第104話 月竹の記憶(二)
『免疫適応処理……確認。地球環境想定ワクチン、接種済み。対ウイルス防疫パッケージ、正常』
「防疫も済んでるのか」
「はい」
ツキハは、表示を見ながら答えた。
「思い出しました。私は地球へ来る前に、地球環境で想定される感染症への対策を受けています」
「なら、ひとまず安心だな」
「はい。村での生活でも、今のところ生理的な問題は確認されていません」
「それを早く知りたかった」
「すみません。私も、忘れていました」
ツキハは少しだけ申し訳なさそうにした。
月竹の表示が、さらに変わる。
だが、次の表示で空気が変わった。
『エーテル流体計測……軽度異常あり』
白い光が、ツキハの胸元から頭部へ集まる。
『記憶領域との同期に乱れを確認』
ツキハの指が、わずかに握られた。
『該当症状の有無を確認してください。記憶の混濁。内臓器官不良。五感神経異常』
「……若干の記憶の混濁が見られます」
ツキハは静かに答えた。
その声は、いつもより少し硬かった。
『承認。再スキャンおよびエーテルナノマシン散布による、受肉体記憶領域の修復補正が可能です』
「それで、記憶が戻るのか」
サトが聞いた。
『一部回復の可能性あり。所要時間、五時間。ただし、保護領域、欠損領域、外部干渉領域については補正不能の可能性があります』
「危険は?」
『軽微。ただし、精神的負荷が発生する可能性があります』
サトはツキハを見た。
ツキハもサトを見た。
白い空間の中で、少しだけ沈黙が落ちる。
月竹の奥で、低い音が続いていた。
壊れた舟が呼吸する音。
その音の中で、ツキハは小さく息を吸った。
「実行します」
「即答だな」
「必要です」
「精神的負荷があるって言ってたぞ」
「はい」
「無理はするなよ」
「無理かどうかは、実行後に判断します」
「それはだいたい無理するやつの言い方だ」
「……不適切でしたか?」
「かなりな」
ツキハは目を伏せた。
神威がそっと近づき、ツキハの膝に鼻先を押しつける。
「きゅうん」
ツキハは神威の頭を撫でた。
「大丈夫です。神威」
「わぅ」
「サトも、ありがとうございます」
「俺はまだ何もしてない」
「見ていてくれています」
サトは少しだけ言葉に詰まった。
それから、短く答えた。
「なら、見てる」
ツキハは月竹へ向き直った。
「月竹。記憶領域の修復補正を開始してください」
『承認確認。開始しますか?』
「開始します」
『ACCEPT。記憶領域の回復処理を行います。診療区画のベッドに移動してください。』
「では、サト、神威、いってきます」
「あぁ。神威、少し休んだら整備しよう」
「わぉん!」
◇
白い光が強くなった。
ツキハの髪が、ふわりと浮く。
ツキハの目が、ゆっくりと閉じられる。
頭の奥で、薄い霧がほどけていく。
知らないはずの単語が、知っていたものとして戻ってくる。
月の白い廊下。
壁の向こうに広がる、黒い空。
窓の外に浮かぶ、青い星。
『ACCEPT。記憶領域の回復』
ツキハの指先が震えた。
低重力の庭。
白い砂ではない。
月の庭。
透明な天蓋の向こうに、地球が見える。
誰かの声。
自分によく似た声。
違う名前。
違う笑い方。
けれど、同じ月から生まれた気配。
『ACCEPT。記憶領域の回復』
六つの背中。
ツキハより少しだけ大人びた影。
あるいは、よく似た影。
ひとつは楽しそうに振り返りかけた。
ひとつは遠くを見ていた。
ひとつは、何かを抱えていた。
ひとつは、泣いていたように見えた。
ひとつは、怒っていた。
ひとつは――。
「……姉さま」
ツキハの唇が、かすかに動いた。
その声は、小さかった。
けれど、確かに誰かを呼んでいた。
白い光の中で、ツキハだけが遠い場所を見ている。
そのひとつが、こちらを振り返ろうとした。
顔が見える。
名前が戻る。
私が地球に降りた目的は。
そう思った瞬間。
『ERROR。記憶領域の一部にプロテクト』
「…ぁぐ」
光が乱れた。
ツキハが小さく息を呑む。
『ERROR。記憶領域の一部にプロテクト』
『自主的に記憶領域にプロテクトを設定した可能性があります』
「自主的……」
ツキハは、自分の胸元に手を当てた。
「私が、自分で?」
『可能性あり。詳細不明。プロテクト解除には、上位認証または本人の同意鍵が必要です』
「本人の同意鍵?」
『不明。記録欠損』
ただ、白い光だけがゆっくり弱まっていく。
ツキハはしばらく目を閉じていた。
やがて、ゆっくりと目を開ける。
◇
戻ってきたツキハは少しだけ、泣きそうな顔だった。
「思い出しました」
「何を」
「全部ではありません。けれど、いくつか」
ツキハは、ゆっくり話し始めた。
「私は、地球へ来る前に、防疫処理を受けています。地球環境で想定されるウイルスへの対策。基礎知識パッケージ。精霊科学文明、古き神々、人造神に関する情報も、ある程度」
「ああ」
「月竹には自己修復機能があります。防衛システムもあります。ただし、宇宙へ戻るには、自己修復では賄えない損傷があります」
「宇宙には戻れない」
「はい」
その言葉は、静かだった。
だが、重かった。
ツキハは壁面の立体図を見る。
「月竹は、七台あります」
「七台?」
サトは顔を上げた。
「はい。地球上に七台」
「じゃあ、この舟だけじゃないのか」
「はい。私の姉たちが、それぞれ別の月竹で地上へ向かいました」
ツキハの声が、少しだけ変わった。
硬い説明の中に、感情が混じる。
「私の姉は、六名います」
六つの背中。
さっきツキハの中に浮かんだもの。
ツキハには、呼ぶ名前がある。
探すべき相手がいる。
「ユメ姉さま」
ツキハが小さく言った。
サトは、その名を知っていた。
白昼夢の中で聞いた声。
かわいらしい騎士さんと呼んだ声。
ツキハを頼むと、そう言った誰か。
「ユメは、姉なのか」
「はい。オーストラリア大陸に向かったはずです」
神威が首を傾げた。
「きゅう?」
「神威も、声を聞いたのですか」
「わぉん」
神威は何かを思い出したように尾を振った。
ツキハは、少しだけ笑った。
「ユメ姉さま…だとしたらなぜ」
月竹の壁面に、五つの光点が浮かんだ。
ひとつは、今いる場所。
白石島の沖。
もうひとつは、遥か遠く、北東の大陸。
その光は、かすかに揺れている。
残りの三つは薄い。
場所は示されているが、応答は弱い。
あるいは、眠っている。
そして、光点のない二つは壊れているのだろうか。
ツキハは、その光を見つめた。
「七台の月竹。六人の姉。」
「それが、探し物か」
「はい。おそらく。」
ツキハはうなずいた。
「少なくとも姉たちを探していたのは間違いありません」
その言葉は、以前よりもはっきりしていた。
ただし、それだけが探し物かどうかはまだわからない。
霧の向こうから取り出したような目的ではない。
自分の胸の中から、もう一度見つけた目的だった。
サトは五つの光点を見た。
遠い。
あまりにも遠い。
この大陸だけでも、まだろくに知らないことだらけだ。
それなのに、世界中に散った月竹を探すという。
普通なら、途方もないと言うところだ。
だが、サトはそれを言わなかった。
代わりに、腰のピッケルに手を触れた。
「月竹。サトを整備管理者として登録してください」
ツキハが言った。
サトは振り返った。
「おい、何を」
『整備管理者登録には、マスター権限が必要です。実行しますか?』
「実行します」
「ツキハ」
「必要です」
ツキハは真っ直ぐにサトを見た。
「月竹は損傷しています。私は知識を持っていますが、地上の修理や判断はサトの方が適切です」
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




