第116話 北の海へ(二)
「ルナは人造神なんだよな」
「第七柱。未月神」
ツキハは言った。
「地上の六柱は、それぞれ大陸に属しています。鉄地母、生命王、森骸母、夢時神、氷記神、雷網神。いずれも旧人類が精霊圏へ接続するために造った、惑星規模の人造神です」
「大陸の管理者か」
「はい。環境修復、生命保全、文明維持、気候制御、記録保存。本来は、世界を救うために造られました」
「本来は、か」
サトはその言葉の重さを感じた。
ツキハは頷く。
「人間は、神を兵器として扱いました。六柱は対立し、命令が矛盾し、神蝕戦争が起きました」
「ルナは?」
「ルナは、どの大陸にも属さない調停者として月に造られました」
ツキハの声が、少し低くなる。
「剣ではなく、天秤です」
「天秤」
「六柱の行動を観測し、命令矛盾を検出し、どの判断が生命と文明と未来に適切かを測る役割でした」
「でも、間に合わなかった」
「はい」
ツキハは月を見た。
「ルナは、地球を知りませんでした。人類を知りませんでした。命がなぜ残されるべきなのかを、記録としては理解していても、判断の中心に置けなかった」
「だから、姉たちを送った」
「はい」
「で、最後にお前が来た」
ツキハは、少しだけ黙った。
「そこが分からないのです。私は、姉たちのように強い能力を持った分霊ではありません」
「……そうなのか」
「観測することしかできません。なぜ私を」
「違うだろ」
サトは言った。
ツキハがこちらを見る。
「お前は、忘れない」
月竹の壁に浮かぶ光が、静かに揺れた。
「壊れかけたものを、消えかけたものを、名前がなくなりそうなものを、最後まで見る。そう言ってたじゃないか」
「……はい」
「なら、それは十分強い」
ツキハは何かを言おうとして、やめた。
その代わり、小さく頷いた。
「適切です」
「そうか」
「ですが、少し、恥ずかしいです」
「それも適切だ」
神威が二人の間に鼻先を入れた。
「わぅ」
「お前も聞いてたのか」
「わぉん」
「神威も、忘れません」
ツキハが神威の頭に手を置く。
「神威は、神威です」
神威は得意げに胸を張った。
その拍子に背面パネルが少し開き、忌避用LEDがちかちか光った。
「そこで光るな。北米に行ったらそれで撃たれるかもしれないんだからな」
「きゅうん」
「今から練習しろ。嬉しくても光らない」
「わぅ……」
神威のLEDが、しょんぼりと消えた。
ツキハは真面目な顔で言った。
「訓練として適切です」
「だろ」
「ただし、神威が少し悲しそうです」
「それは俺も分かってる」
サトは神威の頭を撫でた。
それから地図へ視線を戻す。
「で、まずはどこへ行く」
ツキハが地図を拡大した。
白石島から北へ。
冷たい海に囲まれた大きな島が映る。
旧世界の地図名と、現在の呼び名が重なる。
「北星海道」
ツキハが言った。
「現在の観測記録では、北の大島。精霊流は安定していますが、冬の反応が強い土地です。旧世界施設の残骸も多く、観測院、集落、市場が残っている可能性があります」
「寒そうだな」
「はい。寒冷地です」
「神威、LEDウォーマーの出番だぞ」
「わぉん」
「だから光りすぎるなって」
ツキハが地図の一点を指した。
「ここに、大きな都市反応があります。雪幌都」
「サツホロ」
「旧世界の都市跡を中心に、村が点在。現在も人が集まっている可能性があります。観測院、旧機械市場、精霊素材の流通、修理工房。そのいずれかがあれば、月竹の修復に必要な材料を集められます」
「必要なものは?」
「自動修復機能があってもある程度の資材は必要です。外殻補修材。保護室の隔壁材。精霊導管の予備。あと、私たちの食料」
「最後が一番大事だな」
「はい。栄養摂取は重要です」
「月竹の白い固形物は却下な」
「適切です」
サトは地図を見ながら、頭の中で必要なことを並べる。
月竹を直す。
エネルギーを補給する。
浸水した保護室を修理する。
食料を買う。
資金も要る。
龍都カツザンで得た報酬はまだあるが、月竹の修理となると足りるかどうか分からない。そもそも、月竹の部品に値段がつくのかも分からない。
「また稼がないとな」
「サトは、どこでも仕事を見つけます」
「褒めてるのか、それ」
「はい。壊れたものを直す能力は、どの土地でも有効です」
「なら、雪幌都でも修理屋か」
「観測士としての依頼もあるかもしれません」
「寒冷地の精霊獣とか、旧世界施設とかか」
「はい」
ツキハは少しだけ考えた。
「ただし、月竹を人目に触れさせるのは不適切です」
「だよな」
白石島で起きたことを思い出す。
月竹はただの船ではない。
月から来たもの。
旧世界の残響を引き寄せるもの。
姉たちへ繋がる鍵。
見つかれば、助けになることもあるだろう。だが、面倒事も必ず呼ぶ。
「沿岸部に降りて、月竹は海に沈めておくか」
「可能です。浅い海底で休眠状態にし、微弱な月片信号で位置を保持します」
「見つからないか?」
「通常の観測士には難しいと思います。ですが、強い精霊反応を持つ存在、または月由来の技術を知る者には、気づかれる可能性があります」
「ほぼ気づかれないってことだな」
「完璧ではありません」
「条件が厳しすぎる」
サトは苦笑した。
「でも、それしかないな」
「はい」
二日目の明け方。
月竹は北星海道の沿岸へ近づいた。
海の色が変わっていく。
深い青から、冷たい藍へ。
やがて、灰色に近い海になった。
外部映像の向こうに、白いものがちらつく。
最初は泡かと思った。
だが違った。
雪だった。
海面の上で、雪が降っている。
水の中から見上げる雪は、不思議だった。
空から落ちてくる白い粒が、海面に触れて消える。
そのたびに、青い光が小さく揺れた。
「雪か」
「はい」
「寒そうだな」
「実際に寒いと思われます」
「神威」
「わぉん」
「出たら、ツキハの近くにいろ」
「わぅ」
「私は大丈夫です」
ツキハが言った。
だが、月衣の裾を少しだけ握っている。
サトはそれを見なかったことにした。
「大丈夫でも、温かい方がいいだろ」
「……適切です」
月竹は、切り立った岩場の影に入った。
入り江というほど広くはない。
だが、海岸からは見えにくい場所だった。
崩れた旧世界の防波堤が、半分だけ海に沈んでいる。苔と貝に覆われたコンクリートの影に、月竹は静かに身を寄せた。
『休眠待機位置、確定』
『外部偽装、開始』
月竹の白い壁が、ゆっくりと色を変えた。
岩と海藻と雪の影に紛れるように、光が薄くなる。
サトは壁に手を当てた。
「すぐ戻る。たぶん」
『航行者の帰還まで待機します』
月竹の声は、いつも通り平坦だった。
それなのに、少しだけ寂しそうに聞こえた。
「……置いていくわけじゃない」
サトは思わず言った。
ツキハがこちらを見る。
神威も見る。
「なんだよ」
「いえ」
ツキハは少しだけ目を伏せた。
「適切です」
月竹の昇降口が開いた。
冷たい空気が流れ込んでくる。
海の匂い。
雪の匂い。
湿った岩の匂い。
そして、知らない土地の匂い。
神威が最初に外へ出た。
岩場に足を下ろし、周囲を警戒する。
次にサトが出る。
足元が滑りやすい。
古い防波堤の上には薄く雪が積もっていた。
最後にツキハが外へ出た。
白い月衣が、雪の中で少しだけ光る。
「寒いか」
「寒い、に該当します」
「よし。神威」
「わぅ」
神威がツキハの横に寄った。
背面パネルの奥で、LEDウォーマーが低出力で起動する。
派手に光らない。
ただ、近くにいると少し温かい。
「今のはいいぞ」
「わぉん」
「胸を張るな。滑る」
言った直後、神威の足が少し滑った。
「きゅうん」
「ほらな」
ツキハが小さく笑った。
海岸線の向こうには、雪に埋もれた森が広がっていた。
針葉樹の黒い影。
白い斜面。
遠くに、旧世界の塔の残骸のようなものが一本だけ立っている。
さらにその向こう。
地図の上では、雪幌都があるはずだった。
「行くか」
サトは荷物を背負い直した。
ピッケルの重みが、手に馴染む。
「まずは人のいる場所を探す。情報を集めて、食料を買って、修理材料を探す」
「はい」
「月竹を直す」
「はい」
「それから北東だ」
ツキハは頷いた。
「エル姉さまの光を追います」
神威が短く鳴いた。
「わぉん」
三人は、雪の積もった海岸から陸へ向かって歩き出した。
背後では、月竹が静かに海の中へ沈んでいく。
白い船体は、岩の影と雪の反射に紛れ、やがて見えなくなった。
サトは一度だけ振り返った。
何もない海。
ただ、波だけが静かに寄せている。
「大丈夫だ」
誰に言ったのか、自分でも分からなかった。
月竹にか。
ツキハにか。
神威にか。
それとも、自分にか。
雪が降っている。
白い息がこぼれる。
神威の足跡が、雪の上に残る。
その横に、サトの足跡。
その少し後ろに、ツキハの小さな足跡。
北星海道の冬は、静かだった。
だが、完全に眠っているわけではない。
森の奥で、何かが動いた。
白い尾のようなものが、雪の間をすっと抜ける。
サトは足を止めた。
「今、何かいたか」
ツキハが森を見る。
神威も耳を立てる。
雪の向こうには、もう何も見えない。
ただ、澄んだ精霊反応だけが、かすかに残っていた。
「敵意はありません」
ツキハが言った。
「ですが、こちらを見ています」
「誰が」
「分かりません」
ツキハは少しだけ首を傾げた。
「ただ、とても白い反応です」
サトは雪の森を見つめた。
白い海。
白い森。
白い息。
そして、白い何か。
「……北に来たって感じだな」
「適切な感想ですか?」
「たぶん」
サトはピッケルを握り直した。
「行こう。まずは、雪幌都に向かおう」
三人の足跡が、雪の上に続いていく。
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




