第115話 北の海へ(一)
さぁ、新章行くで(´・ω・`)
海の中に、いたのは二日ほどだ。
月竹は、海面近くを進むこともあれば、深く潜ることもあった。
外から見つからないように。
そして、月竹自身の損傷をこれ以上広げないように。
航行速度は、思っていたよりもずっと遅かった。
月竹は月から地上へ降りる舟であり、本来なら空を渡るものなのだろう。だが今の月竹は傷ついている。浸水区画は切り離され、外殻の保護被膜はまだ完全ではない。
だから月竹は、海の底を滑るように進んだ。
海流をうまく掴み北上していく。
白い船体の周囲を、青い光が流れていく。
海の中は静かだった。
けれど、何もないわけではなかった。
月竹の外部映像には、何度も魚の群れが映った。
銀色の魚。
青く光る魚。
薄い羽のようなひれを広げて泳ぐ魚。
体の半分が透けていて、骨の中に小さな星を閉じ込めたような魚。
長い尾を持つものもいた。
岩のように見える巨大な甲殻の精霊獣もいた。
暗い海底に、ぼうっと灯る花畑のようなものが見えた時、サトは最初、それを植物だと思った。
だが、近づくと花のひとつひとつが口を開けた。
細い歯が並んでいた。
「……月竹。少しだけ離れよう」
『承認』
月竹が静かに進路を変える。
花畑のようなものは、追ってこなかった。
ただ、海底でゆっくり揺れている。
「綺麗なものほど怖いな」
「地上でも、同じ傾向はあります」
ツキハが言った。
「ただし、例外も多いです」
「例外?」
「サトが拾ってくれたものは、だいたい壊れていて、怖くはありませんでした」
「俺の拾うものに対する評価が低い」
「神威も含まれます」
「それは合ってる」
「わぉん?」
神威が顔を上げた。
月竹の壁面いっぱいに映る海中の景色を、神威はずっと見ている。
最初こそ低く唸っていたが、今はもう慣れたらしい。大きな魚が通るたびに耳を立て、尻尾の先を小さく揺らしている。
ただし、あまりに大きな影が近づいた時だけは別だった。
海の暗い方から、黒い鯨の骨のようなものが現れた。
骨だけに見える。
けれど、骨ではない。
肋骨のような白い筋の間に、青黒い光が流れている。目に当たる場所には何もないのに、見られていると分かる。
神威が低く唸った。
「ぐるる……」
「威嚇するなよ」
サトは神威の首元を押さえた。
「相手、月竹よりでかいぞ」
「きゅうん」
「不満そうにするな。大きさは大事だ」
ツキハは外部反応を観測していた。
「敵意はありません。観察されています」
「こっちが?」
「はい。海のものではない異物。そう認識されているようです」
「そりゃそうか」
黒い骨のような精霊獣は、しばらく月竹の横を泳いだ。
水の流れが変わる。
月竹の船体が、わずかに揺れた。
サトは壁に手をついた。
ツキハも同じように支えようとして、足元を少しふらつかせる。
神威がすぐに体を寄せた。
ツキハは神威の背に手を置く。
「ありがとうございます。」
「わぉん」
神威の背中に生えた小さな芽が、暗い海の光を受けて、淡く揺れた。
海の精霊獣たちは、それを見ると少しだけ距離を取った。
怖がったわけではない。
むしろ、敬意に近い反応だった。
サトには詳しいことは分からない。
だが、神威が以前よりも、ただの機械ではなくなっていることだけは分かった。
その変化を喜んでいいのか。
怖がるべきなのか。
まだ、答えは出ない。
「……腹減ったな」
サトは言った。
答えの出ないことを考えるのをやめるためでもあった。
ツキハが振り返る。
「空腹ですか」
「空腹だ」
「私も、該当する反応があります」
「じゃあ飯にするか」
と、言ってみたものの、飯と呼べるものは少なかった。
ドタバタとした出発だった。
白石島ではゆっくり補給する余裕などなかったし、そもそも月竹に戻ってからは、ザラスに追われ、荒魂さまの雷に巻き込まれ、そのまま潜水した。
旅の荷物はある。
だが、食料は心細い。
日持ちするパンは、もうかなり減っていた。龍都カツザンで買った干し肉も少し残っているが、神威の整備部品や資料の隙間に押し込んでいたせいで、袋の端が潰れている。
月竹の保存庫も一応確認した。
だが、月面用保存食は、いつのものだろう。
見た目は白い固形物。
匂いは、石。
味は、たぶん虚無。
「月竹。これ、食えるのか」
『栄養摂取は可能です』
「味は?」
『栄養摂取は可能です』
「二回言ったな」
サトは白い固形物を見つめた。
ツキハも見つめた。
神威も見つめた。
「……パンにしよう」
「適切です」
結局、二人は硬くなったパンを少しずつかじった。
神威は食べない。
だが、なぜか横でじっと見ていた。
「お前、食べたいのか?」
「わぅ」
「食えないだろ」
「きゅうん」
「いや、かわいそうな顔をされても困る」
サトはパンの端を神威の鼻先に近づけた。
神威は匂いを嗅ぐような動作をしたあと、満足げに尻尾を振った。
「それでいいのか」
「神威にとっては、食事行動の観測で満足した可能性があります」
「犬っぽいのか、機械っぽいのか、よく分からないな」
「神威は神威です」
ツキハは当然のように言った。
サトは少しだけ笑った。
「ああ。そうだな」
その日の夜、月竹はさらに北へ進んだ。
海の中に夜があるのか、サトにはよく分からなかった。
だが、外の青は少しずつ濃くなり、やがて黒に近づいた。
月竹の内部照明も落ちる。
壁面の地図だけが淡く光っていた。
地球の地図。
ツキハが月片をかざすと、月竹の壁に大きな球体が浮かんだ。
旧世界の大陸線。
今の海岸線。
精霊流の濃淡。
人造神の残響。
そして、月竹が捉えた姉たちの光。
サトは腕を組んで、それを見上げた。
「こうして見ると、世界って広いな」
「はい」
「俺たち、今までほんの少ししか歩いてないんだな」
「それでも、私にとっては、広い旅でした」
ツキハは言った。
その声が少し柔らかかったので、サトは彼女の顔を見た。
ツキハは地図を見ている。
けれど、見ているのは地図だけではないようだった。
「思い出したのか」
「少しだけ」
ツキハは月片に触れた。
「姉たちのことを」
地図の上に、六つの淡い光が浮かぶ。
ひとつは遠い西。
ひとつは南。
ひとつは北東。
ひとつはさらに南の大陸。
ひとつは赤い大地の方。
ひとつは、白い氷の果て。
「私には、姉が六人いました」
「六人」
「はい。正確には、ルナから地上へ送られた分霊です。ですが、私にとっては姉に該当します」
「該当、か」
逆に考えると、ツキハもルナの分霊にあたるということなのだろうか。
サトは少し考えたが結局質問はできなかった。
「不適切ですか?」
「いや。お前がそう思うなら、それでいい」
ツキハは小さく頷いた。
「ミラ姉さまは、文明と言葉を観測する分霊でした。目的は、ユーラシア大陸の鉄地母との接触」
淡い光が、大きな大陸の上で揺れる。
「文明と言葉……」
「はい。人が何を残し、何を忘れたのか。それを観測する役割です」
ツキハは、次の光へ指を移した。
「ナラ姉さまは、生命の継承を観測する分霊でした。目的は、アフリカ大陸の生命王との接触」
緑と金の精霊流の中に、別の光が沈むように瞬いた。
ツキハは頷き、さらに地図をなぞった。
「セラ姉さまは、観測した可能性を形にする分霊。目的は、南米大陸の森骸母との接触」
「可能性を、形に?」
「はい。記録だけではなく、選ばれなかった未来の痕跡を見る役割だったと思われます」
ツキハの指が、赤い大地の方で止まる。
「ユメ姉さまは、夢と記憶を映す分霊です。目的は、オーストラリア大陸の夢時神との接触」
「夢と記憶を映す……あいつらしいな」
「知っているのですか」
「夢で少しな」
サトは、ユメの声を思い出した。
ツキハをお願い。
かわいらしい騎士さん。
サトは少しだけ顔をしかめた。
「変な呼ばれ方をした」
「不適切な呼称でしたか」
「いや、訂正する前に逃げられた」
ツキハは少しだけ瞬きをした。
笑ったのかもしれない。
「そして、シオン姉さま」
白い氷の果てに、冷たい光が灯る。
「記録を封印する分霊。目的は、南極の氷記神との接触」
「記録? 何の記録だ」
「分かりません」
ツキハは正直に言った。
「ですが、おそらく重要です。ルナが知らなければならないこと。私が思い出さなければならないこと」
ツキハが指を最後の場所へ動かす。
「最後がエル姉さまです。」
北東の光が、ひときわ強く瞬いた。
サトはその光を見た。
「エル姉様は、通信と機械網に同期する分霊でした。目的は、北米大陸の雷網神との接触」
「準備ができたら、そこへ行くんだな」
「はい。今、最も強く追える反応です」
サトは黙って地図を見た。
六つの光。
そして、月。
月の上には、さらに淡い光があった。
「で、その全員を送り出したのが、ルナか」
「はい」
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神威もたぶん尻尾を振ります。




