第102話 月の舟(二)
ツキハは目を閉じた。
月片を胸元にかざす。
白兎端末が、月へ向く。
夜空には満月がある。
その月から、細い光が降りてきた。
光は白兎端末を通り、月片へ集まり、さらに砂州の中央へ伸びていく。
音が変わった。
こん。
こん。
こん。
竹を叩くような音が、深くなる。
こん。
こん。
こん。
砂州の下から、返事がある。
ツキハの唇が小さく動いた。
言葉ではない。
歌でもない。
詠でもない。
もっと古い、信号のようなもの。
けれどサトには、それが祈りに見えた。
神威の胸元の勾玉印が淡く光る。
和魂さまの精霊流と、月竹の精霊流と、月片の光。
それらの間に、神威の印が薄く広がる。
荒れそうになる流れを、少しだけ和らげる。
海の精霊獣たちは、遠巻きに泳いでいる。
一体、大きな影が近づきかけた。
だが、神威の印が光ると、その影はゆっくり向きを変えた。
去るのではない。
ただ、距離を取る。
見守る位置へ戻る。
「本当に、和らげてるのか」
サトは小さく呟いた。
「わぉん」
神威は、答えるように鳴いた。
砂州の中央が光った。
白い砂が、ふわりと浮き上がる。
一粒。
二粒。
無数の砂が、月明かりの中でほどけていく。
砂が崩れたのではない。
押しのけられたのでもない。
砂そのものが、眠っていたものを起こすために道を開けたようだった。
白いものが見えた。
竹。
いや、竹に似た舟。
月の光を浴びた竹のような、細長い船体。
表面には、節のような構造が走っている。
ところどころに、薄い傷があった。
焦げた跡もある。
砂。
貝殻。
珊瑚のような精霊結晶。
それらをまといながら、月竹はゆっくりと浮かび上がった。
「……月竹」
ツキハが呟いた。
その声は、小さかった。
けれど、泣きそうだった。
サトは何も言わなかった。
言えることがなかった。
月竹は、砂州の中央から静かに浮上する。
海水がこぼれる。
白い砂が流れ落ちる。
和魂さまの柔らかな精霊流が、船体の周囲にまだ残っていた。
ツキハが言った通りだ。
月竹は、ただ埋まっていたのではない。
ただ隠されていたのでもない。
守られていた。
傷ついた舟が力を取り戻すまで、海と白石島と和魂さまが、静かに抱いていた。
あの観測塔がある村から、ここまで月竹を運んでくれたのは、あの上位精霊だろう。
月の精霊流を抑えられる場所へ。
抑えられるもののもとへ。
月竹を運び、託したのだろうか。
サトは、ようやく息を吐いた。
「よかったな」
それだけしか言えなかった。
ツキハは答えなかった。
ただ、月竹を見つめていた。
その横顔を見て、サトは少しだけ胸が痛くなった。
ツキハが遠く見えた。
月竹を前にしたツキハは、やはり月から来た少女なのだと思った。
自分の知らない場所から来て、自分の知らないものを背負っている。
それでも。
光の中で、ツキハの手は震えていた。
月から来たからなんだというのだ。
怖い時は怖い。
誰だって変わらない。
サトは一歩近づき、ツキハの手を取った。
ツキハの指は冷たかった。
けれど、握り返す力はあった。
「一緒にいるって言っただろ」
サトが言うと、ツキハは少しだけ目を伏せた。
「……はい」
白兎端末の耳が、ほんの少しだけ揺れた。
神威が、わぉん、と鳴いた。
自分もいる、と言いたげだった。
ツキハはサトの手を握ったまま、神威を見た。
「神威も、一緒です」
「わぉん」
「はい。適切です」
◇
月竹は完全には目覚めていなかった。
船体は浮かび上がったものの、すぐに飛び立つ様子はない。
それでも、反応は生きている。
表面の節が淡く光り、船首にあたる部分が、ゆっくり開いた。
白い光が漏れる。
階段だった。
光そのものが、段になって伸びてくる。
砂州の中央から、サトたちのいる場所へ。
月の舟から、月の少女へ。
光の階段が、静かに届いた。
神威が、わぅ、と鳴いた。
サトも息を呑んだ。
「入れるのか」
ツキハは光の階段を見つめていた。
「月竹が、私を認識しています」
「安全か?」
「完全には分かりません」
「いつものやつだな」
「はい」
ツキハは小さく頷いた。
「ですが、拒絶反応はありません。和魂さまの精霊流も、まだ重なっています。神威の印も、周囲を安定させています」
サトは月竹を見上げた。
大きい。
白く、美しい。
けれど、少し傷ついている。
それでも、完全に死んでいるわけでもない。
浮かぶことはできる。
扉を開くことはできる。
ツキハを認識することもできる。
なら、少しずつ分かっていけばいい。
自分にできることをやる。
できないことは、できるところまで近づける。
それが、サトにできる修理であり、観測だった。
ツキハは光の階段へ一歩近づいた。
手は、まだつながっていた。
神威も当然のように横へ並ぶ。
「わぉん」
「お前も行く気満々だな」
「わぅ」
「月竹の中で勝手に走るなよ」
「わぅ」
「その返事は信用できない」
「きゅうん」
ツキハが、ほんの少しだけ笑った。
遠くで、人の声がした。
村の方だ。
白い道の端に、いくつもの灯りが見える。
松明。
精霊灯。
村人たちが、こちらを見ていた。
その先頭に、ミナセがいた。
彼女は村へ戻り、和魂さまの許しを伝えたのだろう。
村人たちは、誰も白い道へ踏み込んでこない。
ただ、遠くから手を合わせていた。
サトはその姿を見て、頭を下げた。
月竹は、この村の祈りの場所に眠っていた。
和魂さまに守られていた。
ミナセは遠くで頷いた。
それだけで、十分だった。
サトは顔を上げる。
「ツキハ」
「はい」
「行こう」
ツキハは光の階段を見た。
それから、サトと神威を見た。
月片が、静かに光っている。
白兎端末の耳が、もう震えていない。
まっすぐ月竹を向いていた。
ツキハは深く息を吸った。
そして、少しだけ微笑んだ。
「行きましょう。サト、神威」
その声は、命令ではなかった。
観測でもなかった。
月はもう一人ではない。
サトは頷いた。
「おう」
「わぉん」
神威が答える。
三人は、光の階段を上った。
海の音が、遠くなる。
月の光が、近くなる。
そして、月の舟は静かに三人を迎え入れた。
神威が少しでもかわいいと思ってもらえたら、評価やコメントをいただけると作者が喜びます。
神威もたぶん尻尾を振ります。




