第106話 荒ぶる海神(一)
眠りは、浅かった。
月竹の中は静かだった。
壁は白く、淡く光っている。
海の音はほとんど聞こえない。
だが、完全な静寂ではなかった。
どこか遠くで、月竹そのものが呼吸しているような低い音がある。
壊れた舟が、長い眠りから目を覚まし、自分の体を確かめている音。
サトは、その音を聞きながら眠った。
ピッケルは手の届くところに置いた。
神威はツキハの近くで丸くなっている。
最初は落ち着かなさそうに床の匂いを嗅いでいたが、休息区画の白い布が温かいと分かると、すぐに体を沈めた。
ツキハは、壁にもたれて目を閉じていた。
五時間にわたる記憶領域の修復補正を終えたばかりだ。
受肉体に異常はない。
生理機能にも問題はない。
それでも、疲れていないはずがなかった。
月竹の白い光に照らされた横顔には、まだ少しだけ、泣きそうだった時の名残があった。
七台の月竹。
六人の姉。
ユメかもしれない声。
そして、壁面に浮かんだ五つの光点。
ひとつは、ここ。
白石島の沖にある、この月竹。
この月竹を除けば、海の向こうに散らばる光は四つ。
そのうち、北東の遠い大陸にある一点だけが、比較的はっきりと光っていた。
残り三つは、かすかだった。
遠い南の大陸にも、その微かな光のひとつがあった。
眠っているのか。
壊れかけているのか。
ただ遠すぎるだけなのか。
ツキハにも、まだ分からない。
そして、沈黙た二つ。
壊れているのか。
隠れているのか。
あるいは、もうどこにもないのか。
ツキハの探し物は、少しだけ形を持った。
だが、それがすべてなのかは、まだ分からない。
サトは眠りに落ちながら、ぼんやりと思った。
ここから、本当に旅が始まるのだと。
◇
轟音が響いた。
月竹の床が、大きく揺れた。
サトは飛び起きた。
反射的にピッケルをつかむ。
神威が跳ねるように立ち上がり、背面のLEDを明滅させた。
「わぉん!」
「何だ!」
ツキハも目を覚ましていた。
まだ眠りの気配を残した顔のまま、すぐに壁面へ手を伸ばす。
月竹の声が、白い空間に響いた。
『警告。外部より大質量エーテル弾頭を確認』
壁面が赤く明滅する。
『直撃判定。オートプロテクト発動』
次の瞬間、月竹の外で、何かが砕けるような音がした。
ばりん、と。
硝子ではない。
氷でもない。
もっと薄く、もっと強いものが無理やり割られたような、嫌な音だった。
『第一次防御成功。残存エネルギー、一〇%損失』
「攻撃か!」
「はい」
ツキハの顔から、眠気が完全に消えた。
「月竹、外部状況を表示してください」
『承認』
白い壁が透けるように変わった。
外の景色が映し出される。
朝だった。
満月の夜は終わり、空の端が淡く明るくなっている。
白い砂州はまだ海の中に伸びていた。
白石島は静かに見える。
だが、村の方には動きがあった。
人々が走っている。
灯り。
荷物。
子どもを抱える者。
精霊灯を掲げる者。
眠っていた村が、突然叩き起こされたように慌ただしく動いていた。
「村が……」
ツキハが息を呑む。
サトはすぐに海の方を見た。
そこに、黒い影があった。
沖合。
朝の薄明かりの下で、海に浮かぶ巨大なもの。
最初は島かと思った。
だが違う。
島なら、あんなふうに滑るようには動かない。
海面に突き出した黒い船体。
錆びた装甲。
折れた塔のような構造物。
その中央に、赤黒く脈打つ炉心の光。
そして、船首にあたる場所に、異様に長い砲身があった。
砲身の奥で、暗い光が集まっている。
「戦艦……?」
サトは呟いた。
ツキハは、表示された信号を読み取っていた。
瞳が細かく動く。
「戦艦型狂機……炉心級上位」
言葉が途中で止まった。
次に出てきた声は、少し低かった。
「いえ。神蝕級です」
「神蝕級?」
「信号に、人造神残響があります。デウス汚染に近い反応です」
サトは息を詰めた。
それがどれほど危険なものか、詳しい数値は分からない。
だが、ツキハの声で分かった。
あれは、今まで見てきた狂機とは違う。
徘徊する小型の狂機でもない。
門や通路を塞ぐ大型狂機でもない。
あれは、災害だ。
海の上に残った、旧世界の戦争そのものだ。
月竹の声が続いた。
『型番照合。一致候補あり』
壁面に、古い文字列が流れる。
『旧ユーラシア大陸海軍所属。エーテルブラスター搭載級軍艦』
黒い船体の輪郭が強調される。
『識別名、ZARATH』
「ザラス……」
サトはその名を口にした。
錆びた船体のあちこちから、黒い精霊流が漏れている。
それは煙のように立ち上り、朝の空に混ざっていた。
『停戦要求、応答なし。通信要求、応答なし。言語理解困難な信号を発しています』
ツキハが壁面を見つめたまま言った。
「月系設備……未登録神格運搬体……敵性……」
「何だ、それ」
「断片です。暗号化された古い命令が残っている可能性があります」
「古い命令?」
「神蝕戦争の中期以降、地上側が月系設備を危険視していた可能性があります。月から来るものを敵とみなす命令が、残っているのかもしれません」
ツキハの声が揺れた。
「月竹を起こしたから……」
その言葉の先を、サトは聞きたくなかった。
「私が、起こしたから…でしょうか」
とんでもないものを呼び寄せてしまったではないか。
「違う」
サトは即答した。
ツキハがこちらを見る。
「悪いのは、お前じゃない。こんな命令を残して沈んだ、昔の連中だ」
「ですが」
「今は考えるな」
サトは映像の向こうを見た。
ザラスの砲身に光が集まっている。
次が来る。
「月竹を動かそう。村が巻き添えを食らう」
ツキハの目が、はっと見開かれた。
「っ、はい。月竹、大気圏内飛行機能。起動可能ですか」
『限定使用可能。ただし、継続稼働時間に制限あり。完全修復まで三十日を想定。高出力機動は非推奨』
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




