第119話 神威は飛び出さない(三)
月片が小さく震えた。
信号。
短く三回。
長く一回。
短く二回。
ツキハは目を見開いた。
「サトからです」
神威が顔を上げる。
「わぉん!」
「現在位置、地下。負傷あり。上から降りるな」
ツキハは息を詰めた。
サトらしい。
落ちて、負傷して、それでも最初に送ってくるのがこれなのだ。
助けてくれ、ではない。
上から降りるな。
無茶をするな。
自分の危機より、こちらの危険を考えている。
「……本当に、不適切です」
ツキハは小さく言った。
だが、声は少しだけ落ち着いていた。
「神威。サトは意識を取り戻しています。負傷していますが、判断力はあります」
「わぅ」
「安全な入口を探します。急ぎます。ただし、急ぎすぎません」
「わぉん」
「適切に、助けます」
その時、白い尾のようなものが、雪と木々の間をすりぬけた。
◇
地下の空気は、さらに冷たくなってきた。
サトは壁に手を当てた。
ぬるり、とした感触が指に残る。
「苔か?」
違う。
黒い。
薄い。
海苔のようなものだ。
サトは指先をこすった。
潮の匂いが強くなる。
壁を観察する。
コンクリートの表面に、黒く濡れた線があった。
今いる場所より、かなり高い位置だ。
その線に、小さな貝殻が張り付いている。
一つではない。
いくつも。
何度も、何度も、そこまで水が来た跡。
「……冗談だろ」
サトは横穴の奥を見た。
かすかに風が入ってくる。
風。
潮の匂い。
水面の揺れ。
この地下施設は、海と繋がっている。
日沈湾側か。
旧排水路か。
理由はどうでもいい。
重要なのは一つ。
潮が満ちれば、ここは水に沈む。
「まずいな」
サトは息を吐いた。
今いる場所は低い。
潮位線は頭より高い。
あの線まで水が来るなら、ここに留まるのは危険だ。
足は痛む。
だが、動かなければならない。
救助が来るまでに、潮位線より上へ。
サトは金属板で固定した足を確かめ、ピッケルを杖にして立ち上がった。
「痛いのは、まあ、生きてる証拠だ」
そう言って、一歩進む。
右足に負荷をかけないよう、左足とピッケルで体を支える。
登った先の横穴の奥へ。
風が来る方へ。
完全な袋小路よりはましだった。
通路の壁には、ところどころ古い標識が残っていた。
文字は剥げている。
だが、一部だけ読める。
『白石方面保守線』
『北部排水連絡坑』
『満潮時閉鎖』
「閉鎖しとけよ、今も」
サトは悪態をついた。
その時、足元で水が音を立てた。
ちょろちょろ、という細い流れではない。
奥から、ゆっくり水が押し寄せてきている。
潮が上がり始めた。
「急げってことか」
サトは歯を食いしばって進んだ。
途中、崩れた車両の一部らしきものがあった。
座席の残骸。
錆びた手すり。
古い表示灯。
その上に、何か小さなものが落ちた。
からん。
「……なんだ?」
サトは視線を落とした。
木の実だった。
小さな、茶色い木の実。
続けて、もう一つ。
からん。
見上げると、割れた天井の亀裂から小鳥が見えた。
丸い体をした、白と灰色の小鳥。
くちばしに、もう一つ木の実をくわえている。
「お前……」
小鳥は首を傾げた。
それから、木の実を落とした。
からん。
サトの膝元に転がる。
サトはしばらくそれを見つめてから、笑った。
「神威か?」
小鳥は答えなかった。
ただ、首をもう一度かしげた。
「あいつ、とうとう鳥まで使い始めたか」
冗談のつもりで言った。
だが、胸の奥が少し温かくなった。
神威が命令したわけではないだろう。
そんな機能はない。
だが、神威ならきっと願っている。
サトが無事であるように。
ツキハが泣かないように。
その願いに、何かが応えたのかもしれない。
「ありがとな」
サトは小鳥に言った。
木の実を拾い、口に入れる。
硬い。
だが、少し甘い。
サトはもう一度歩き出した。
◇
神威は、雪の上に伏せていた。
飛び込まない。
走り出さない。
ただ、耳を立て、地下から伝わる微かな振動を拾っていた。
神威は祈り方を知らない。
祈る、という言葉も知らない。
けれど、願っていた。
サトが無事でありますように。
ツキハが泣きませんように。
自分が、間違えませんように。
その願いに応えるように、背中の芽が淡く光った。
小さな芽。
神威の体のあちこちから、少しずつ顔を出すようになったもの。
その光は、強くはない。
道を開くほどの奇跡ではない。
だが、雪の上に流れる精霊流の乱れを、ほんの少しだけ浮かび上がらせた。
「神威」
ツキハが声をかけた。
神威の背の光を見て、月片をかざす。
見えた。
崩落地点から離れた森の奥。
雪に隠れた古いコンクリートの裂け目。
そこに、地下へ続く微かな流れがある。
「入口です」
ツキハは立ち上がった。
「神威、見つけました」
「わぉん!」
「慎重に行きましょう」
「わぅ」
「サトなら、そう言います」
神威は一度だけ強く尻尾を振り、それからツキハの横に並んだ。
その時、森の奥で白いものが動いた。
小さな狐だった。
雪のように白い子狐。
耳の先だけが銀色に光っている。
子狐は、ツキハと神威を見て、短く鳴いた。
「こん」
「あなたは……」
白い子狐は、森の奥へ数歩進む。
そして振り返った。
案内している。
ツキハは月片を握る。
敵意はない。
侵食もない。
むしろ、周囲の精霊流と溶け合っている。
神威が静かに頷くように頭を下げた。
「……分かりました」
ツキハは言った。
「案内をお願いします」
子狐は、雪の上を沈まずに進んだ。
ツキハと神威は、その後を追う。
森の奥、倒れた標識の陰。
雪に半分埋もれた旧世界の非常口。
子狐は、ひび割れたコンクリートの裂け目の前で止まった。
『北部排水連絡坑』
古い文字が、雪の下からわずかに見えていた。
「ここから入れます」
ツキハは低く言った。
「ただし、内部は不安定です。神威、先行しすぎないでください」
「わぅ」
神威は少しだけ迷ったように見えた。
だが、すぐにツキハの横へ戻った。
「適切です」
ツキハは頷いた。
二人は、白い子狐の案内で地下へ入った。
◇
水位は、確実に上がっていた。
サトは潮位線より上にある保守通路へ、どうにかたどり着いていた。
だが、その先は崩れている。
天井が落ち、コンクリート片と錆びた鉄骨が道を塞いでいた。
戻るには水が迫っている。
進むには瓦礫が邪魔をしている。
右足は限界に近い。
「なかなか、ひどいな」
サトは壁にもたれた。
ピッケルで、また信号を送る。
短く。
長く。
短く。
今度は位置補正。
周囲の金属片を使って、反射を増やす。
壊れた表示灯の導線をピッケルに巻き付け、月竹との微弱リンクを少しでも拾いやすくする。
その時、遠くで音がした。
金属を踏む音。
雪ではない。
水でもない。
聞き慣れた重い足音。
「……神威?」
サトは顔を上げた。
通路の奥で、淡い月光が揺れた。
「サト!」
ツキハの声だった。
サトは息を吐いた。
思っていた以上に、体の力が抜けた。
「悪い。ちょっと寄り道した」
瓦礫の向こうから、ツキハが現れた。
月片を掲げ、精霊糸を伸ばしている。
その後ろに神威。
さらにその足元に、白い子狐がいた。
子狐はサトを見ると、小さく鳴いた。
「こん」
「お、小鳥さんの仲間か」
サトが言うと、子狐は答えずに尻尾を揺らした。
ツキハは無言でサトを見た。
それから、ゆっくり口を開いた。
「……不適切です」
「はい」
「非常に、不適切です」
「本当にすみません」
「損傷確認」
「右足。たぶん強い捻挫。骨に亀裂があるかもしれない」
「…かなり腫れています。たぶんは不適切です」
「し、失礼しました」
こんなに怒ったツキハは初めてかもしれない。
ツキハは月片をかざした。
淡い光がサトの足首をなぞる。
「骨の大きな断裂はありません。ですが、微細な損傷の可能性があります。歩行継続は不適切です」
「だろうな」
「救助します」
「頼む」
神威が前に出ようとした。
だが、通路は狭い。
瓦礫も多い。
無理に進めば、さらに崩れる。
神威はそこで止まった。
サトはそれを見て、少しだけ笑った。
救助は簡単ではなかった。
ツキハがサトの体を支えながら瓦礫を登りロープを掴む。
神威は通路の安全な位置に踏ん張り、補助ロープを噛まずに保持した。
月竹の微弱リンクが位置を補正する。
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




