第126話 レタラサラ(二)
レタラサラの後について、建物の中へ入った。
入口をくぐると、外の風がふっと遠くなる。
冷気はある。
だが、刺すような寒さではない。
静かな冷たさ。
雪室の中に入ったような、保存された時間の匂いがした。
廊下は金属でできていた。
だが、ただの金属ではない。
白く、硬く、ところどころに銀色の筋が走っている。
古い金属が精霊流を吸い、半ば結晶化しているのだろう。
壁には白い文様が描かれていた。
狐。
雪。
尾。
山。
そして、巨大な何かを守るように寄り添う銀色の影。
サトはそれを見ながら歩いた。
その横で、ツキハが小声で言う。
「強い精霊反応があります。おそらく、数百年は生きた個体です」
「……なるほど」
サトはもう一度、前を歩くレタラサラを見る。
白い少女は、静かにこちらを振り向いた。
人間の形をしている。
言葉も丁寧だ。
けれど、人間ではない。
この北星海道の雪と森に長く触れてきたもの。
人に祀られ、人を見て、人から忘れられかけ、それでもここに残っているもの。
そういう存在なのだと、サトにも分かった。
レタラサラは少しだけ首を傾げた。
「申し訳ありません。本来の姿でお迎えした方がよかったでしょうか」
「本来の姿?」
「はい。ですが、人間の方は、大きな獣と話すと緊張すると聞きましたので」
サトは神威を見る。
「俺たち、毎日でかい狼と話してるけどな」
「わぉん」
神威が返事をする。
レタラサラは神威を見た。
その表情が、ほんの少しだけやわらぐ。
「あなたからは、とても綺麗な精霊の流れ感じます。良い子です」
「わぅ」
神威の尾が揺れた。
背面パネルが、少し開きかける。
「神威、光るな」
「きゅうん」
レタラサラは不思議そうに神威を見た。
「嬉しいと光るのですか」
「はい」
ツキハが答えた。
「現在、訓練中です」
「そうなのですね」
レタラサラは静かに頷いた。
「嬉しいことを隠す訓練は、少し寂しいですね」
サトは少しだけ言葉に詰まった。
「……そうだな」
「ですが、必要なのですね」
「あぁ。おそらく必要になる」
「では、神威さんは良い子です」
「わぉん」
神威の尾が、さらに揺れた。
今度は背面パネルを開かなかった。
サトは小さく笑う。
「急に良い子になったじゃないか」
◇
案内されたのは、畳の間だった。
古い。
だが、不思議と傷んでいない。
畳の上には、白い文様の入った低い卓が置かれていた。
奥には小さな炉。
炉の火は青白く、煙を出さずに燃えている。
火というより、雪の中に灯る光のようだった。
「どうぞお座りください」
レタラサラが言った。
「神威さんも、どうぞ上がってください」
「いいんですか」
「はい。問題ありません」
「わぅ」
「見られてるぞ、神威」
「きゅうん」
神威は慎重に畳へ上がった。
大きな体をできるだけ小さくしようとしている。
だが、どうしても大きい。
畳がわずかに沈む。
レタラサラはそれを気にする様子もなく、茶を入れ始めた。
茶葉ではない。
雪の花のような白い葉。
湯を注ぐと、かすかに甘い香りが広がった。
「改めて自己紹介をさせてください」
レタラサラは三人の前に茶を置き、静かに頭を下げた。
「私の名はレタラサラ。この地に住まう精霊獣にございます」
「観測士のサトです」
サトも頭を下げた。
「隣にいるのがツキハ。そして神威です」
ツキハが丁寧にお辞儀をする。
「ツキハです」
「わぅ」
神威も小さく吠えた。
レタラサラは微笑む。
「はい。存じています」
「存じている?」
「子狐たちが、見ておりましたので」
サトは思い出した。
地下道を導き、村までの道を示してくれた子狐。
そして、今夜ここまで連れてきた子狐。
「もしかして、村で祀られていた白尾の御前というのは」
レタラサラは少し恥ずかしそうに頷いた。
「私のことだと思います」
「思います、なんですね」
「皆さまがそう呼んでくださるので」
レタラサラは少しだけ目を伏せた。
「この村を、何代にもわたって見守ってきました。正確には、村が村になる前から、この森におりました」
「村ができる前から」
「はい。人が来て、家を建て、火を灯し、子どもが生まれ、年寄りが眠り、また雪が降りました」
声は静かだった。
けれど、その言葉の奥には、長い時間があった。
「私は人ではありません。けれど、人が雪の中で生きる姿を、長く見てきました」
サトは湯呑みを両手で持った。
温かい。
不思議な香りがする。
雪の中にあるのに、春の芽のような香りだった。
「先ほどの白い子狐は」
「この子たちですか?」
レタラサラがそう言うと、彼女の後ろの雪煙がふわりと揺れた。
三匹の白い子狐が現れた。
一匹は、耳の先が銀色。
一匹は、尾の先が淡く光っている。
一匹は、額に小さな雪の結晶のような模様がある。
サトは思わず身を乗り出した。
「銀色の耳の子は、この村まで案内してくれた子だ」
「こん」
銀色の耳がぴくりと動く。
「尾の先が光っている子は、ここまで連れてきてくれた子だな」
「こん」
尾の先が淡く光る子狐が、小さく胸を張った。
額に雪の結晶の模様がある子狐は、神威をじっと見ていた。
神威も見返す。
なぜか、互いに少し真剣だった。
「この子たちは、私の分身のようなものです」
レタラサラは優しい目で、三匹の子狐をそっと撫でた。
「私そのものではありません。ですが、私から離れ、私の目の届かないところを歩くことができます」
「一か月ほど前」
サトは銀色の耳の子狐を見た。
「ここへ来る途中に、その子が村まで案内してくれました。その節は本当にありがとうございました」
銀色の耳が、もう一度ぴくりと動いた。
「こん」
「礼には及びません」
レタラサラは静かに言った。
「この子はもともと、外からやってきたものが悪しき存在か確かめるために遣わしたのです」
「つまり、見張りだったんですね」
「はい」
レタラサラは正直に頷いた。
「ですが、この子があなた方を助けたのであれば、それはこの子があなた方を助けたいと思ったから」
サトは銀色の子狐に向き直った。
「それでも。俺は命を助けられたと思っています」
銀色の子狐は、しばらくサトを見ていた。
それから、小さく「こん」と鳴くと、レタラサラの後ろへ隠れてしまった。
照れているように見えた。
レタラサラも、ほんの少し微笑んでいる。
その表情は、雪の中に一瞬だけ差す日差しのようだった。
サトは湯呑みを置いた。
「それで」
改めて、レタラサラを見る。
「俺たちをここに呼んだ理由は」
レタラサラの微笑みが、静かに消えた。
彼女はしばらく黙っていた。
炉の青白い火が、小さく揺れる。
三匹の子狐たちも、静かになった。
やがて、レタラサラは真剣な眼差しでサトたちを見た。
その目の奥に、深い悲しみがあった。
「はい。折り入ってお願いしたいことがございます」
サトは頷いた。
レタラサラは、白い袖をそっと重ねる。
そして、悲しそうに眉をひそめて、こう言った。
「私の夫を、助けてほしいのです」
「お、夫っ!?」
サトは思わず声を裏返らせた。
夫。
夫と言った。
つまり、この人は人妻――いや、人じゃないか。
そもそも何歳なのか。
十六歳くらいに見える。
けれど数百年は生きている。
それは妻と呼んでいいのか。
いや、呼んでいいから本人が夫と言ったのだ。
そこまで考えたところで、横から視線を感じた。
ツキハが、じっとこちらを見ていた。
責めているわけではない。
たぶん。
だが、ものすごく観測されている気がした。
「ご、ごほん」
サトは咳払いした。
「ええと、その、事情を聞かせてもらえますか」
白い少女は、静かに首をかしげている。
「何か、おかしかったでしょうか」
「いえ。とても、丁寧なお願いだと思います」
ツキハが横で小さく言った。
「サトの反応は、やや不適切でした」
「分かってる」
神威が、小さく鳴いた。
「わぅ」
レタラサラは少しだけ困ったように微笑んだ。
その白い尾が、雪の煙の中で静かに揺れていた。
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




