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月から落ちた少女と、神に愛された機械狼  作者: 玄達瀬


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第118話 神威は飛び出さない(二)

「サト!」


 ツキハは崩れた穴の縁に駆け寄った。


 穴は深い。


 穴の中は白く煙っていた。


 落ちた雪と砕けた舗装が、まだ少しずつ崩れている。


 月片をかざす。


 だが、反応が乱れる。


 雪そのものが細かな精霊反応を帯び、砕けた旧世界の配線が月片の光を乱反射していた。


「サトの反応が、下に……」


 ツキハは言った。


 声は平静に聞こえた。


 だが、指先は震えていた。


 神威はすでに穴へ飛び込もうとしていた。


 前足を縁にかけ、今にも身を投げようとする。


「神威!」


 ツキハは叫んだ。


 神威は止まらない。


 サトが落ちた。


 助けなければならない。


 それだけで、神威の内部は満たされているようだった。


 けれど、神威の体が前へ沈みかけた瞬間、背面パネルの奥で何かが小さく鳴った。


 月竹の中での記録。


 サトの声。


「お前が壊れたら、誰がツキハの横にいるんだ!」


 神威の足が止まった。


 脚部装甲が震えている。


 飛び込みたい。


 今すぐ、下へ行きたい。


 だが、神威は穴の縁で止まった。


「神威」


 ツキハは震える声で言った。


「今すぐ飛び込むのは、不適切です」


「ぐる……」


「私も、飛び込みたいです。」


 その言葉を口にした瞬間、ツキハは自分でも驚いた。


 飛び込みたい。


 本当に、そう思っている。


 サトのいる場所へ。


 サトが落ちた暗い穴へ。


 安全かどうかなど、考えずに行きたい。


 けれど。


「でも、不適切です。飛び込んだ先に出口があるかも不明です。まだ駄目です」


 ツキハは息を吸った。


「サトなら、そう言います」


 神威が低く鳴いた。


「きゅうん……」


 ツキハは月片を穴へ向けた。


「サトの生命反応は……あります」


 そこで、一度声が止まった。


「あります」


 もう一度言った。


「あります」


 三度目を言ってから、ツキハは気づいた。


 これは解析ではない。


 自分が安心したくて、同じ言葉を繰り返しているだけだ。


「……不適切です」


 ツキハは小さく言った。


 目の奥が熱い。


 けれど、泣くのは今ではない。


 サトは正解をくれる人ではない。


 いつも正しい方向へ連れていってくれる人でもない。


 一緒に間違えて。


 一緒に考えて。


 一緒に直してくれる人だった。


 だから、今は自分も考えなければならない。


「今は、サトを助けます」


 ツキハは月片を握り直した。


 神威がツキハの横に立った。


 飛び込まない。


 だが、動かないわけでもない。


 耳を立て、鼻先を雪へ近づけ、足元の振動を拾っている。


「適切です」


 ツキハは神威を見る。


「今、飛び込まないことは、とても、適切です」


「わぉん……」


 神威は苦しそうに鳴いた。


 それでも、穴から一歩下がった。


 ツキハは月竹へのリンクを開いた。


 月片の光が細く伸びる。


 海に沈めた月竹との接続は弱い。


 だが、生きている。


「月竹。地下構造の推定を」


『微弱リンク。地形反射、不安定』


「不安定でも構いません。崩落地点周辺の旧世界構造を照合してください」


『照合中』


 月片に、淡い線が浮かぶ。


 雪の下に残る旧道。


 そのさらに下の空洞。


 排水路。


 保守坑道。


 そして、海側へ伸びる細い通路。


「旧サツホロ地下交通網……北部排水連絡坑」


 ツキハは読み上げた。


「地下鉄網に接続した保守通路の可能性があります」


 神威が低く鳴った。


「ぐる」


「はい。上から降りるのは不適切です。別の入口を探します」


 ツキハと神威は、穴の周囲を調べ始めた。


 だが、簡単にはいかなかった。


 崩落地点の周囲は、雪と旧道路の残骸が不安定に重なっている。


 少し踏み込むだけで、足元が沈む。


 神威が力任せに掘ろうとすれば、さらに崩れる。


 ツキハが精霊糸を伸ばしても、地下の金属片と凍った水脈が反応を散らした。


 サトの生命反応はある。


 だが、はっきりしない。


 呼びかけても返事はなかった。


 月竹とのリンクも、途切れたり戻ったりを繰り返す。


 時間だけが過ぎていく。


 雪の色が、少しずつ変わった。


 白から、薄い青へ。


 空が傾いている。


 サトが落ちてから、もう数刻が経っていた。


 ツキハの月衣には雪が積もらない。


 それでも、指先の震えは止まらなかった。


 神威の背面パネルにも、薄い霜がついていた。


 ツキハは何度も地形を読み直した。


 神威は何度も森の中を探った。


 穴に飛び込みたい衝動を抑えながら、周囲の振動、風の流れ、雪の下の空洞音を拾い続けた。


 それでも、入口は見つからない。


「……不適切です」


 ツキハは小さく言った。


 自分に向けた言葉だった。


 焦りすぎている。


 視野が狭くなっている。


 サトなら、そう言う。


 ツキハは深く息を吸った。


「神威。もう一度、風を探してください」


「わぅ」


「サトが生きているなら、完全な閉鎖空間では長く持ちません。保守坑道なら、どこかに空気の流れがあります」


 神威は雪面に鼻先を近づけた。


 静かに歩く。


 走らない。


 焦らない。


 それが、今の神威にできる最善だった。


     ◇



 「…きて…ト!……はや…!潮…満ち……そ……おぼ…れ…」


 この声はユメか?うまく聞こえない。


 聞き返そうとしたとき体中に鋭い痛みが走った。


 「っ痛!!」


 サトが目を覚ました時、最初に感じたのは寒さだった。


 体の芯が冷えている。


 頬に触れた雪が、半分だけ溶けて凍っていた。


 どれくらい意識を失っていたのか分からない。


 だが、落ちてきた穴から差し込む光は、ずいぶん青くなっていた。


「……生きてるな」


 サトはうつ伏せのまま、何度か息を吸った。


 肺が痛む。


 雪の匂い。


 錆の匂い。


 湿ったコンクリートの匂い。


 それに混じって、かすかな潮の匂いがした。


 サトはゆっくり体を起こした。


 右足に体重をかけた瞬間、鋭い痛みが走る。


「ぐっ」


 思わず膝をついた。


 折れているか。


 サトは息を整えながら、右足首に手を当てた。


 出血は少ない。


 骨が明らかにずれている感じはない。


 足の指は動く。


 だが、体重はかけられない。


 強い捻挫。


 悪ければ、亀裂が入っているかもしれない。


「最悪ではない。だが、よくもない」


 サトは周囲を見た。


 落ちた先は、ただの穴ではなかった。


 古い地下施設だ。


 半分崩れた通路。


 壁には剥がれた白いタイルの跡。


 天井には、古い配線と錆びた金具。


 奥には横穴が続いている。


 旧世界の地下交通網か。


 それに接続した保守坑道か、排水路か。


 雪幌都《サツホロ》の外縁まで伸びていた旧地下交通網の一部なら、地下に何かが残っていてもおかしくはない。


 サトは上を見た。


 落ちてきた穴は高い。


 崩れた雪とコンクリートが斜面を作っているが、足を負傷した状態で登るのは危険すぎる。


「ツキハ!」


 サトは一度だけ叫んだ。


 返事はない。


「神威!」


 声は、崩れた通路の中で濁って返ってきただけだった。


 叫び続けても意味はない。


 体温を奪われるだけだ。


 サトは口を閉じた。


 まず状況整理。


 気温が低い。


 足は負傷。


 上とは直接通信不能。


 落石の危険あり。


 地下施設の奥には、精霊獣や狂機化した旧設備が残っている可能性あり。


 さらに、潮の匂い。


 それが一番気になった。


 サトはピッケルを握り直す。


 柄に組み込んだ月竹との微弱リンクを確認した。


 反応は細い。


 だが、切れてはいない。


「大丈夫だ。月竹とピッケルは繋がってる」


 サトは自分に言い聞かせるように言った。


「あいつらなら見つける。問題は、俺がそれまでちゃんと生きてるかだな」


 言葉にすると、少し落ち着いた。


 サトは荷袋を下ろし、中身を確認した。


 干し肉が少し。


 硬いパンが半分。


 工具。


 細い布。


 予備の導線。


 小型の観測札。


 十分ではない。


 だが、ないよりはずっとましだ。


 サトは近くの残骸を探った。


 壊れた案内板。


 薄い金属板。


 古い配線。


 断熱材らしきもの。


 ひび割れた表示灯。


 手すりの一部。


「使える」


 サトは短く言った。


 まず足だ。


 壊れた案内板を割り、金属板を添え木代わりにする。


 布と古い配線で足首を固定する。


 痛みで息が詰まる。


 それでも、固定しないよりはましだ。


「ツキハ、泣いてないといいんだが」


 サトは小さく呟いた。


 それから苦笑した。


「いや、泣かないか。あいつはまず解析する」


 手を止めず、固定を続ける。


「神威は……まあ、飛び込もうとしてるだろうな」


 サトは天井の穴を見た。


「やめろよ。お前が落ちたら、誰がツキハを守るんだ」


 そう言ってから、サトはピッケルの柄を握った。


 月竹に向かって、簡易的な通信を送る。


 短く三回。


 長く一回。


 短く二回。


 現在位置、地下。


 負傷あり。


 上から降りるな。


 言葉ではない。


 だが、ツキハなら読める。


 月竹なら拾える。


 そう信じるしかなかった。


「……伝われよ」


 サトは息を吐いた。


「頼むぞ、ツキハ」


     ◇

神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。


神威もたぶん尻尾を振ります。

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