第103話 月竹の記憶(一)
三人は、光の階段を上った。
足を乗せるたび、白い光が水面の波紋のように広がる。
硬いのか、柔らかいのか分からない。
だが、不思議と足元は沈まなかった。
月竹から伸びた階段は、月明かりを束ねて作られた橋のようだった。
背後では、白い砂州が淡く光っている。
その左右には、静かな海があった。
海の精霊獣たちは、まだ遠巻きにこちらを見ていた。
近づいてはこない。
ただ、月竹が開いたことを確かめるように、ゆっくりと白い砂州の周囲を巡っている。
サトは前を見た。
月竹の船体は、近づくほど大きかった。
月の光を浴びた竹。
そう呼ぶしかない姿をしている。
節のような構造が白い外殻を横切り、そのあちこちに焦げた跡や古い傷が残っていた。
砂。
貝殻。
珊瑚のような精霊結晶。
海の底に沈んでいたものたちが、まだ船体の隙間にまとわりついている。
内側から、細い光が走っている。
まるで長い眠りから目を覚ました獣が、ゆっくり呼吸を確かめているようだった。
光の階段の先で、船体の一部が開いている。
そこから漏れる光は、白い。
だが、白石島の光とは少し違う。
月竹の入口を見つめたまま、少しだけ唇を引き結ぶ。
サトは、つないだ手を少しだけ握り直した。
「何があっても、一緒に見る」
ツキハがこちらを見る。
「さっきも言ったろ」
「……はい」
神威が二人の横に並び、胸を張った。
「わぉん」
ツキハは神威を見る。
その表情が、ほんの少しだけ和らいだ。
光の階段が、最後の一段まで続いている。
ツキハは深く息を吸った。
白兎端末の耳が、まっすぐ月竹の入口を向く。
月片が、彼女の胸元で淡く光った。
「行きましょう。サト、神威」
「おう」
「わぉん」
三人は、月竹の中へ入った。
◇
内部は、白かった。
白い壁。
白い床。
白い天井。
ただの白ではない。
月明かりを薄く溶かしたような、柔らかい白だった。
けれど、完全に温かいわけでもない。
どこか遠い。
人の暮らしから切り離された場所の白だった。
サトは、思わず息を止めた。
精霊科学文明の遺跡は、いくつも見た。
壊れた機械も、古い兵器も、地下に眠る施設も見た。
だが、これは違う。
まだ生きている。
そう感じた。
神威は入口のすぐ内側で足を止め、床の匂いを嗅いだ。
「わぅ」
「噛むなよ」
「わぉん」
「今のは信用できない返事だ」
ツキハは、入口から数歩進んだところで立ち止まった。
白い光が、彼女の足元から広がる。
壁面に細い文字列が走った。
サトには読めない。
だが、声は聞こえた。
『おかえりなさい。マスター・ツキハ』
ツキハの肩が、わずかに震えた。
サトは、その横顔を見た。
ツキハは、しばらく何も言わなかった。
白い光の中で、薄衣が淡くきらめいている。
その表情は、懐かしさだけではなかった。
安堵。
戸惑い。
そして、胸の奥に触れられたような痛み。
やがて、ツキハは小さく息を吸った。
「……ただいま、戻りました」
月竹は、静かに応答した。
『生体認証を確認。マスター・ツキハ』
ツキハは、少しだけ目を閉じた。
そして、前を向いた。
「月竹。損傷状況を確認してください」
『承認』
壁面に光の筋が広がった。
白い線がいくつも走り、月竹全体を透かして見せるような立体図が浮かび上がる。
竹に似た細長い船体。
節のような構造。
内部の細い通路。
そして、赤や黄色の光点。
サトは思わず眉をひそめた。
「赤が多いな」
『致命的損傷。宇宙航行機能、復旧不可』
ツキハの表情が、わずかに固まった。
『重大損傷。中距離転移離脱機能、使用不可』
立体図の一部が赤く点滅する。
『軽微損傷。大気圏内飛行機能、限定使用可』
「飛べるのか」
サトが言うと、月竹はすぐに答えた。
『可能。ただし、継続稼働時間に制限あり。完全修復まで30日を想定。高出力機動は非推奨』
「宇宙には戻れない。けど、修復は続いてる。大気圏内なら、動かせないわけじゃない」
サトは立体図を見上げた。
「そういうことか」
『肯定』
ツキハは、月竹の立体図を見つめていた。
宇宙航行機能、復旧不可。
その言葉は、白い壁の中に静かに残っている。
月へ帰れない。
分かっていたはずだ。
けれど、自分の舟から告げられると、やはり重さが違うのだろう。
サトは何か言おうとして、少し迷った。
下手な慰めは違う気がした。
だから、事実だけを言った。
「でも、死んでない」
ツキハがこちらを見る。
「月竹は動く。少なくとも、まだ使える」
「……はい」
ツキハは小さく頷いた。
「適切な事実確認です」
「慰めじゃないぞ」
「分かっています」
神威が、わぅ、と鳴いた。
ツキハは神威の頭に手を置く。
『自己修復機能、稼働中。外殻保護機能、一部確認』
月竹の表示が切り替わる。
『耐真空被膜、限定展開可。耐熱被膜、限定展開可。耐浸水被膜……一部区画、ERROR』
サトは、その表示を目で追った。
「耐浸水?」
『一部故障区画に浸水可能性あり。完全封鎖には追加修復時間が必要です』
「ふむ」
サトは顎に手を当てた。
月竹の表示は、さらに続いた。
『防衛システム、限定稼働中。オートプロテクト、使用可。ただし、残存エネルギー低下。連続使用は非推奨』
「防衛システムもあるのか」
「はい」
ツキハが答えた。
「月竹は戦闘艦ではありません。ですが、宇宙空間や大気圏突入時の危険から搭乗者を守るための保護機能があります」
「なるほど。守るための機能か」
「はい」
ツキハは少しだけ目を伏せた。
「攻撃するための舟では、ありません」
その声には、どこか安心するような響きがあった。
サトは月竹の立体図を見る。
傷だらけの舟。
けれど、まだ生きている。
自分で直ろうとしている。
そして、誰かを守る機能をまだ残している。
サトは少しだけ、この舟が好きになった。
『マスター・ツキハ。身体状況の詳細スキャンを推奨します』
月竹が言った。
ツキハの肩が、ぴくりと動いた。
「私の?」
『肯定。エーテル流体反応に軽度異常。詳細確認を推奨します』
サトはツキハを見る。
「やっておいた方がいいんじゃないか」
「はい」
ツキハは頷いた。
「月竹。身体状況の詳細スキャンを実行してください」
『承認』
床から、白い光が立ち上がった。
それはツキハの足元から、ゆっくりと身体を包んでいく。
神威が反射的に一歩前へ出た。
「待て」
サトが神威の首元に手を置く。
「わぅ」
「検査だ。たぶん」
「わぉん……」
「たぶんって顔するな。俺もたぶんだ」
ツキハは少しだけ笑った。
その間にも、白い光はツキハの身体をなぞっていく。
髪。
肩。
胸元。
指先。
足。
壁面に、ツキハの輪郭が浮かび上がった。
人の形。
だが、その内側にはサトの知らない細い光の流れがあった。
血管ではない。
神経でもない。
もっと薄く、もっと精密なもの。
精霊の流れ。
受肉した身体の中に宿る、月の構造。
『受肉体構造スキャン……異常なし』
月竹の声が響く。
『生理機能スキャン……異常なし』
サトは、少しだけ息を吐いた。
ツキハは地上に来てから、何度も無理をしていた。
倒れないか。
病にならないか。
この世界の空気や水や食べ物が、ツキハの体に合っているのか。
サトはずっと気になっていた。
だから、その言葉には素直に安堵した。
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




