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月から落ちた少女と、神に愛された機械狼  作者: 玄達瀬


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133/159

第133話 知略の罠(二)

観測院の卓上には、白尾村北方の地図が広げられていた。


 古い地図だ。


 何度も書き込みが足され、消され、また書き込まれている。


 その上に、ツキハが月片で投影した地形図が重なっていた。


 北部排水連絡坑。


 サトが落ちた、あの地下構造。


 今はその入口と周辺の斜面、雪の積もり方、風の抜け道までが細かく示されている。


 炉の火は燃えていた。


 だが、部屋の空気は重い。


 エカシは村人の避難手順を書いた板を見ている。


 レラは腕を組み、ノチウは地図の端に膝をついて雪の流れを読んでいた。


 レタラサラは静かに座っている。


 その指先から伸びる見えない糸の先には、修理小屋で眠るハクがいた。


「それで」


 サトは地図を見下ろした。


「どうやって角級たちを引き付けるかだが」


 最初に口を開いたのは、レタラサラだった。


「あの侵食獣は、おそらくハクを追っています」


 その言葉に、場の空気がさらに冷えた。


「前回、ハクと私で退けた時、あれはハクを執拗に狙っていました。あの個体は、かつての境界管理機の信号に反応します」


「つまり、ハクが旧来の信号を出せば……」


 ツキハが言う。


 レタラサラは頷いた。


「敵性目標として、進路を変える可能性があります」


「ハク本人は動かせない」


 サトは即座に言った。


「主脊梁がもたない。そもそも、今立たせるだけでも危ない」


「分かっています」


 ツキハは月片を操作しながら続けた。


「では、ハクの信号を模したビーコンを作れないでしょうか。カツザンの時のように」


「ビーコンか……」


 サトは考え込んだ。


「理屈としては分かる。だが、信号パルスを一定距離まで飛ばせる照射装置が必要だ。白尾村の設備で明後日までに一から作るのは難しい」


「カツザンの時は」


「神威のパルスを利用した」


 サトはそこまで言って、言葉を止めた。


 ツキハも同時に止まった。


 二人の視線が、ゆっくりと同じ方向へ向く。


 部屋の隅で伏せていた神威が、顔を上げた。


「わぉん?」


 サトは額を押さえた。


「……いや、そうなるよな」


「適性はあります」


 ツキハが冷静に言った。


「神威はハクに近い機械狼型の個体です。完全な同一信号ではなくとも、ハクの旧来信号を模したパルスを重ねれば、侵食獣が反応する可能性は高い」


「可能性は高い。そして、危険度も高い」


「はい」


「囮になるってことだぞ」


「はい」


 神威は立ち上がった。


 尾を一度だけ振る。


「わぉん!」


 やる気満々だった。


「即答するな」


 サトは眉をしかめる。


「相手は爪級三体と角級だ。お前が速くても、何か一つ間違えば終わる」


「わぉん」


「だから、いい返事をするな」


 神威はもう一度鳴いた。


 その声は、いつもより少しだけ低かった。


 サトは言葉に詰まる。


 ツキハが、神威を見ていた。


「サト」


「なんだ」


「神威は、あの時のことを気にしています」


「あの時?」


「あなたが、北部排水連絡坑へ落ちた時です」


 神威の耳が、わずかに伏せた。


「自分が示した道で、サトを危険に晒したと考えているようです」


「……あれは神威のせいじゃない」


「はい。私もそう判断しています」


 ツキハは静かに言った。


「ですが、神威はそう判断していません」


 部屋に、小さな沈黙が落ちた。


 神威はサトを見ていた。


 二つの瞳で。


 まっすぐに。


 役に立ちたいと。


 サトは、ゆっくりと息を吐いた。


「馬鹿だな、お前は」


「わぉん」


「褒めてない」


 神威は、それでも尾を振った。


 サトはしゃがみ込み、神威の胸部装甲に手を当てた。


 そこには、あの芽と連動するように、淡い模様が浮かんでいる。


 ニギミタマから授かった守護の力。


 機械の信号とは違う、けれど今の神威を形作っているもの。


 祈る。

 

 どうか、神威を守ってくれますように。


 サトは言った。


「腹部のパネルに、ハクの旧来信号を一時的に重ねる。完全な偽装にはならないが、侵食獣を振り向かせるくらいはできるはずだ」


「経路は」


 ノチウが地図を指差す。


「この尾根を使う。神威はここから出て、北西へ逃げる。角級が追えば、自然に北部排水連絡坑の崩落帯へ向かう」


「子分も全部来るか?」


 レラが問う。


「そこは分かりません」


 ツキハが答える。


「ですが、親玉が神威を敵性目標と認識すれば、随伴個体も追従する可能性が高いです」


「落とし穴に誘導して、爆薬で崩す」


 サトが地図上に印をつける。


「ただし、一発で終わるとは思わない方がいい」


「だろうな」


 レラが笑った。


「そんな簡単に沈むなら、御前様と銀狼様が苦労してねぇ」


 レタラサラは静かに目を伏せた。


「私は、ハクを支える糸を離せません。力の多くは、今も夫に注いでいます」


「分かっています」


 サトは言った。


「それでも、動ける範囲で力を貸してもらえますか」


「もちろんです」


 レタラサラは頷いた。


「ですが、サト」


「はい」


「あれと近距離で戦ってはいけません」


 声が、わずかに低くなった。


「あれは、かつて守るために作られたものです。壊れてなお、牙も爪も、守護機としての硬さも残っています。人の身体で受ければ、砕けます」


 レラが肩をすくめた。


「じゃあ、受けなきゃいい」


「受けないでください」


「分かってるって」


 ツキハは月片を動かし、別の地形図を重ねた。


「第一プランが失敗した場合、第二プランに移行します。こちらは雪崩の誘発です」


「雪崩?」


 エカシが顔を上げる。


「危険じゃぞ。村へ流れれば――」


「村へは流しません」


 ノチウが短く言った。


「この斜面なら、北部の窪地へ落とせる。雪質、風向き、傾斜、全部合ってる」


「全部合ってる、じゃないだろ」


 サトは苦笑した。


「合わせるんだ。爆薬で」


 レラが楽しそうに笑った。


「いいねぇ。山ごと使うってわけだ」


「ただし、連鎖位置はかなり繊細です」


 ツキハは言った。


「設置は私とノチウで行います。村の協力者には、指定した位置まで運ぶ作業だけをお願いする形が安全です」


 エカシが頷いた。


「村人の避難は、わしがやる。足の悪い者、子ども、老人から先に動かす。若い者を二人、雪幌都へ走らせる」


「救援は」


「間に合わんじゃろうな」


 エカシははっきりと言った。


「それでも知らせねばならん。ここで何が起きているかを、誰かが知っておかねばならん」


 サトは頷いた。


「お願いします」


「頼むのはこっちじゃ」


 エカシは地図の上に手を置いた。


「白尾村は、白尾の御前様と銀狼様に守られてきた。なら今度は、わしらができることをする番じゃ」


 誰も笑わなかった。


 誰も茶化さなかった。


 その言葉は、炉の火よりも静かに、だが確かに部屋を温めた。


「サト」


 ツキハが言った。


「神威への信号調整は、どの程度かかりますか」


「一刻あれば最低限はできる。ただ、安定性は保証できない」


「私も補助します」


「いや、お前は地形計算と設置に回れ。それと万が一のため一つ頼みたいことがある」


「頼み…ですか?」


 ツキハは少しだけ沈黙した。


 それから頷いた。


「分かりました」


「神威」


 サトはもう一度、神威の頭を撫でた。


「信号は正しく出せるようにする。だが、最後はお前の脚だ。距離を間違えるな。振り返りすぎるな。無理だと思ったら逃げろ」


「わぉん」


「それと」


 サトは少しだけ声を落とした。


「あの時のことを気にしてるなら、間違ってる。俺が落ちたのは、お前のせいじゃない」


 神威はサトを見た。


「でも、今回だけは頼る」


 サトは言った。


「お前が要だ。俺たちを、勝たせてくれ」


 神威の胸の模様が、静かに光った。


「わぉん」


 今度の返事は、少しだけ違って聞こえた。


 ただの元気な返事ではない。


 約束のような声だった。


     ◇


 そして、今。


 神威は北の雪原に立っていた。


 腹部から展開したパネルが白く光っている。


 ハクの旧来信号を模したパルスが、雪と風に乗って広がっていく。


 四つの闇が、こちらを見ている。


 先頭の角級が、ゆっくりと口を開いた。


 音にならない音が、雪原を震わせる。


 それは怒りのようでもあり、悲鳴のようでもあった。


 神威は一歩、後ろへ下がった。


 誘うように。


 挑発するように。


 そして、もう一度吠えた。


「わぉん!」


 来い。


 言葉にはならない。


 けれど、その意思だけは、確かに北の闇へ届いた。


 ズゴォン。


 角級が、一歩を踏み出した。


 続いて、三つの爪級が動く。


 神威は身を翻した。


 白い雪を蹴り上げ、北西へ駆ける。


 背後で、闇が動き出した。


 第一の罠へ向かって。

神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。


神威もたぶん尻尾を振ります。

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