第129話 白尾村、大騒ぎ(一)
ハクの修理は、一日で終わるようなものではなかった。
最初に必要だったのは、完全な修理ではない。
これ以上、壊れないようにすること。
そして、動かしても崩れないようにすることだった。
倒れ伏した銀狼の機体は、近くで見るほど凄まじかった。
神威よりもさらに大きい。
全身を覆う銀白の装甲は、ところどころ裂け、砕け、焼け焦げている。前脚の駆動部には歪みがあり、後脚の関節には凍りついたエーテル流体が黒ずんでこびりついていた。
だが、それでも美しかった。
ただの機械ではない。
ただの精霊獣でもない。
何百年ものあいだ、この雪の土地を守り続けてきたものの重みが、壊れた身体のそこかしこに残っていた。
「右前脚、保持します」
ツキハが月片を掲げる。
薄い光がハクの脚部を包み、歪んだ関節をわずかに浮かせた。
「そのまま。少しでもずれると、軸が折れる」
「了解しました」
サトは手袋越しに工具を握り直した。
指先は冷えていた。
けれど、手は止められない。
ハクの脚部装甲を外すと、内部には複雑な駆動骨格が見えた。神威とは似ている部分もある。だが、根本的な設計思想が違う。
神威が「守る」ために作られた狼なら、ハクは「立ち続ける」ために作られた狼だった。
境界を守る。
北の果てで、何百年も。
倒れず、退かず、ただそこに在り続けるための機体。
「……無茶な作りしてるな」
「頑丈という意味ですか」
「頑丈すぎるって意味だ。こんなの、普通の工房じゃ部品の加工もできないぞ」
その頑丈すぎる機体が何をすればここまで破壊されるのだろう。
サトは欠けた部品を取り外しながら息を吐いた。
その隣で、レタラサラが静かに座っていた。
白い髪を雪明かりに溶かし、指先から細い光の糸を伸ばしている。
精霊糸。
それがハクの胴体から背へ、背から脚へと絡みつき、壊れた箇所をかろうじて支えていた。
「申し訳ありません」
レタラサラが言った。
「私の糸では、これ以上は癒せません。機械として壊れたものは、機械として直さなければならないのでしょう」
「いや、十分すぎるほどです」
サトはすぐに首を振った。
「この糸がなかったら、ハクはとっくに崩れてます。むしろ、よくここまで保たせました」
「妻ですので」
レタラサラは、当然のように言った。
サトは一瞬だけ工具を止めた。
隣でツキハが、じっとこちらを見た。
「……何も言ってないだろ」
「はい。まだ何も」
「まだって言うな」
神威が横で「わぉん」と鳴いた。
その声に反応したのか、倒れていたハクの片目に、かすかな光が灯った。
銀色の瞳が、ゆっくりと動く。
「……レタラ、サラ」
「はい。ここにおります」
レタラサラが、すぐにハクの頭へ寄った。
白い指先が、傷ついた鼻先に触れる。
「ハク。サトが来てくれました。ツキハ様も、神威様も」
「……ソウ、カ」
声は途切れ途切れだった。
古い発声機構が、砂を噛むように震えている。
「スマナイ」
「謝る必要はありません」
レタラサラは静かに言った。
「あなたは、また守ってくださったのですから」
ハクの瞳が、ほんの少しだけ細くなった。
笑ったのかもしれない。
サトは見なかったふりをして、作業に戻った。
それから数日間、サトたちは白尾村からハクの元へ通った。
雪道は険しかった。
サトの足はまだ完治していない。杖をつき、神威に支えられながら歩くしかない日もあった。
それでも、行かないという選択肢はなかった。
朝に村を出て、昼まで応急処置をし、日が傾く前に戻る。
戻れば戻ったで、サトは観測院の端末にかじりつき、ツキハはハクの構造解析を進めた。
必要な部品は多い。
複合合金板。
関節軸。
エーテル流体の循環弁。
衝撃分散層を備えた外装板。
そして、主脊梁の補修材。
特に最後のものが厄介だった。
ハクの背を貫く主脊梁は、人間でいえば背骨にあたる。エーテル流体の循環と、機体全体の荷重分散を担う最重要機関だ。
そこが、深く傷ついていた。
今はレタラサラの精霊糸で保っている。
だが、それは仮の命綱でしかない。
いつまでも続けられるものではなかった。
「白尾村へ移しましょう」
その日の夕方、サトはそう言った。
レタラサラが静かに顔を上げる。
「村へ、ですか」
「はい。ここでは限界があります。最低限の応急処置はできました。今なら、かなり慎重に運べば移動できます」
サトはハクの背を見た。
「本修理には設備が要ります。部品も、人手も。白尾村の観測院なら最低限の工具はありますし、足りないものは雪幌都から取り寄せたい。加工できる職人がいれば、そっちにも頼みたい」
「なるほど」
レタラサラは、素直に頷いた。
そして、何の迷いもなく言った。
「では、私も参りましょう」
サトは固まった。
ツキハも固まった。
神威も固まった。
「……え」
「夫が行くのです。妻が寄り添うのは当然です」
レタラサラは、ごく自然にそう言った。
「いや、それは、そうかもしれませんけど」
サトは言葉を探した。
たしかに、そうなのかもしれない。
夫が重傷で運ばれる。妻がついていく。何もおかしくない。
何もおかしくないはずなのだが。
問題は、その妻が白尾の御前であり、この土地で何百年も信仰されてきた存在だということだった。
「大丈夫なんでしょうか」
「何がでしょう」
「村が」
サトは正直に言った。
「絶対、大騒ぎになりますよ」
「そうでしょうか」
「そうです」
ツキハも真顔で頷いた。
「高確率で混乱します」
「わぉん……」
神威まで困ったように鳴いた。
だが、レタラサラは不思議そうに首をかしげるだけだった。
「私も夫も、睡眠の必要はありません。食事も、できないことはありませんが不要です。納屋でも貸していただければ、それで問題ありません」
「問題しかない気がする」
サトは額を押さえた。
自分たちの村の名の由来になった神様を、納屋に入れる村があるだろうか。
たぶん、ない。
絶対にない。
「とはいえ」
ツキハが静かに言った。
「一緒に来ていただくしかないのではないでしょうか。ハクの主脊梁は、レタラサラの精霊糸で保持されています。長時間離れれば危険です」
「……それはそうなんだが」
「加えて、侵食獣の件もあります。ハクを狙って再接近する可能性があります」
サトは黙った。
その可能性は、彼も考えていた。
ハクをここに残すのは危険だ。
かといって、レタラサラを残してハクだけ運ぶこともできない。
なら、選択肢は一つしかない。
「……まぁ、行ってみるしかないか」
「はい」
レタラサラは、少しだけ嬉しそうに微笑んだ。
「自分で白尾村に入るのは、何百年ぶりでしょうか。不謹慎ですが、少し楽しみです」
小狐を向かわせたことならあるのですが、と。
「楽しみで済むといいんですけどね」
サトは遠い目をした。
◇
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神威もたぶん尻尾を振ります。




