第120話 神威は飛び出さない(四)
白い子狐は、崩れやすい場所の前で立ち止まり、危険な足場を示すように尾を振った。
水音が近づいてくる。
潮がさらに上がっている。
「サト、登ります」
「いつでもいい」
「神威」
「わぉん」
「ゆっくりです。強く、でも急がず」
「わぅ」
ロープが張る。
神威の駆動音が低く響く。
サトは歯を食いしばり、ピッケルを握った。
体が持ち上がる。
右足に痛みが走る。
「ぐっ……!」
「サト!」
「大丈夫だ。続けろ!」
ツキハは一瞬だけ迷った。
だが、止めなかった。
止めることが、いつも正しいわけではない。
今は、進める。
「続行します」
神威が踏ん張る。
ツキハの精霊糸が光る。
サトのピッケルが金具を軋ませる。
そして、サトの体が瓦礫の上を超えた。
神威が最後に少しだけ力を込める。
サトとツキハは通路の安全な側へ転がり込んだ。
「っ……はあ……」
冷たい床に仰向けになる。
天井のひび割れが見えた。
その横には、ツキハの顔。
神威の顔。
白い子狐の顔。
「助かった」
サトは息を吐いた。
「ありがとな、ツキハ」
ツキハは少しだけ目を伏せた。
「私は、サトに助けられてばかりでした」
「そうか?」
「はい」
ツキハは言った。
「でも今日は、少しだけ返せました」
「少しどころじゃない」
サトは笑った。
「相棒に助けられた」
ツキハは、その言葉を受け取るように黙った。
「相棒」
小さく繰り返す。
「はい。適切です」
神威がサトへ飛びつこうとして、寸前で止まった。
負傷した足を見る。
サトを見る。
もう一度、足を見る。
「わぉん……」
「偉い。今の判断は本当に助かる」
「わぅ……」
「今、勢いで来られたら、俺は泣く」
神威の尾が、ものすごく小さく揺れた。
胸の奥と背の芽が、淡く光っている。
ツキハがそれに気づいた。
尾は、ゆっくり揺れていた。
白い子狐が、そんな三人を見ていた。
そして、短く鳴く。
「こん」
その声に合わせるように、通路の奥から冷たい風が吹いた。
だが、その風には潮の匂いだけではない。
木を燃やす匂いが混じっていた。
煙。
火。
人の暮らしの気配。
「出口が近いのか」
サトが言うと、子狐はくるりと背を向けた。
数歩進んで、振り返る。
「こん」
子狐は、少しだけ得意げに尾を揺らした。
◇
地下通路を抜けると、そこは森の中だった。
雪は相変わらず降っている。
だが、風は少し弱まっていた。
空は、もう夕方に近い色をしていた。
サトが落ちてから、半日近くが過ぎている。
その日は大きな木の洞で野営をした。
それからまた、少しずつ移動し、森が途切れたころに雪幌都の外縁に残る村が見えてきた。
月竹を降りた時には遠かった人の暮らしの反応も、少し近くなっていた。
白い子狐は、森の出口の手前で止まった。
サトたちを振り返る。
「案内は、ここまでか」
「こん」
子狐は小さく鳴いた。
次の瞬間、その姿が雪にほどけた。
白い息のように薄くなり、雪の粒になり、風に舞う。
足跡だけが残った。
小さな足跡。
それも、降り続く雪の中で、すぐに消えていった。
神威が小さく鳴いた。
「きゅうん」
「寂しいのか」
「わぅ」
「助けてもらったな」
サトは子狐が消えた場所に向かって、軽く頭を下げた。
「ありがとう」
ツキハも頭を下げる。
神威も真似をした。
今度は、頭の雪は落ちなかった。
森を抜けると、小さな谷に出た。
そこに、村があった。
雪を避けるように低く造られた家々。
厚く雪を乗せた屋根。
煙突から立つ煙。
木の柵には、白い布が結ばれている。
軒先には干された魚。
扉の上や柱の根元には、小さな木彫りの狐が置かれていた。
白く塗られた狐。
尾の先だけ、銀色に塗られている。
村の奥には、古い祠の屋根が見えた。
村の入口には、古びた木札が立っていた。
文字はかすれている。
だが、読めた。
『白尾村』
「白尾村」
ツキハが読んだ。
「白い尾の村か」
サトは軒先の狐像を見た。
「さっきの子狐と、関係ありそうだな」
「強い精霊反応があります」
ツキハが言った。
「村全体に、薄く広がっています。ただし、敵意はありません」
「助かったな」
「はい」
その時、村の方から人影が近づいてきた。
厚い毛皮の外套をまとった老人だった。
背は低い。
だが、腰は曲がっていない。
手には杖を持ち、白い眉の下から、じっとこちらを見ている。
老人は、サトたちの前で足を止めた。
最初にサトを見る。
次にツキハを見る。
最後に神威を見る。
神威を見た時だけ、少し目を丸くした。
「……客人か」
しわがれた声だった。
けれど、警戒だけではなかった。
「その様子を見ると、道に迷っただけではなさそうだな」
「地下で少し、事故に遭いまして」
サトは右足を見下ろした。
「助けてもらえそうな場所を探していました」
老人はサトの足元を見る。
雪の上についた跡。
サトの片足だけが不自然に軽い。
神威が横で支えている。
「足を痛めているな」
「分かるんですか」
「雪の上を歩けば分かる」
老人は短く答えた。
「この村では、雪の跡を読む。人の足跡も、獣の足跡も」
それから、神威を見た。
「そちらの狼殿の足跡は、少し読みにくいが」
「わぅ」
「褒めているのではないぞ」
「きゅうん」
老人はわずかに笑った。
サトも少しだけ笑う。
その笑いで、少しだけ緊張がほどけた。
「村の入口に狐の像がありました」
ツキハが言った。
「あれは、この土地の精霊ですか」
老人は、ツキハを見た。
その目が少しだけ細くなる。
警戒ではない。
見極めるような目だった。
「見えるのか」
「はい。白い精霊反応があります」
「そうか」
老人は村の奥へ視線を向けた。
祠のある方角。
雪が、静かに降っている。
「この村を守ってくださる、白い御方だ。白尾の御前と呼んでいる」
「白尾の御前」
サトはツキハと顔を見合わせた。
神威も耳を立てる。
「数か月前にも、大きな侵食獣が出た」
老人の声が少し低くなった。
「村の北から来た。家畜も、人も、雪ごと呑み込むようなやつだった。あの時も、御前様たちがご助力くださらねば、この村の半分は死んでいただろう」
サトは村の奥を見た。
低い家々。
煙突の煙。
小さな狐像。
この静かな村も、ただ守られているだけではない。
危機を越えてきた場所なのだ。
「さぁ、まずは村の中へ入りなさい。足を診る。冷えたままでは悪くなる」
雪の中で、ようやく人のいる場所にたどり着いた。
そのことが、思っていた以上に体の力を抜かせた。
「ありがとうございます。助かります」
「それと」
老人は神威を見た。
「その狼殿は、家の中へ入れるのか」
「入れないと、たぶん外で鳴きます」
「わぅ」
「鳴くのか」
「鳴きます」
老人は少し考えた。
「なら、納屋を空けよう。火も入れてやる」
「助かります」
神威が嬉しそうに尻尾を振った。
背面パネルが少し開きかける。
「光るな」
「きゅうん」
神威はしょんぼり閉じた。
老人はそれを見て、目を丸くした。
「……光るのか」
「嬉しいと光ります」
「そうか。変わった狼殿だ」
「よく言われます」
サトは苦笑した。
老人は背を向け、村の中へ歩き出した。
サトたちは、その後を追う。
白尾村。
雪深い谷に隠されるようにあった、小さな村。
その入口で、サトはもう一度だけ振り返った。
白い森。
消えた子狐。
雪に埋もれかけた小さな足跡。
そして、その奥にある、まだ見えない何か。
北星海道の旅は、雪幌都へ向かう前から、思っていたよりも深いところへ入り込んでしまったらしい。
サトはピッケルを握り直した。
「……まずは、まともな飯が食いたいところだな」
「適切です」
ツキハが即答した。
神威も短く鳴いた。
「わぉん」
三人は、白尾村へ入った。
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神威もたぶん尻尾を振ります。




