第2章 彼女の筆跡
古いスタンドの灯りの下で、若い女の手が、鉛筆で紙に何かを書いている。
手首には細い革ベルトの腕時計。腕には、傷ひとつない。
紙の表には、印刷された文字が並んでいる。朝霧市立図書館 貸出票。
女の手は書き終えて鉛筆を置き、それからしばらく、紙の上で小さく震えていた。
遠くで、子どもたちの笑い声がする。誰かが「朝霧の歌」を口ずさんでいる。調子はずれの、幼い声で。
それが夢なのか、記憶なのか、一花には分からなかった。目を覚ましたとき、手のひらの中に、あの紙片があった。
*
8月19日、水曜日の午後11時。
一花は紙片を電気スタンドにかざした。光に透かすと、裏側に印刷された枠と文字が、薄く浮かび上がる。裏返した。
朝霧市立図書館 貸出票 返却期限 2019年10月28日。
「……うちの、貸出票」
声に出すと、部屋の空気がわずかに冷えた気がした。
返却期限が10月28日。貸出期間は2週間だから、借りられたのは2019年10月14日。7年前の、月曜日だ。
一花は紙片を見つめたまま、手帳を開いた。ペンを取り、同じ文を書き写してみる。
次の火曜日、あなたは私を殺す。
2つの文字を並べた。
「火」の字の、最後の払いを内側に跳ね上げる癖。小学校の書道の先生に何度も直されて、それでも直らなかった癖だ。「殺」の字の、右側の旁を少しだけ小さく書く癖。「私」の禾偏の最後の点を、ほとんど線のように長く引く癖。
同じだった。
ペンが指から滑り落ち、机の上を転がって床に落ちた。
「……私の字だ」
一花には、こんなものを書いた記憶がない。
それが何より恐ろしかった。一花は火曜日を覚えている。この町でただ1人、すべての火曜日を。7年分の、360あまりの火曜日を、一花は1日も欠かさず抱えて生きてきた。忘れることを知らない人間だと、自分では思っていた。
その自分が、自分の書いた文字を覚えていない。
一花は手帳を閉じ、明かりを消した。暗闇の中で、紙片を胸の上に置いて目を閉じた。眠りは、明け方まで来なかった。
*
北陵新聞の朝霧通信局は、商店街の古い雑居ビルの2階にあった。通信局といっても、記者が1人もいなくなって久しい部屋を、柏木が臨時に借りているだけだ。机がひとつ、パイプ椅子が2脚、壁にホワイトボード。窓の外には、向かいの肉屋の古びた看板が見える。
8月20日、木曜日の朝。柏木はホワイトボードに、マーカーで書き込んでいた。
火曜日。15時15分? 船山一花。
疑問符を書いたのは、自分で見たわけではないからだ。手帳に書いてあった、というだけだ。自分の字で。
スマートフォンが鳴った。登録していない番号だった。
「はい、柏木」
「……図書館の船山です」
柏木は、思わず椅子から立ち上がった。
*
喫茶「霧笛」は、商店街の外れにある古い店だった。焦げ茶色の木の壁、ステンドグラスのランプ、カウンターの奥で黙々とネルドリップを淹れる白髪のマスター。昼の客はまばらで、奥のボックス席は窓から遠く、外からは見えない。
一花はコーヒーに手をつけないまま、まっすぐ柏木を見た。
「最初に言っておきます。私は、火曜日を覚えています」
柏木は黙っていた。
「この町でたぶん、私だけ。7年前からずっと」
「証明できますか」
「火曜日の午後3時15分、あなたは交差点の向こう側でカメラを構えていた。町の人が全員、北の山に頭を下げて、あなたと私だけが動いていた。あなたは声を出さずに、唇の形だけで『なに、これ』と言った」
柏木は、ジャケットの内ポケットから手帳を取り出し、自分のメモを見た。一字一句、合っていた。動いていたのは俺と、図書館の船山一花だけ。
「……水曜日に、あなたは会ってないと言った」
「信用できる人か分からなかったから」
「今は?」
「分かりません。でも、私ひとりじゃもう無理」
一花はハンドバッグから紙片を取り出し、テーブルの上に置いた。
柏木は文字を読み、顔を上げた。
「これは」
「火曜日の夜に会った男の子が、水曜日に開けてって。その子は、水曜日の朝には町の名簿から消されてた。住民票も、学校の登録も。お母さんまで、知らないって言うんです。でも、あの子が昨日ここにいたことは、私は覚えてる」
「……で、この字は」
「私の字です」
柏木は眉をひそめた。
「書いた覚えはありません」
柏木はしばらく黙っていた。それから鞄を開け、1通の封筒を取り出した。白い定形封筒。差出人の名前はない。消印は朝霧郵便局。
「俺がこの町に来た理由です。3週間前、編集部に届いた」
中から出てきたのは、タイプ打ちの便箋が1枚。
朝霧市の火曜日を調べてください。あなたは1度、ここに来ています。
「俺は朝霧市に来たことなんかない。少なくとも、そう思ってた。でも、図書館のトイレの場所を知ってた。この喫茶店も、入る前から、2階の窓際の席が空いてるかどうかが気になった。2階なんて、ないのにな、この店」
柏木は天井を見上げて笑った。乾いた笑いだった。
「この町の火曜日に、俺も何かを置き忘れてるのかもしれない」
一花は紙片を折りたたみ、バッグに戻した。
「来週の火曜日、一緒に確かめてくれますか」
「そのつもりで来た」
「水曜日になれば、あなたはまた忘れる」
「だったら、忘れない方法を考える」
柏木はそう言って、冷めたコーヒーを一息に飲み干した。
*
8月21日、金曜日の午前。朝霧市役所の記者会見室には、地元紙と地方局の記者が数人、退屈そうに座っていた。
市長の近藤征史は、55歳。銀髪を後ろに撫でつけ、仕立てのいい紺のスーツを着ている。声は穏やかで、よく通る。その右手にだけ、薄い革の手袋がはめられていた。夏でも外さないことで知られている。
「いわゆる『火曜性一過性健忘』につきましては、県立大学との共同調査により、地磁気の周期変動に伴う、無害な地域特性であると結論づけております。健康被害の報告はございません。市民の皆様には、従来どおり、火曜日の予定は控えていただくようお願いしております」
柏木が手を挙げた。
「北陵新聞の柏木です。毎週水曜日に、原因不明の外傷で受診する市民が一定数いるという話がありますが」
「初めて伺いました。病院からの報告は受けておりません」
「15時15分に、市民全員が1分間静止する現象については」
会見室が、一瞬静まり返った。地元の記者たちが怪訝な顔で互いを見合わせる。
「何の話?」と誰かが小声で言った。
近藤は、にこやかなままだった。
「面白いお話ですね。ぜひ、ご自身で確かめてみてください。……もっとも、火曜日の出来事を確かめるのは、なかなか難しいでしょうが」
*
会見のあと、廊下を歩く柏木の横に、近藤が並んだ。秘書は少し離れてついてくる。
「柏木さん。取材は自由です。ただ、この町の人たちは、ようやく穏やかに暮らせるようになったんです」
「ようやく、というと?」
近藤の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
「……言葉のあやです。どうか、町の平穏を乱さないでいただきたい」
近藤は手袋の右手で、柏木の肩を軽く叩いた。革越しの手のひらは、妙に硬かった。指が曲がりきらないような、ぎこちない触れ方だった。
近藤が去っていく背中を、柏木はしばらく見送っていた。
*
金曜日の夕方、図書館のカウンターに、篠崎がそわそわと寄りかかってきた。
「一花さん、ちょっと変な相談していいっすか」
「変な相談なら、今週はもう慣れた」
篠崎はスマートフォンを取り出し、レジの記録画面を撮った写真を見せた。
「店のPOSって、レジを打った店員の番号が残るんすよ。で、毎週火曜日だけ、0715番っていう店員がログインしてる。名前は『遠山』」
「……遠山さん」
「店長に聞いても、そんな人は雇ってないって。でも給与振込の記録はある。それに、俺のロッカーの隣のロッカーに、知らない女物のカーディガンが入ってるんすよ。火曜日のたびに、場所が変わってる」
一花は、菊の束をほどいていた女の横顔を思い出した。
「篠崎くん。その人、40代くらいで、髪を後ろでひとつに結んでて、左手の薬指に指輪の跡がある?」
篠崎は、ぽかんと口を開けた。
「……何で知ってるんすか」
「何でだと思う?」
「え、まさか一花さん、火曜日のこと――」
一花は、人差し指を唇に当てた。
「火曜日に、確かめよう」
篠崎はしばらく一花の顔を見ていたが、やがて、子どものようにこくりとうなずいた。
*
土曜日の午後、一花と柏木は国道沿いのリサイクルショップにいた。埃をかぶった家電と、誰かの思い出だったはずの雑貨が、天井まで積み上がっている。
柏木は棚の奥から、古いインスタントカメラを見つけ出した。フィルムパックが3つ、未開封のまま箱に入っている。
「デジタルの写真は消される。誰が端末に入れるのか、まだ分からない。なら、まず紙に焼きつける」
「町の人の日記も書き換えられてる。誰かが回収したり、差し替えたりしているなら、紙だって安全じゃない」
「じゃあ、町の外に送る」
柏木はレジの横からレターパックの束をつかみ、カウンターに置いた。
「火曜日の俺が見たものを、全部、町の外に郵送する。消印と配達記録を残せば、後から手を入れた者の痕跡まで追える。町の外のポストに届いた紙までは、簡単に差し替えられないだろう」
「どうして、そこまで」
柏木は少し考えた。
「俺は記者だ。それに……水曜日の俺は、火曜日の俺に借りがある気がする」
一花は、その言葉の意味をしばらく考えた。この町の人間は、誰もが同じ借りを抱えているのかもしれなかった。
*
8月24日、月曜日の午後11時。
一花は、地下への扉の前にしゃがみ込んでいた。手にはヘアピン。動画サイトで見た方法を真似て、真鍮の南京錠の鍵穴に差し込む。手が汗で滑る。
背後で、床板が軋んだ。
「そこには入るなと言ったはずだ」
振り返ると、父が廊下の暗がりに立っていた。寝間着の上にカーディガンを羽織り、眼鏡はかけていない。
一花は立ち上がった。ヘアピンを隠そうとはしなかった。
「お父さん。昔、北の山の研究所に勤めてたよね」
「……ああ」
「何の研究をしてたの」
「人間の、記憶だ」
「火曜日の記憶が消えるのと、関係あるの」
父は答えなかった。長い沈黙が、廊下の闇の中に沈んでいった。
「一花。お前が火曜日を覚えていることは、誰にも言うなと言ってきたな」
「うん。7年前から、ずっと」
「理由は分からない、とも言った」
「うん」
「その答えは、今も変わらない」
父は背を向けた。
「……お父さん。私、7年前の10月に、図書館で本を借りた?」
父の足が、ほんの一瞬だけ止まった。
「覚えていないな。おやすみ」
父の足音が遠ざかっていく。一花は南京錠を見下ろした。鍵穴の奥で、ヘアピンの先が小さく光っていた。
*
8月25日、火曜日。
最後の火曜日まで、あと7回。
一花は商店街の入口で柏木と待ち合わせた。柏木は首からインスタントカメラを提げ、背中のリュックはレターパックで膨らんでいた。
「おはよう。……で、いいのか? 初めましてか?」
「先週の火曜日に、交差点で会ってます」
「俺は覚えてない」
「知ってます」
柏木は苦笑した。
「火曜日の俺は、今日のことを水曜日の俺に伝えられるかな」
「伝えて。でないと、私はまた、1人になる」
口に出してから、一花は自分の言葉に驚いた。1人になる。7年間ずっと1人だったのに、まるで今は1人ではないかのような言い方だった。
柏木は何も言わず、カメラの裏蓋を確かめた。
*
午前8時30分、ヤマトマートのレジには篠崎が立っていた。その隣に、遠山。
一花はまっすぐ、遠山の前に立った。
篠崎は、震える声で言った。
「あんた……誰っすか」
遠山は手を止めずに、静かに答えた。
「火曜日のシフトの遠山です。毎週会ってるじゃない、篠崎くん」
「会ってねえよ! 俺は、あんたのことなんか――」
「覚えてないだけ」
遠山は、一花をまっすぐに見た。眼鏡の奥の目が、何かを測るように細められる。
「あなたは覚えているわね、一花さん」
「……私のことを、知ってるんですか」
「ここでは話せない」
自動ドアが開き、作業着の男が入ってきた。遠山は何事もなかったように「いらっしゃいませ」と言った。完璧な店員の声だった。
店の外から、柏木がガラス越しに遠山の横顔を狙い、シャッターを切った。ジーッという音とともに、インスタント写真がゆっくりと吐き出される。黒い四角の中に、少しずつ、女の顔が浮かび上がってきた。
*
午後3時15分。
町が止まった。
人々が北の山に向き直り、頭を垂れる。信号が変わる。誰も動かない。
柏木は震える手でシャッターを切った。1枚、2枚、3枚。写真が吐き出されるたびに、静寂の中でカメラの駆動音がやけに大きく響いた。
「……何に、頭を下げてるんだ」
「分からない。7年間、毎週見てきたのに」
一花は、止まった人々の顔を見た。目を閉じた顔。唇を噛んだ顔。涙が頬を伝っている顔。それは、祈りの顔だった。
何に対する祈りなのかを、町の誰も、水曜日には知らない。
*
午後4時。霧ヶ丘団地の敷地に、女が髪を振り乱して走り込んできた。
「忠信! 忠信!」
水原菜々だった。先週、ドアの向こうで「子どもはいません」と言った、あの穏やかな顔の女。今は、まるで別人だった。サンダルが片方脱げているのにも気づかず、ベンチの下を覗き込み、植え込みをかき分け、団地の階段を見上げる。
菜々は一花に気づき、駆け寄ってきて両腕をつかんだ。
「一花ちゃん! 忠信を見なかった?」
「……水原さん。私のこと、分かるんですか」
「何言ってるの。分かるに決まってるじゃない。あの子を、あなたが――」
菜々は、はっとして口を押さえた。
「……ごめんなさい。今のは、忘れて。お願い」
「水原さん、先週の水曜日、私はお宅に伺いました。あなたは、子どもはいないと言った」
菜々の顔から、血の気が引いた。
「……そう。言ったのね、私」
菜々は、泣き笑いのような顔になった。
「水曜日の私を、責めないであげて。あの人は、何も知らないの。何も知らないから、ちゃんと眠れるの」
菜々は一花の腕を放し、ふらふらと走り去っていった。
「忠信……!」
その声が、団地の壁に反響して、何度も繰り返された。
*
夕暮れの北の山。旧研究所のフェンス沿いの道は、雑木林に覆われて薄暗かった。有刺鉄線のフェンスに、錆びた看板が掛かっている。朝霧脳機能研究所 関係者以外立入禁止。
フェンスの破れ目の前に、菜々と忠信がいた。
菜々は忠信を抱きしめ、泣きじゃくっていた。
「ごめんね、ごめんね……また忘れて、ごめんね」
「いいよ。火曜日に思い出してくれるから、いいよ」
忠信は、母の背中をぽんぽんと叩いていた。まるで、自分のほうが大人であるかのように。
少し離れた木陰で、一花と柏木は立ち尽くしていた。柏木はカメラを持ち上げかけ、そして下ろした。撮れなかった。
忠信が一花に気づいた。母の腕からそっと離れ、駆け寄ってくる。
「覚えててくれたんだ」
「覚えてる。……あの紙、読んだよ」
「うん」
「あれは、私が書いたの?」
「そうだよ」
「私はあなたを殺したりしない。絶対に」
「知ってる」
忠信は、まっすぐに一花を見上げた。
「あれは、僕のことじゃないよ」
「じゃあ、誰のこと」
「7年前の一花さんが、僕に言ったんだ。『いつか私が全部忘れたら、これを私に返して』って。だから、返しただけ」
「7年前……私、あなたに会ってない」
「会ってるよ。毎週、火曜日に」
一花は言葉を失った。足元の地面が、柔らかく沈んでいくような気がした。
暗がりから、懐中電灯の光が差した。先週、土手の上にいた大柄な男と、警備員が2人。
「忠信。時間だ」
男は、岩倉と呼ばれていた。忠信がびくりと振り返る。
岩倉は一花に目を留めた。その顔に、明らかな動揺が走った。
「……一花、さん」
「私を知ってるんですか」
岩倉は答えなかった。警備員に顎で合図をする。
忠信はフェンスの破れ目に飛び込み、研究所の敷地へ逃げ込んだ。警備員が後を追う。
柏木は反射的にフラッシュを焚き、シャッターを切った。白い閃光が、夕闇の林を一瞬だけ真昼にした。
「撮るな!」
岩倉が柏木のカメラに手を伸ばした。柏木は吐き出された写真を胸ポケットにねじ込み、一花の手を引いて走り出した。
*
午後11時30分。山道を、2人は息を切らせて駆け下りていた。
柏木は走りながらポケットの写真の束をレターパックに押し込み、街灯の下で立ち止まって、表に殴り書きをした。
水曜日の俺へ。この写真を絶対に捨てるな。船山一花を信じろ。
「麓のポストまで、あと何分だ」
「10分。0時に間に合う」
*
午後11時52分。麓の郵便ポストに、柏木はレターパックを押し込んだ。投函口の奥で、紙の束が落ちる鈍い音がした。
2人はポストに背を預け、そのまま地面に座り込んだ。アスファルトは、まだ昼の熱をかすかに残していた。
「……あと8分で、俺は今日を忘れる」
「うん」
「怖いもんだな。自分が消えるのを、待ってるのは」
「みんな、毎週それを待ってる。この町の人は、たぶん全員」
柏木は一花を見た。
「あんたは、ずっと1人でそれを見てきたのか。7年間」
一花は答えなかった。答えたら、何かが崩れてしまいそうだった。
防災無線から、「朝霧の歌」のチャイムが流れ始めた。
柏木のまぶたが、ゆっくりと落ちていく。抗おうとするように1度目を見開き、それから、ふっと力が抜けた。一花の肩に、柏木の頭が預けられた。
重かった。人の頭は、こんなに重いものだったかと思った。
一花は、柏木の寝顔を見つめた。無精髭の生えた頬。眉間に寄ったままの皺。
「……おやすみなさい。水曜日の柏木さん」
*
8月29日、土曜日の朝。
柏木は通信局の机で、自宅から転送されてきたレターパックを開けた。表に自分の字。この写真を絶対に捨てるな。船山一花を信じろ。
書いた覚えはない。けれど、自分の字だった。
写真を1枚ずつ、机の上に並べた。交差点で頭を垂れる人々。目を閉じた老人。泣いている女子高生。コンビニの遠山の横顔。
最後の1枚。フラッシュで白く飛んだ、夜のフェンスの前。怒鳴る岩倉の顔。逃げる少年の後ろ姿。
柏木は、写真の隅に目を凝らした。そして、スマートフォンで撮影し、一花に送信した。
*
同じ朝、一花は台所で父と向かい合って朝食をとっていた。
スマートフォンが震えた。柏木から、写真の画像が1枚。
一花は指で拡大した。
フラッシュの光が届くぎりぎりの端。岩倉の背後の暗がり。木の幹の陰に、コートを着た初老の男が立っていた。じっと、こちらを見ている。
父だった。
一花は、ゆっくりと顔を上げた。
目の前で、父が味噌汁をすすっていた。いつもと同じ、静かな朝の顔で。
玄関のコート掛けに、父のコートが掛かっていた。その裾に、乾いた赤土がこびりつき、落ち葉が1枚、引っかかっていた。北の山の土の色だった。
「どうした」
「……ううん」
「火曜日は、何してた」
「寝てた」
「そうか」
一花は箸を持つ手に力を込めた。震えないように。
父は、火曜日を覚えている。
この家で火曜日を覚えているのは、自分だけではなかった。7年間、毎週の「昨日は何してた」「寝てた」「そうか」。あのやりとりの向こう側で、父はずっと、知っていたのだ。
*
同じ町の別の部屋で、水曜日の朝、水原菜々は、いつも少しだけ泣いたあとのような顔で目を覚ます。
目が腫れているわけではない。頬に涙の跡があるわけでもない。ただ、まぶたの裏に、何か温かいものの名残のようなものが残っている。夢を見ていたのかもしれない、と菜々は思う。どんな夢だったのかは、思い出せない。
菜々は39歳で、市の外郭団体で経理の仕事をしている。独身で、子どもはいない。霧ヶ丘団地の4号棟の3階に、1人で暮らしている。少なくとも、水曜日の菜々は、そう信じている。
朝食は、トーストとコーヒー。テレビの天気予報を見ながら、手早く済ませる。
食器を洗い終えて、廊下に出る。廊下の奥のドアに、手書きの紙が貼られている。物置。
自分の字だ。いつ貼ったのか、覚えていない。中に何が入っているのかも、知らない。開けようと思ったことは、何度かある。けれど、ドアノブに手を伸ばすたびに、なぜか胸がざわつく。指先が冷たくなる。開けてはいけない、と、体のどこかが言う。
だから、菜々はそのドアを開けない。物置なのだから、どうせ古い段ボールが積まれているだけだろう。そう思うことにしている。
ドアの柱に、鉛筆の線がいくつも引かれているのも、知っている。前の住人の子どもの、身長の記録だろう。不動産屋が消し忘れたのだ。いつか消そうと思いながら、消しゴムを持ってドアの前に立つと、やはり胸がざわついて、手が止まる。
ベランダの物干し竿に、24センチの小さなスニーカーが干してある。
これも、前の住人のものだろう。菜々は、そう思っている。けれど、不思議なことに、そのスニーカーはいつも乾いている。雨の日のあとでも。そして、ときどき、位置が変わっている。
菜々は、それについて深く考えない。この町の人間は、深く考えないことに慣れている。火曜日だから。それで、たいていのことは片付く。
*
水曜日の昼休み、菜々は職場の屋上で弁当を食べる。
弁当は、いつも、前の晩に自分で作ったものだ。正確には、火曜日の夜に作ったもの。火曜日の夜のことは覚えていないが、冷蔵庫を開けると、いつも弁当箱が入っている。中身は、ハンバーグであることが多い。小さく切ったハンバーグが、2つか3つ。
菜々は、ハンバーグがそれほど好きではない。なのに、火曜日の自分は、なぜかいつもハンバーグを作る。それも、多めに。冷蔵庫には、ラップをかけたハンバーグの残りが、いつも2人分ほど入っている。
誰のために、こんなに作るのだろう。
菜々は、屋上のフェンス越しに、北の山を見る。中腹に、白い建物が見える。あの建物を見ると、菜々はなぜか、胸の奥がしくりと痛む。理由は分からない。
同僚が、隣に座る。
「水原さん、また北の山見てる」
「え?」
「いつも見てるよ。水曜日の昼は、いつも」
菜々は、笑ってごまかす。
「いい天気だから」
同僚は、それ以上何も訊かない。この町では、誰も、それ以上何も訊かない。
*
水曜日の夜、菜々は1人で夕食をとる。
食卓の椅子は、4脚ある。1人暮らしなのに、なぜ4脚もあるのか、菜々は時々不思議に思う。安売りのセットだったのだろうか。
食卓の、自分の向かいの席。その席にだけ、いつも、箸と茶碗が置かれている。菜々が置いた覚えはない。片付けても、翌週の水曜日には、また置かれている。
菜々は、それを片付けない。
片付けようとすると、手が止まるのだ。なぜか、そこに誰かが座っていたような気がして。眼鏡をかけた、優しい誰かが。
菜々は、その茶碗に、少しだけご飯をよそう。自分でも、なぜそうするのか分からない。けれど、そうすると、少しだけ、胸のざわつきが収まる。
*
寝る前に、菜々は、ベランダに出る。
夜風が冷たい。眼下に、団地の中庭が見える。街灯の下のベンチ。植え込み。子どもの遊具。
菜々は、24センチのスニーカーを、指先でそっと触る。
冷たい、ゴムの感触。
どうして、こんなものに触りたくなるのだろう。
菜々は、スニーカーを干したまま、部屋に戻る。布団に入り、目を閉じる。
眠りに落ちる直前、いつも、誰かの名前を呼びそうになる。口の中で、ひとつの音が、形になりかける。た、という音。
けれど、その音が言葉になる前に、菜々は眠りに落ちる。
そして、また、水曜日の朝が来る。
少しだけ泣いたあとのような顔で。
*
菜々は知らない。
火曜日の自分が、毎週、このスニーカーを洗って干していることを。物置のドアの向こうで、少年の布団を干し、枕カバーを替え、机の上の鉛筆を削っていることを。火曜日の夜の0時の5分前、少年の部屋のベッドの端に座り、眠っている少年の髪を撫でながら、ごめんね、とささやき続けていることを。
そして、0時のチャイムが鳴る直前に、ドアに「物置」の紙を貼り直し、震える手で、水曜日の自分のための弁当を冷蔵庫に入れていることを。
ハンバーグは、少年の好物だった。
多めに作るのは、水曜日の自分が、少しでも、少年と同じものを食べられるように。何も知らない水曜日の自分と、研究所の一室で1人で水曜日を迎える少年とが、せめて同じ日に、同じものを口にできるように。
それが、火曜日の菜々にできる、たったひとつのことだった。
最後の火曜日まで、あと7回。




