第133話 知略の罠(二)
観測院の卓上には、白尾村北方の地図が広げられていた。
古い地図だ。
何度も書き込みが足され、消され、また書き込まれている。
その上に、ツキハが月片で投影した地形図が重なっていた。
北部排水連絡坑。
サトが落ちた、あの地下構造。
今はその入口と周辺の斜面、雪の積もり方、風の抜け道までが細かく示されている。
炉の火は燃えていた。
だが、部屋の空気は重い。
エカシは村人の避難手順を書いた板を見ている。
レラは腕を組み、ノチウは地図の端に膝をついて雪の流れを読んでいた。
レタラサラは静かに座っている。
その指先から伸びる見えない糸の先には、修理小屋で眠るハクがいた。
「それで」
サトは地図を見下ろした。
「どうやって角級たちを引き付けるかだが」
最初に口を開いたのは、レタラサラだった。
「あの侵食獣は、おそらくハクを追っています」
その言葉に、場の空気がさらに冷えた。
「前回、ハクと私で退けた時、あれはハクを執拗に狙っていました。あの個体は、かつての境界管理機の信号に反応します」
「つまり、ハクが旧来の信号を出せば……」
ツキハが言う。
レタラサラは頷いた。
「敵性目標として、進路を変える可能性があります」
「ハク本人は動かせない」
サトは即座に言った。
「主脊梁がもたない。そもそも、今立たせるだけでも危ない」
「分かっています」
ツキハは月片を操作しながら続けた。
「では、ハクの信号を模したビーコンを作れないでしょうか。カツザンの時のように」
「ビーコンか……」
サトは考え込んだ。
「理屈としては分かる。だが、信号パルスを一定距離まで飛ばせる照射装置が必要だ。白尾村の設備で明後日までに一から作るのは難しい」
「カツザンの時は」
「神威のパルスを利用した」
サトはそこまで言って、言葉を止めた。
ツキハも同時に止まった。
二人の視線が、ゆっくりと同じ方向へ向く。
部屋の隅で伏せていた神威が、顔を上げた。
「わぉん?」
サトは額を押さえた。
「……いや、そうなるよな」
「適性はあります」
ツキハが冷静に言った。
「神威はハクに近い機械狼型の個体です。完全な同一信号ではなくとも、ハクの旧来信号を模したパルスを重ねれば、侵食獣が反応する可能性は高い」
「可能性は高い。そして、危険度も高い」
「はい」
「囮になるってことだぞ」
「はい」
神威は立ち上がった。
尾を一度だけ振る。
「わぉん!」
やる気満々だった。
「即答するな」
サトは眉をしかめる。
「相手は爪級三体と角級だ。お前が速くても、何か一つ間違えば終わる」
「わぉん」
「だから、いい返事をするな」
神威はもう一度鳴いた。
その声は、いつもより少しだけ低かった。
サトは言葉に詰まる。
ツキハが、神威を見ていた。
「サト」
「なんだ」
「神威は、あの時のことを気にしています」
「あの時?」
「あなたが、北部排水連絡坑へ落ちた時です」
神威の耳が、わずかに伏せた。
「自分が示した道で、サトを危険に晒したと考えているようです」
「……あれは神威のせいじゃない」
「はい。私もそう判断しています」
ツキハは静かに言った。
「ですが、神威はそう判断していません」
部屋に、小さな沈黙が落ちた。
神威はサトを見ていた。
二つの瞳で。
まっすぐに。
役に立ちたいと。
サトは、ゆっくりと息を吐いた。
「馬鹿だな、お前は」
「わぉん」
「褒めてない」
神威は、それでも尾を振った。
サトはしゃがみ込み、神威の胸部装甲に手を当てた。
そこには、あの芽と連動するように、淡い模様が浮かんでいる。
ニギミタマから授かった守護の力。
機械の信号とは違う、けれど今の神威を形作っているもの。
祈る。
どうか、神威を守ってくれますように。
サトは言った。
「腹部のパネルに、ハクの旧来信号を一時的に重ねる。完全な偽装にはならないが、侵食獣を振り向かせるくらいはできるはずだ」
「経路は」
ノチウが地図を指差す。
「この尾根を使う。神威はここから出て、北西へ逃げる。角級が追えば、自然に北部排水連絡坑の崩落帯へ向かう」
「子分も全部来るか?」
レラが問う。
「そこは分かりません」
ツキハが答える。
「ですが、親玉が神威を敵性目標と認識すれば、随伴個体も追従する可能性が高いです」
「落とし穴に誘導して、爆薬で崩す」
サトが地図上に印をつける。
「ただし、一発で終わるとは思わない方がいい」
「だろうな」
レラが笑った。
「そんな簡単に沈むなら、御前様と銀狼様が苦労してねぇ」
レタラサラは静かに目を伏せた。
「私は、ハクを支える糸を離せません。力の多くは、今も夫に注いでいます」
「分かっています」
サトは言った。
「それでも、動ける範囲で力を貸してもらえますか」
「もちろんです」
レタラサラは頷いた。
「ですが、サト」
「はい」
「あれと近距離で戦ってはいけません」
声が、わずかに低くなった。
「あれは、かつて守るために作られたものです。壊れてなお、牙も爪も、守護機としての硬さも残っています。人の身体で受ければ、砕けます」
レラが肩をすくめた。
「じゃあ、受けなきゃいい」
「受けないでください」
「分かってるって」
ツキハは月片を動かし、別の地形図を重ねた。
「第一プランが失敗した場合、第二プランに移行します。こちらは雪崩の誘発です」
「雪崩?」
エカシが顔を上げる。
「危険じゃぞ。村へ流れれば――」
「村へは流しません」
ノチウが短く言った。
「この斜面なら、北部の窪地へ落とせる。雪質、風向き、傾斜、全部合ってる」
「全部合ってる、じゃないだろ」
サトは苦笑した。
「合わせるんだ。爆薬で」
レラが楽しそうに笑った。
「いいねぇ。山ごと使うってわけだ」
「ただし、連鎖位置はかなり繊細です」
ツキハは言った。
「設置は私とノチウで行います。村の協力者には、指定した位置まで運ぶ作業だけをお願いする形が安全です」
エカシが頷いた。
「村人の避難は、わしがやる。足の悪い者、子ども、老人から先に動かす。若い者を二人、雪幌都へ走らせる」
「救援は」
「間に合わんじゃろうな」
エカシははっきりと言った。
「それでも知らせねばならん。ここで何が起きているかを、誰かが知っておかねばならん」
サトは頷いた。
「お願いします」
「頼むのはこっちじゃ」
エカシは地図の上に手を置いた。
「白尾村は、白尾の御前様と銀狼様に守られてきた。なら今度は、わしらができることをする番じゃ」
誰も笑わなかった。
誰も茶化さなかった。
その言葉は、炉の火よりも静かに、だが確かに部屋を温めた。
「サト」
ツキハが言った。
「神威への信号調整は、どの程度かかりますか」
「一刻あれば最低限はできる。ただ、安定性は保証できない」
「私も補助します」
「いや、お前は地形計算と設置に回れ。それと万が一のため一つ頼みたいことがある」
「頼み…ですか?」
ツキハは少しだけ沈黙した。
それから頷いた。
「分かりました」
「神威」
サトはもう一度、神威の頭を撫でた。
「信号は正しく出せるようにする。だが、最後はお前の脚だ。距離を間違えるな。振り返りすぎるな。無理だと思ったら逃げろ」
「わぉん」
「それと」
サトは少しだけ声を落とした。
「あの時のことを気にしてるなら、間違ってる。俺が落ちたのは、お前のせいじゃない」
神威はサトを見た。
「でも、今回だけは頼る」
サトは言った。
「お前が要だ。俺たちを、勝たせてくれ」
神威の胸の模様が、静かに光った。
「わぉん」
今度の返事は、少しだけ違って聞こえた。
ただの元気な返事ではない。
約束のような声だった。
◇
そして、今。
神威は北の雪原に立っていた。
腹部から展開したパネルが白く光っている。
ハクの旧来信号を模したパルスが、雪と風に乗って広がっていく。
四つの闇が、こちらを見ている。
先頭の角級が、ゆっくりと口を開いた。
音にならない音が、雪原を震わせる。
それは怒りのようでもあり、悲鳴のようでもあった。
神威は一歩、後ろへ下がった。
誘うように。
挑発するように。
そして、もう一度吠えた。
「わぉん!」
来い。
言葉にはならない。
けれど、その意思だけは、確かに北の闇へ届いた。
ズゴォン。
角級が、一歩を踏み出した。
続いて、三つの爪級が動く。
神威は身を翻した。
白い雪を蹴り上げ、北西へ駆ける。
背後で、闇が動き出した。
第一の罠へ向かって。
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




