻尾を振ります。

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