第132話 知略の罠(一)
太陽が西の山へ沈み切るころ、北の奥に、小さな黒い影が揺らいだ。
ひとつではない。
四つ。
真っ白な雪原を、黒く染めながら近づいてくる。
「……来たか」
サトは、白尾村の北方にある丘の上で呟いた。
風は冷たい。
頬に当たる雪は細かく、針のようだった。
だが、寒さよりも先に、胸の奥へ重いものが沈んでいく。
黒い影は、まだ遠い。
それでも、分かった。
あれはただ歩いているだけではない。
雪を踏んでいるのではなく、侵している。
白い地面が、四つの影の下からじわじわと黒く汚れていくのが見えた。
「あと半刻ってところか」
レラが目を細める。
いつもの軽い口調だった。
だが、その手はすでに大剣の柄に添えられている。
「ん」
ノチウが頷いた。
「速くはない。でも、止まらない」
「手負いって話は本当らしいな」
「たぶん。完全な状態なら、もうここにいる」
「笑えねぇな、それ」
レラは口元だけで笑った。
サトは何も言わず、北を見た。
背後から、雪を踏む足音が近づいてくる。
「お待たせしました」
振り返ると、ツキハが丘を登ってきていた。
その肩には、レタラサラの小狐がちょこんと乗っている。白い尾を揺らしながら、小狐は北の闇をじっと見つめていた。
ツキハの息が、珍しく上がっている。
月衣に雪は積もらない。
それでも、その頬はわずかに赤く、指先は月片を強く握っていた。
「私の方も、準備完了しました」
「こっちも、なんとか形にはなった」
サトは北を見たまま言った。
「うまくいくかは、やってみないと分からないが」
「さぁねぇ」
レラが肩をすくめた。
「やれるだけやって、無理なら仕方ないさ」
「仕方ない、で済ませる気はありません」
ツキハが即答する。
ノチウが少しだけ首を傾けた。
「サトはすごい。今回の角級は近距離型。遠距離型だったら、この作戦は成立しなかった」
「遠距離型だったら?」
レラが聞く。
「たぶん、ここに立つ前に終わってた」
「……ほんと笑えねぇな」
サトは苦く息を吐いた。
「うまくいくといいんだがな」
それから、ツキハを見る。
「ツキハも、こんなこと頼んで悪い」
ツキハは一瞬だけ目を伏せた。
「いえ」
短い沈黙。
それから、静かに言う。
「命には代えられません」
その言葉は、いつものツキハらしく冷静だった。
けれど、冷たくはなかった。
サトは頷いた。
「それじゃ、私らもそろそろ配置に向かうわ」
レラが大剣を担ぎ直した。
「幸運を」
ノチウも短く言う。
「ああ。よろしく頼む。やばそうだったら、すぐ撤退してくれ」
「へいへい」
レラは手を振りながら歩き出した。
ノチウもその横に並ぶ。
雪の上に、二人分の足跡が残っていく。
「しかし、あいつ、こんな作戦考えるなんて、ただのヒモじゃなかったんだな」
「ん。高剛性炭素繊維を使用した特別製のヒモに違いない」
「おい」
サトは思わず振り返りかけた。
だが、北の影が視界の端で揺れたため、ぐっと耐えた。
眉間に皺が寄る。
ツキハが横から見上げた。
「否定しないのですか」
「今は優先順位を間違えないことにした」
「適切です」
「適切なのか……」
小狐が、くすりと笑ったように尾を揺らした。
その横で、レタラサラが静かに丘の上へ歩み出る。
白い羽衣が、雪明かりに淡く光っていた。
いつも通りの穏やかな顔。
だが、その視線だけは北を射抜くように鋭かった。
「我々も、そろそろ参りましょう」
「はい」
サトは頷いた。
そして、神威を見た。
神威は、丘の端に立っていた。
北を向いている。
背中の芽が、風に揺れている。
胸元の模様が、淡く白く脈打っていた。
「神威」
「わぉん」
「作戦開始だ。まずは最初の一手」
サトは、神威の頭に手を置いた。
冷たい金属の奥に、確かな熱がある。
「頼んだぞ」
「わぉん!」
神威は力強く鳴いた。
こいつから後ろ向きな返事を聞いたことはない。
だからこそ、サトは少しだけ怖かった。
「本当に大丈夫か」
小さく漏れた声に、神威はもう一度鳴いた。
今度は、少しだけ得意げに。
「神威様」
レタラサラが声をかける。
「どうか、お気をつけて」
神威はレタラサラを見た。
そして、深く頷くように首を下げた。
次の瞬間、神威は北へ向かって駆け出した。
闇が蠢く方へ。
村から遠ざかるように。
雪幌都へ続く道から敵を引き剥がすように。
今回の作戦でもっとも重要な一手。
それは、侵食獣を白尾村から遠ざけること。
そして、その奥にある雪幌都へ向かわせないことだった。
神威は駆けた。
白い雪原を、低く、速く。
サトに調整してもらった脚部が、雪を深く踏み抜かないように力を逃がす。
雪上用の爪が、氷の表面を噛む。
坂も、吹き溜まりも、神威は軽やかに越えていく。
やがて、その姿が近づいてきた。
大きな闇。
それに付き従う、三つの闇。
ズゴォン。
ズゴォン。
音が遅れて響いてくる。
大地の悲鳴のような音だった。
侵食獣たちは雪を踏むのではなく、削り、汚し、押し潰しながら進んでいた。
先頭の個体は、あまりにも大きい。
ハクほどの優美さはない。
白銀の装甲は、黒く爛れ、ところどころが肉とも機械ともつかない異物で覆われている。
それでも、輪郭は似ていた。
狼。
いや、かつて狼であろうとしたもの。
かつて北の境界に立ち続けたもの。
そのなれの果て。
神威は一定の距離を保ったまま、足を止めた。
腹部の共鳴パネルが、静かに展開する。
胸の模様が、白く脈打った。
ハクの旧来信号を模したパルスが、神威の身体を通して雪原へ放たれる。
そして神威は、吠えた。
「ワォーーーーーーーーーーーーーーーン!」
旧世界の、そのまた遥か昔。
この地にも、狼がいたという。
雪の森を駆け、群れを守り、月へ吠えた獣たちが。
その再来を示すかのように、力強い鳴き声が北の大地に響き渡る。
それは警告であり、挑発であり、祈りのようでもあった。
その瞬間。
音が止まった。
雪原を揺らしていた重い足音が、ぴたりと消える。
四つの闇が、神威を見た。
神威は、昨夜のことを思い出していた。
◇
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




