第13話 落つ
観測塔に転がり込み、
直後、サトは扉の内側にある手動レバーを倒した。
観測塔の非常灯が、赤く明滅していた。
ひとつ点いては、ふたつ消える。
そのたび、壁に刻まれた古い文字が、血の色に浮かび上がる。
『非常退避路』
『北側保守出口』
『外部観測点へ接続』
サトは、その文字を横目に見ながら、肩で息をしていた。
背後では、重い扉が何度も震えている。
ごん。
ごん。
ごん。
外側から、裂爪級が叩いている音だった。
音が響くたび、天井から古い埃が落ちる。
「……あれで、まだ爪級上位かよ」
サトは乾いた声で呟いた。
返事の代わりに、神威が低く鳴いた。
「わぅ……」
神威の胸部装甲には、裂爪級の爪痕が残っている。
右前脚の補助フレームも、さっき無理やり固定しただけだ。動ける。けれど、走れない。走れば壊れる。
古い通路を進み、やがて大きなホールがある区画につくと、暗闇の中でサトは荒い息を吐いた。
「……逃げ切った、か」
神威が隣で座り込む。
胸部から小さく火花が散っていた。
「座るな。いや、座っていい。けど、火花は出すな」
「きゅうん」
「分かってる。痛いよな」
サトは鞄を開け、応急修理具を取り出した。
神威の裂けた胸部装甲に手を当てる。
熱い。
だが、コアまでは届いていない。
「大丈夫。中枢は無事だ。脚は……帰ったら本格修理だな。今日は本当に無茶をした」
「わぉん」
「褒めてない」
そう言いながら、サトは神威の頭を軽く叩いた。
神威の瞼が、少しだけ下がる。
嬉しそうだった。
「……まったく」
サトは苦笑し、応急固定を終えると、周囲を見回した。
この区画の中は意外なほど広かった。
壁沿いには壊れた端末が並び、中央には円形の台座がある。天井へ向かって、太い軸が伸びていた。
観測塔の中心部だ。
サトはピッケルを握り直し、中央の台座へ近づいた。
「ここが本命か」
神威が不安そうに鼻を鳴らす。
「分かってる。外には裂爪級がいる。長居はしない」
台座には、かすかに光る端子が残っていた。
サトはピッケルの接続針を伸ばし、ゆっくり差し込んだ。
『外周防護機構、応答なし』
『南側正門、危険』
『北側保守出口、手動開放可能』
『退避路内、構造劣化』
「構造劣化くらい、今さらだな」
サトは顔をしかめた。
戻る道はない。
観測塔の正面には裂爪級がいる。防護扉は長くは持たない。村からの救援も、すぐには来ない。
もう日は暮れかけていた。
北外れの村には、裂爪級を倒せる戦力などない。森都キョウから討伐隊を呼ぶとしても、夜の森を越えてここまで来るにはかなりの時間がかかる。
つまり、今ここで頼れるのは、サトと神威だけだった。
正確には、壊れかけの観測塔と、壊れかけの神威と、壊れかけではないがだいぶ古いピッケル。
「どれも信用ならないな」
「きゅうん」
「お前も入ってるぞ」
「わぉん」
「胸を張るな」
そのときだった。
塔全体が震えた。
「うわっ!」
壁の端末が次々に点灯する。
ピッケルの画面が、唐突に白く染まった。
古い文字列が走る。
ノイズが消える。
『月面航行端末、接近』
『降下角、不安定』
『ルナ・リレー応答なし』
『進路制御、喪失』
『衝突予測』
「……月面?」
サトが顔を上げた瞬間、世界が白くなった。
音は、遅れてきた。
ずん、と腹の底を殴られるような衝撃。
続いて、観測塔全体が悲鳴を上げた。
壁が軋み、床が跳ね、天井の配管が次々に落ちる。
「神威!」
「わぉん!」
神威がサトの服を咥え、横へ引いた。
直後、サトの立っていた場所に、天井板が落ちて砕けた。
「助かった!」
言い終わる前に、今度は背後の通路が崩れた。
古い支柱が折れ、石とも金属ともつかない壁材が、退避路を塞いでいく。
裂爪級が扉を叩いていた音もすぐに遠くなった。
いや、遠くなったのではない。
崩落した壁と天井が、音を遮ったのだ。
サトは咳き込みながら、粉塵の中で立ち上がった。
「……神威、いるか?」
「わぉん」
すぐ横で、神威の目が青く光った。
その光を見て、サトは少しだけ息を吐いた。
「よかった。脚は?」
神威は右前脚を上げようとして、ぎ、と嫌な音を立てた。
「よくないな」
「きゅうん」
「分かってる。後で見る。今は……」
サトは振り返った。
来た道は完全に塞がっていた。
正面の防護区画にも戻れない。
北側保守出口へ向かうしかなかった。
つまり、非常口から出るのではない。
非常口へ押し出されるしかなくなったのだ。
「閉じ込められた、ってやつだな」
「しかも出口は、月から落ちてきた何かの方角」
神威が北を向いた。
通路の奥から、白い光が漏れていた。
炎ではない。
煙でもない。
夜の森に、昼よりも明るい月明かりが沈んでいる。
サトは台座と繋がったままのピッケルを回収しようと立ち上がった。
その画面には、さっきまでなかった文字が浮かんでいた。
『落着確認』
『位置、観測塔北方、約一・〇二キロメートル』
『生命反応、微弱』
『乗員保護を優先せよ』
「乗員……」
サトは喉の奥で繰り返した。
サトは、画面を見つめたまま動けなかった。
北方一キロ。
つまり、あの侵食獣がいる森のさらに奥。
行くべきではない。
観測士としてなら、ここで記録だけ取って撤退すべきだった。
裂爪級はまだ外にいる。
もう夜だ。
神威は壊れかけている。
非常退避路は崩れた。
あの轟音は村まで届いただろう。今頃避難しているはず。
すぐには救援はみこめない。
これ以上北へ進む理由は、ひとつもない。
サトはそう考えた。
考えたのに、画面の文字から目を離せなかった。
『生命反応、微弱』
『乗員保護を優先せよ』
神威が小さく鳴いた。
「きゅうん」
サトは目を閉じた。
「……そういう声を出すな」
神威は、北を見ている。
壊れた脚で。
裂けた胸部装甲で。
それでも、行く気でいる。
「戻るべきなのは分かってる」
サトはピッケルを引き抜いた。
「でも、生命反応ありって出てる」
神威が立ち上がった。
脚部が、ぎ、と軋む。
「三分しかもたないって言ったよな」
「わぉん」
「今の修理、もう三十分以上過ぎてるんだが」
「わぉん」
「返事で押し切るな」
サトは笑ってしまった。
怖かった。
外には侵食獣がいる。
正体不明の落下物がある。
塔は月面連絡系などという、聞いたこともない言葉を吐いている。
それでも。
誰かが、あの森の奥で倒れている。
サトはピッケルを肩に担いだ。
「行くぞ、神威」
「わぉん」
「ただし、今度こそ無茶はなしだ」
「走るな。跳ぶな。突っ込むな。特に、突っ込むな」
神威の尻尾が、少しだけ揺れた。
「……その反応、信用できないんだよな」
サトは保守区画の奥にある北の非常通路へ向かった。
北側保守出口の手動レバーを引いた。
錆びついた扉が、重い音を立てて開く。
外は夜だった。
だが、空は暗くなかった。
森の北側だけが、白い月明かりに沈んでいた。
月は見えない。
雲が空を覆っている。
それなのに、森の奥から月が昇っているようだった。
サトと神威は、崩れかけた非常口から外へ出た。
背後で、また通路が崩れる音がした。
出口の上部が落ち、来た道を半分塞ぐ。
「……帰り道、さらに減ったな」
神威が心配そうにサトを見た。
「大丈夫だ。後で考えよう」
「きゅうん」
「今のは慰めてほしい声か? 俺も欲しい」
冗談を言っても、森は笑わなかった。
夜の森は静まり返っている。
虫の声も、鳥の声もない。
ただ北から、白い霧が流れてきていた。
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




