第134話 坑道の罠(一)
「よし。四匹とも釣れた!」
丘の上から北の雪原を見ていたサトは、思わず拳を握った。
神威の白い影が、北西へ走っていく。
その後ろを、四つの黒い影が追っていた。
第一段階は成功。
少なくとも、侵食獣たちは白尾村ではなく、北部排水連絡坑へ向かっている。
白尾村からも、雪幌都へ続く道からも、離れていく。
だが、喜びは一瞬だけだった。
「……頼むぞ、神威」
あの距離を、あの速度で、あの化け物たちを引きつけ続けなければならない。
一歩間違えば、追いつかれる。
少し離れすぎれば、侵食獣は神威を諦めるかもしれない。
近づきすぎれば、神威が呑まれる。
囮とは、ただ逃げることではない。
追わせ続けることだ。
サトは、遠くを走る白い影を見つめた。
「神威ならできます」
隣でツキハが言った。
声は冷静だった。
だが、月片を握る指には力が入っている。
「ああ」
サトは頷いた。
「分かってる」
分かっている。
だが、心配しない理由にはならなかった。
レタラサラは、丘の端から北を見ていた。
その肩には、小狐が戻ってきている。小狐は尾を揺らしながら、神威の走る先をじっと見つめていた。
「神威様……」
レタラサラが、かすかに呟く。
その声には、祈りに似た響きがあった。
◇
神威は雪原を駆けた。
胸の奥が熱い。
腹部から展開した共鳴パネルが、白い光を断続的に放っている。
ハクの旧来信号を模したパルス。
それが、風と雪に乗って背後へ流れていく。
黒い影たちは、それに食いついた。
ズゴォン。
ズゴォン。
重い足音が、雪原を揺らす。
神威は速度を上げすぎないように走った。
速く走るだけならできる。
サトが調整してくれた脚は、雪の上でも沈みにくい。雪上用に調整された爪は、氷を噛み、固い雪の層を蹴る。
だが、今は逃げ切ってはいけない。
離れすぎてもいけない。
背後の黒いものたちが、こちらを見失わないぎりぎりの距離。
恐怖を覚えるほど近く。
けれど、牙が届くほどではない距離。
そこを保たなければならない。
「わふっ」
神威は短く息を吐くように鳴いた。
雪原が終わり、雪の森へ入る。
白い樹々が並んでいた。
枝には重い雪が積もり、風が吹くたびにさらさらと落ちる。
神威は木々の間を縫うように走った。
低く。
速く。
右へ。
左へ。
時に倒木を跳び越え、時に雪に埋もれた岩を蹴って進む。
背後の侵食獣たちは、そんな細かい動きをしなかった。
木が邪魔なら砕く。
岩があれば踏み潰す。
雪の山があれば、黒く汚しながら押し潰す。
ズガァン。
太い木が一本、根元からへし折れた。
倒れてくる幹の下を、神威は身を沈めてくぐり抜ける。
背後で、幹が爆ぜた。
侵食獣が、倒木ごと粉砕して突き進んできたのだ。
木片が雪の上に降る。
黒い欠片も混じっていた。
神威は振り返らなかった。
振り返ってはいけない。
サトがそう言っていた。
距離を測るのは耳でいい。
音でいい。
背後の重さでいい。
神威は走る。
走る。
走る。
足がまともに動かなくなってから、どれほどの年月が過ぎただろう。
自分は、どれほど長く、走ることを忘れていただろう。
各地を放浪していた時間。
ゴミ山の片隅で眠っていた時間。
動かない脚。
軋む関節。
役目を失った身体。
こんなに駆けたのは、いつ以来だろうか。
神威の胸の芽が、風に揺れた。
白い雪原。
雪の森。
背後に迫る闇。
それでも、神威は思った。
走れる。
今、自分は走れている。
その時だった。
背後で、違う音がした。
重い足音ではない。
空気を裂く音。
鋭く、細く、けれど凶悪な音。
神威の耳が動いた。
次の瞬間、後方から黒い杭のようなものが飛んできた。
一本ではない。
三本。
いや、次々に。
爪級の背中から、杭のような黒い突起が射出されていた。
想定外だった。
角級は近距離型。
その判断は、おそらく間違っていない。
だが、随伴する爪級まで近距離だけとは限らない。
黒い杭が、神威の右側の木に突き刺さる。
直後、木が内側から爆ぜた。
幹が裂け、黒い霧のようなものが散る。
神威は飛び退いた。
その着地点を狙うように、次の杭が飛んでくる。
雪が爆ぜた。
足元の雪が黒く染まり、粘るように跳ね上がる。
「わぅっ!」
神威は体勢を崩しかけた。
だが、前脚で雪を噛み、無理やり踏みとどまる。
さらに一本。
さらに二本。
森の中で、黒い杭が次々に放たれる。
木々が砕ける。
雪が爆ぜる。
枝が落ちる。
神威はその隙間を走った。
白い影が、黒い破片と雪煙の間をすり抜けていく。
だが、すべてを避けられるわけではなかった。
一本の杭が、神威のすぐ後ろに突き刺さった。
地面が爆ぜる。
衝撃が後脚をすくった。
神威の体が、雪の上を転がる。
腹部の共鳴パネルが雪に擦れ、嫌な音を立てた。
光が乱れる。
神威はすぐに立ち上がろうとした。
右前脚が雪を掴む。
左後脚が沈む。
体を起こす。
だが、すでに次の杭が目の前に迫っていた。
黒い杭。
まっすぐに。
神威の胸を狙って。
「神威っ!」
聞こえるはずのない声がした気がした。
サトの声。
いつも怒っている声。
口が悪くて、すぐ怒る。
でも本当は、いつも心配してくれていた。
人は脆弱な肉体しか持たない。
牙もない。
爪もない。
硬い装甲もない。
なのにサトは、いつも前に出る。
神威のために。
ツキハのために。
誰かのために。
そんな人間を、今度は自分が守らなければならない。
その瞬間。
神威の胸の紋章が光った。
白い光が、丸く広がる。
それは、古い銅鏡のような形をしていた。
ニギミタマ様から授かった守護の力。
絶対的な壁ではない。
すべてを跳ね返す無敵の盾でもない。
だが、今、神威がいちばん欲していたものだった。
走るために。
帰るために。
大切なものを守るために。
黒い杭が、光の銅鏡に触れた。
甲高い音が響く。
杭は砕けなかった。
止まりもしなかった。
ただ、その軌道が、ほんのわずかに逸れた。
その、ほんのわずかが、神威の命を救った。
杭は神威の胸を外れ、腹部の共鳴パネルをかすめて雪に突き刺さる。
爆発。
白と黒の雪煙が舞い上がった。
神威の身体が押し飛ばされる。
だが、倒れない。
倒れてはいけない。
神威は雪煙の中から飛び出した。
腹部から展開していたパネルは、半分が砕けていた。
白い光が途切れ、ハクの信号が乱れる。
もう、まともには出せない。
右前脚も軋んでいる。
着地のたびに、内部で何かが擦れる音がした。
あぁ。
またサトに診てもらわねば。
神威は、なぜか少しだけ安心した。
壊れたなら、直してもらえばいい。
帰れば、サトが怒る。
きっと怒る。
そして、文句を言いながら直してくれる。
そんな時間を神威は気に入っている。
だから、帰る。
帰るために、今は走る。
神威は振り返らなかった。
共鳴パネルが壊れても、もう十分だった。
四つの闇は、まだ神威を追っている。
雪の森を抜けた先、地面の形が変わった。
雪の下に、古い構造物が眠っている場所。
北部排水連絡坑。
サトが落ちた場所。
そして今、侵食獣を落とす場所。
神威は、指定された目印を見つけた。
雪に半分埋もれた、黒い岩。
その横を、低く駆け抜ける。
全力で。
背後で、黒い影たちが同じ場所へ踏み込んだ。
◇
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




