第117話 神威は飛び出さない(一)
雪は、音を食べていた。
波の音も。
森のざわめきも。
神威の足音さえも、白い雪の上では少しだけ遠く聞こえる。
サトたちは、海岸から陸へ向かって歩いていた。
背後には灰色の海がある。
月竹はもう見えない。
崩れた防波堤の影に身を沈め、岩と海藻と雪に紛れて眠っているはずだった。
だが、見えなくなると、それだけで少し心細い。
月竹の中にいれば、壁があり、照明があり、月竹の声があった。
今は違う。
あるのは、雪と森と、知らない土地の空気だけだ。
「寒いな」
サトは白い息を吐いた。
「寒い、に該当します」
ツキハが答える。
声は平静だった。
だが、月衣の襟元を指で押さえている。
白い月衣は汚れない。
濡れても、雪を受けても、まるで月光のように表面でほどけていく。
ただし、暖かいわけではないらしい。
「神威、出力は?」
「わぅ」
神威はツキハの横を歩いていた。
背面パネルの奥で、低出力のLEDウォーマーが起動している。派手に光らず、周囲をほんの少し温める程度だ。
前にサトが、村の寒い朝に暖房器具部品を使って修理した機能だった。
まさか、こんな北の土地で役立つとは思わなかった。
「いいぞ。そのまま光りすぎるなよ」
「わぉん」
「褒められて胸を張るな。滑る」
言った直後、神威の後ろ足が雪に取られた。
大きな体が、ずるりと横に傾く。
「きゅうん」
「ほらな」
サトは思わず笑った。
神威は少し不満そうに尻尾を振る。
だが、その尻尾の先にも雪がついていて、振るたびに白い粉が飛んだ。
「神威、雪への適応が不十分です」
ツキハが真面目に言う。
「精霊流の上では安定していますが、雪面の踏み抜きに対する接地制御が少し乱れています」
「雪用の足場補助がいるな」
サトは神威の脚部を見た。
大型の機械狼である神威は、見た目よりずっと重い。
普段なら力強い足取りでどんな荒れ地も進めるが、柔らかい雪は勝手が違うらしい。
「板でも履かせるか」
「板?」
「雪の上で沈みにくくする道具だ。村の猟師が使っていた。たしか、足に付ける輪みたいなやつもあったな」
「サトは作れますか」
「材料があればな」
言いながら、サトは周囲を見た。
針葉樹の森。
雪に埋もれた枯れ枝。
旧世界の防波堤から剥がれ落ちた細い金属片。
作ろうと思えば、簡易のものくらいは作れそうだった。
だが、今はまず人のいる場所を探す方が先だ。
食料は少ない。
修理材料も必要だ。
月竹の浸水した保護室を直すには、まともな資材がいる。
サトたちだけで森の中をうろうろしていても、できることは限られている。
「雪幌都までは、どのくらいだ」
サトが聞くと、ツキハは月片を取り出した。
小さな地図が淡く浮かぶ。
「雪幌都の中心部までは、旧世界の道に沿って二日ほど。ただし、積雪と地形変化を考慮すると、さらにかかる可能性があります」
「二日か」
「はい。ただし、雪幌都の外縁には、旧道沿いの集落反応がいくつかあります。観測院や大きな市場は望めませんが、人の生活反応が残っている可能性はあります」
「まずは、そこを目指すか」
「適切です」
「食料が足りないな」
「足りません」
「月竹の白い固形物を持ってくればよかったか」
「不適切です」
「即答だな」
「あれは栄養摂取は可能ですが、精神への影響が不明です」
「そんなにまずそうだったか」
「味が虚無でした」
「食べたのか?」
「地球に来るときに食べました」
「食べたのか」
「記憶が欠けた原因かもしれません」
サトは少しだけツキハを見た。
ツキハは何事もなかったように前を向いている。
「冗談です」
「そっか」
雪の中で、サトは笑った。
笑うと、少しだけ寒さがましになる気がした。
森へ入ると、風はいくらか弱くなった。
代わりに、周囲の音がさらに消えた。
枝に積もった雪。
黒い幹。
白い地面。
ところどころ、旧世界のものらしい残骸が雪から突き出ている。
錆びた標識。
折れた鉄柱。
半分埋もれた車両の骨。
もともとは道だったのだろう。
だが、今はもう道と森の境目が分からない。
雪の下に、かつての舗装が眠っている。
「旧世界の道路か」
サトはピッケルの先で雪を掘った。
少し下に、硬いものがあった。
灰色の平らな面。
割れて、根に押し上げられ、ところどころ精霊苔に覆われている。
「雪の下に残っています」
ツキハが言った。
「ですが、部分的に沈降しています。歩行には注意が必要です」
「神威、道路の上を歩けるか」
「わぅ」
神威が鼻先を地面に近づける。
匂いを嗅ぐような仕草。
実際に匂いを嗅いでいるのか、それともセンサーで探っているのか、サトにもよく分からない。
神威はしばらく雪の上をうろうろしたあと、右へ進んだ。
そこだけ、少し雪が浅い。
「お、分かるのか」
「わぉん」
「偉いぞ」
神威の尻尾が大きく揺れる。
背面パネルが少し開きかけた。
「光るな」
「きゅうん」
しょんぼり閉じた。
「神威は、褒められると発光する傾向があります」
「北米に行く前に直さないとな」
「はい。重要な訓練です」
ツキハが真面目に頷いた。
◇
それはしばらく歩いた後のことだった。
一番前を歩いていたサトは、足元の雪に違和感を覚えた。
神威が見つけた旧世界の道路跡。
雪の下に残った舗装。
その上を歩いているはずだった。
だが、ピッケルの先で軽く突いた時、返ってきた音が妙に軽かった。
硬い地面ではない。
下に、空間がある。
「待て」
サトは神威とツキハの方へ振り返った。
「ここ、下が空いて――」
言い終わる前に、雪が割れた。
ばき、と乾いた音がした。
雪の下に隠れていた舗装が、薄い氷のように砕ける。
「サト!」
ツキハの声が跳ねた。
神威が反射的に体を伸ばす。
「わぉん!」
サトはピッケルを振った。
先端が雪の縁を削る。
だが、縁そのものが崩れた。
足元が消える。
体が落ちる。
白い視界が、反転した。
「くそっ!」
サトはピッケルを突き立てた。
何かに当たった。
錆びた金属音。
腕に強い衝撃。
だが、止まらない。
砕けた雪と古いコンクリート片に巻き込まれ、サトの体は下へ滑り落ちた。
肩を打つ。
背中を打つ。
荷袋が引っかかり、体が半回転する。
最後に、右足が何かの角にぶつかった。
痛みが、視界を白く焼いた。
「っ……!」
そして、音が消えた。
◇
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




