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火曜日は存在しない  作者: ぽむぽむ


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第1章 水曜日の朝、誰も覚えていない

 目覚まし時計が鳴る前に、船山一花は目を開けていた。

 カーテンの隙間から差し込む光はまだ青く、天井の木目が、水の底に沈んだ古い地図のように見える。枕元の時計は午前6時58分を指していた。あと2分で鳴る。毎週この日だけは、いつも鳴る前に目が覚める。体のどこかが、この日を待ち構えているかのように。

 2026年8月18日、火曜日。

 一花は枕元の手帳を引き寄せ、ページを開いた。月曜日の欄には、几帳面な小さな文字がびっしりと並んでいる。返却督促の電話3件、郷土資料の補修、児童書の除籍リストの確認、夕食は鯖の味噌煮。水曜日も、木曜日も、金曜日も同じように埋まっている。

 火曜日の欄だけが、白い。

 先週も、その前の週も。手帳を何年分遡っても、火曜日の欄は几帳面に空白のまま並んでいる。まるで白い石を等間隔に置いて作った、細い小道のように。

 一花はペンを取り、今日の火曜日の欄に、小さく「晴れ」とだけ書いた。

 それ以上は書かない。書いても意味がないからではない。書いたものがどうなるかを、知っているからだ。

 この町には、火曜日がない。

 正確に言えば、火曜日を覚えている人間が、一花しかいない。

 窓の外に目をやると、北の山の中腹に、白い四角い建物が朝霧に霞んで見えた。誰も名前を口にしない建物。地図の上では「旧研究所跡地」とだけ記されている。一花は毎朝それを見るが、見ているという自覚はない。目に入る、という程度のことだ。歯ブラシや、鏡の曇りや、廊下の時計と同じように。

 階下から、味噌汁の匂いが上がってきた。


*


 台所では、父の修一がお玉を手に鍋の前に立っていた。62歳。背中は若い頃よりわずかに丸くなったが、白髪をきちんと撫でつけ、ワイシャツの袖を2回折り返す習慣は、一花が物心ついた頃から変わらない。

 お玉を持つ手が、かすかに震えていた。

 味噌汁が椀の縁から少しだけこぼれ、父は布巾でそれを拭った。一花は気づかないふりをした。気づかないふりをすることが、この家では一種の礼儀になっていた。

「今日は火曜か」

 父は鍋に目を落としたまま言った。

「うん」

「……なら、早く帰ってきなさい。夜は出歩くな」

「毎週同じこと言う」

「毎週同じことを言うのが、大事なんだ」

 父は椀を2つ食卓に並べ、向かいに座った。湯気の向こうで、父の眼鏡が白く曇る。

 一花は箸を取りながら、廊下の突き当たりに目をやった。地下へ続く古い木の扉。真鍮の南京錠が掛かっている。先週までは黒い鉄の錠だった。

「お父さん、地下の鍵、また変えた?」

「湿気で錆びたからな」

「何が入ってるの、あそこ」

「古い論文だ。お前が読んでも面白くない」

 父は壁の時計に目をやった。秒針の音だけが、台所に響いていた。カチ、カチ、と、何かを数えるように。

 一花はそれ以上訊かなかった。訊いても同じ答えが返ってくることを知っていた。父の答えは、いつも丁寧に磨かれた石のように、どこにも引っかかるところがない。


*


 朝霧市は、北陵地方の盆地にある人口およそ3万人の町だ。三方を山に囲まれ、秋から春にかけては、ほとんど毎朝のように霧が降りる。市の名前はその霧に由来するのだと、小学校の社会科で教わった。霧の町。忘れられた町。最近では、ネットの片隅でそう呼ばれることもある。

 霧ヶ丘商店街は、まだシャッターの列だった。どの店のシャッターにも、同じ文句の貼り紙がしてある。

 火曜定休。

 数年前から、この町では火曜日に店を開ける人がいなくなった。予定を入れる人も。結婚式も、入学試験も、病院の手術も、火曜日だけは避けられる。市役所の窓口は開いているが、職員は最小限で、重要な手続きは受け付けない。誰もそれを不便だとは言わない。翌日になれば何も覚えていないのだから、火曜日に大事なことをしても仕方がない。それが、この町の常識になっていた。

「火曜性一過性健忘」。市はこの現象をそう名づけ、県立大学との共同調査の結果、地磁気の周期変動に伴う無害な地域特性であると発表した。健康被害はない。命にも別状はない。ただ、毎週、1日分の記憶がなくなるだけだ。

 人間は、驚くほど早く慣れる。一花はこの町でそれを学んだ。

 シャッターの列の中に、一軒だけ灯りのついた店がある。

 ベーカリー朝霧。

 扉を押すと、鈴が鳴った。焼きたてのパンの匂いが、霧で冷えた頬を包む。

「はい、いつもの」

 店主の柴田トシ子は、一花の顔を見るなり紙袋を押しつけてきた。70歳。小柄で、白い三角巾から灰色の巻き毛がのぞいている。

「まだ何も頼んでないです」

「いいの。火曜日はね、一花ちゃんからお代はもらわないことにしてるの」

「それ、いつ決めたんですか」

 トシ子は答えようとして、口を開けたまま言葉に詰まった。自分でも分からない、という顔だった。粉のついた指先が、エプロンの裾をつまむ。

「……さあ。いつだったかしらねえ」

 入口の脇に、小さな木の台がある。その上の白い皿に、丸パンが6つ並べて置いてあった。何も入っていない、ただの白い丸パン。値札はない。

 毎週、同じ場所に、同じ数だけ置かれている。

「あのパン、毎週置いてありますよね」

「あれは売り物じゃないの」

「誰のですか」

「誰のって……」

 トシ子は困ったように笑い、皿のほうに目をやった。その目が一瞬、遠いところを見た。

「火曜日だからよ」

 この町の人たちは、火曜日になると少しだけ優しくなる。一花はそれを7年間見てきた。理由は誰も知らない。翌朝には、優しくしたことさえ忘れてしまうのだから。


*


 霧ヶ丘団地の前のコンビニ、ヤマトマートに寄ると、レジには篠崎拓海が立っていた。28歳。茶色く染めた髪の根元が黒く伸びている。眠そうにあくびをかみ殺しながら、一花に気づいて片手を上げた。

 その隣に、もう1人、40代の女性店員がいた。髪を後ろでひとつに結び、名札には「遠山」とある。

 搬入口から、白い菊の花束が段ボールで何箱も運び込まれていた。蝋燭の棚には「補充中」の札が下がっている。

「あ、図書館の人。火曜なのに出勤っすか」

「図書館は火曜も開館日だから。篠崎くんこそ」

「俺、火曜もシフト入ってるらしいんすよ。覚えてないけど。水曜に給料明細見ると、ちゃんと火曜の分がついてるんで」

 篠崎は他人事のように笑った。この町の若者は、みんなこういう笑い方をする。

「……菊、すごい量だね」

「なんか毎週火曜だけ入るんすよ。誰が買ってくのか知らないけど、水曜には全部売れてる」

 遠山と名札をつけた女は、黙々と菊の束のビニールをほどいていた。一花と目が合った。ほんの一瞬。女はすぐに目を逸らし、作業に戻った。その横顔に、何かを堪えているような硬さがあった。

 一花はペットボトルの水を1本買って店を出た。自動ドアが閉まる直前、背中に視線を感じた。振り返らなかった。


*


 朝霧市立図書館は、明治の終わりに建てられた煉瓦造りの2階建てだ。何度か改修され、空調も自動ドアもついているが、建物の骨格は古いまま残っている。階段の手すりは無数の手に磨かれて飴色に光り、書庫の奥には、紙と埃と時間の混ざった、独特の甘い匂いがこもっている。

 一花はここで働いて7年になる。司書の資格を取ったのは東京の大学だった、ということになっている。

 児童コーナーの絨毯の上に、一花は小さな木の椅子を6脚、半円に並べた。椅子の背は低く、座面には子どもたちの足が何千回も擦った跡がある。並べる位置は決まっている。窓から2歩、書架から3歩。半円の中心に、自分のための少し大きな椅子を置く。

 立て看板を出す。

 火曜日のおはなし会 午前10時30分から。

 時計が10時30分を指した。

 誰も来ない。

 一花は半円の中心の椅子に座り、絵本を開いた。表紙には、霧の中に立つ古い柱時計の絵。『わすれんぼうのとけい』。もう何年も前に絶版になった本で、この図書館にしか残っていない。

「……むかしむかし、霧の深い町に、わすれんぼうの時計がありました」

 声は、空っぽの児童コーナーに吸い込まれていった。

「時計は、毎週1回だけ、針をひとつ飛ばしてしまうのです」

 6脚の空の椅子に向かって、一花は丁寧に読み続けた。ページをめくるときは、絵がみんなに見えるように本をゆっくり左右に向ける。時計の台詞のところでは声を低く、町の子どもの台詞のところでは声を高くする。見えない誰かが身を乗り出しているかのように。

 誰も来ないおはなし会を、一花は7年間続けている。

 どうして椅子が6脚なのか。どうしていつもこの本なのか。自分でも分からない。図書館に勤め始めた最初の火曜日、気がつけば一花は椅子を6脚並べ、この本を書架から抜き出していた。翌週もそうした。その翌週も。やめようと思ったことは何度もある。けれど火曜日の朝になると、手が勝手に椅子を運ぶのだ。

 最後のページを読み終え、一花は本を閉じた。

 椅子の座面に、窓からの光が四角く落ちていた。


*


 午前11時、自動ドアが開いて、くたびれた紺のジャケットの男が入ってきた。肩から一眼レフを提げ、髪は寝癖のまま、無精髭が顎にうっすら影を作っている。

「すみません。北陵新聞の柏木といいます」

 男は名刺を差し出した。北陵新聞 報道部 記者 柏木隼人。

「この町の、いわゆる『火曜日の記憶障害』について調べてまして。過去の地元紙、閲覧できますか」

「……縮刷版は2階です」

 柏木は礼を言い、迷いのない足取りで右手の通路へ曲がりかけ――止まった。

「あれ。……トイレって、こっちですよね」

「そうですけど。来たこと、あるんですか」

「いや。初めてのはずなんですけど」

 柏木は自分でも首を傾げ、苦笑した。人懐こい笑い方だった。一花は来館者名簿を差し出した。柏木がボールペンで名前を書き込む。少し右に傾いた、癖のある字。

 開け放した窓から風が吹き込み、名簿のページが数枚、ぱらぱらとめくれ戻った。

 一花の目の端を、2019年11月の欄がかすめた。そこに、今とまったく同じ傾きの筆跡で、柏木隼人、と書かれていた気がした。

 風が止み、ページは元に戻った。一花は瞬きをした。気のせいだろう。そう思うことに、この町の人間は慣れている。

「ところで」と柏木は言った。「この町の人は、火曜日のことを本当に何も覚えてないんですか」

「ええ。みんな」

「あなたも?」

 一花は、ほんの一瞬だけ間を置いた。

「……ええ。私も」

 柏木は、その一瞬の間を見逃さなかった。記者の目だった。しかし何も言わず、軽く頭を下げて階段を上がっていった。


*


 昼は、市立病院の中庭で、幼なじみの榊真理恵と弁当を広げるのが火曜日の習慣だった。水曜日の真理恵はその習慣を知らない。それでも、火曜日の昼になると、真理恵はちゃんと中庭のベンチに座って待っている。

「ねえ一花、変なこと言っていい?」

 真理恵は卵焼きを箸でつまみながら言った。32歳。ナース服の上にカーディガンを羽織り、ショートカットの髪を耳にかけている。

「真理恵は昔から変なことしか言わないでしょ」

「毎週水曜の朝にね、説明のつかない怪我の患者が来るの。手のひらの火傷とか、膝の擦り傷とか、拳の骨折とか。本人に聞いても『火曜日だから覚えてない』って笑うだけ」

 一花は黙って箸を動かした。

「先週はね、70歳のおばあちゃんが、両手に蝋が固まったまま来たの。何十本も蝋燭を握りしめてたみたいに」

 一花の箸が止まった。

「町の人はみんな『火曜日だから』で済ませる。私も済ませてる。でもさ、看護師が原因の分からない傷をカルテに書くとき、なんて書くと思う?」

「なんて書くの」

「『受傷機転:火曜日』」

 真理恵は声を立てて笑った。一花は笑えなかった。

「一花はいいよね。火曜も図書館で寝てるだけでしょ」

「……うん。寝てるだけ」

 嘘だ。一花は全部、覚えている。

 蝋燭を握りしめた老婆が、どこで、誰のために火を灯していたのかは知らない。けれど、その老婆が火曜日の夕方、泣きながら北の山のほうへ歩いていく後ろ姿を、一花は何度も見たことがある。


*


 昼を過ぎると、町の空気が変わり始める。

 空が少しずつ白く濁っていく。本物の霧ではない。気象台の記録には何も残らない種類の、薄い膜のようなものだ。

 すれ違う人々の表情が、目に見えて変わっていく。商店街の角で立ち止まり、北の山を見上げる老人。買い物袋を提げたまま、急にぽろぽろと涙をこぼす主婦。それを見ても誰も驚かず、通りかかった見知らぬ人が、そっと彼女の背中をさする。

 昼を過ぎると、この町には霧が降りてくる。人の顔に降りてくる霧だ。

 一花はそれを7年間、見てきた。見て、見なかったことにしてきた。


*


 午後3時14分。

 朝霧市の中央交差点は、人と車が行き交っていた。一花は横断歩道の手前で腕時計を見た。秒針が12に近づいていく。

 3時15分。

 その瞬間、町が止まった。

 歩行者が立ち止まる。車が停まる。自転車の高校生が地面に足をつく。誰の合図もない。防災無線も鳴らない。まるで、目に見えない巨大な手が、町全体の時計の振り子を指1本で押さえたかのように。

 全員が同じ方角を向いていた。北の山の中腹、霧に霞む白い建物の方を。そして目を閉じ、深く頭を垂れた。

 信号が青に変わった。誰も動かない。カッコウの電子音だけが、静まり返った交差点に虚しく響く。

 その中を、一花だけが歩いていく。慣れた足取りで。目は伏せたまま。止まった人々の間を縫い、肩に触れないよう、息を殺して。7年間、毎週そうしてきたように。

 交差点の向こう側に、もう1人、動いている人間がいた。

 柏木だった。カメラを構えたまま、凍りついた町を呆然と見回している。

 2人の目が合った。

 柏木は声を出さず、唇だけを動かした。

 なに、これ。

 1分後。人々は何事もなかったように顔を上げ、また歩き出した。車のエンジン音が戻り、自転車の高校生がペダルを踏み込む。誰も、今の1分間について口にしない。

 柏木が人波をかき分けて、一花に駆け寄ってきた。

「今の、何ですか。全員が、きっかり1分間止まった」

「……火曜日ですから」

「火曜日だから、何なんです」

「明日になれば、あなたも忘れます」

 一花は踵を返した。背中に柏木の視線が刺さっていたが、振り返らなかった。

 柏木は路上で手帳を取り出し、猛然とペンを走らせた。

 15時15分。町が止まった。全員が北の山に向かって頭を下げた。動いていたのは俺と、図書館の船山一花だけ。――水曜日の俺へ。彼女は、何かを知っている。


*


 夜9時、図書館を閉めて帰る途中、一花はヤマトマートの前を通った。

 ガラス越しに、店内が見えた。

 レジの篠崎が、泣いていた。声も出さずに、拳を握りしめ、肩を震わせて。朝のあの眠たげな笑顔はどこにもなかった。まるで別の人間の顔だった。

 遠山が、その肩にそっと手を置いていた。

 白い菊のバケツは、すべて空になっていた。

 一花は立ち止まり、それから、見なかったふりをして歩き出した。

 火曜日の夜、この町の人たちは泣く。でも明日の朝、自分が泣いたことを知らない。


*


 朝霧川沿いの遊歩道は、街灯がまばらだった。草むらで秋の虫が鳴いている。川の水音が、暗闇の底で途切れなく続いていた。

 一花は足早に歩いた。

 背後で、砂利を踏む音がした。

 振り返る。誰もいない。

 気のせいだ、と言い聞かせて再び歩き出した瞬間、草むらから小さな影が飛び出し、一花の袖をつかんだ。

 少年だった。12歳くらい。裸足で、膝に擦り傷がある。息を切らし、汗で前髪が額に張りついていた。

「船山一花さん、だよね」

「……誰?」

「お願い」

 少年は、一花の袖を両手で握りしめた。その指が冷たかった。

「水曜日になっても、僕のことを忘れないで」

 遠くの土手の上で、懐中電灯の光が揺れた。男の太い声が響く。

「おい! どこだ!」

 少年がびくりと身を縮めた。

 一花は迷った。ほんの数秒。見知らぬ子ども。追ってくる大人。関わるべきではない理由なら、いくらでも思いついた。

 けれど、袖をつかむ指の冷たさが、それを全部押し流した。

 一花は少年の手を引いて、橋の下へ走った。


*


 コンクリートの橋脚の陰で、2人は息を殺した。頭上を、懐中電灯の光が横切っていく。

 土手の上に、大柄な男の影が見えた。警備会社の制服。無線機に、低い声で何か告げている。

「対象、見失いました。……ええ、0時までには必ず」

 足音が遠ざかった。

「あの人、誰」

「研究所の人。……悪い人じゃないよ。ただ、僕が町にいちゃいけないんだって」

「町にいちゃいけないって、どういうこと」

「話すと長いんだ。0時までしか、時間がない」


*


 一花は少年を図書館に連れていった。非常灯だけが灯る、薄暗い閲覧室。書架の影が、床に長い縞模様を描いている。

 給湯室でタオルを濡らし、少年の足を拭いてやった。足の裏は砂と小石で黒ずみ、小さな切り傷がいくつもあった。

「名前は」

「水原忠信。12歳」

「お家は」

「霧ヶ丘団地の4号棟。お母さんがいる。水原菜々」

「じゃあ、お母さんのところへ――」

「だめなんだ。お母さんは、火曜日にしか僕のことを覚えてない」

 一花の手が止まった。

「水曜日から月曜日まで、お母さんは僕を知らない。道ですれ違っても、知らない子を見る目で見る。火曜日の昼過ぎになるとね、だんだん思い出して、僕を探しに来るんだ。泣きながら」

 忠信は、天気の話でもするように淡々と言った。その淡々とした声が、かえって一花の胸を締めつけた。

「それで、夜の0時になると、また忘れる」

「どうして、そんなことが」

「それは、一花さんが自分で思い出さなきゃだめなんだ」

「私が?」

 忠信は口をつぐんだ。言いすぎた、という顔だった。

 しばらくして、少年は小さな声で言った。

「……あと8回なんだ」

「何が」

「最後の火曜日まで。あと8回で、町は火曜日ごと全部忘れる。そしたら、お母さんは火曜日になっても、もう2度と僕を思い出さない」

 一花は言葉を失った。

「一花さんだけなんだ。火曜日を覚えていられるのは。だから、僕を覚えていて。僕がいたってことを」

 一花はスマートフォンを取り出した。

「写真、撮っていい?」

「いいけど、消えるよ」

 シャッター音。画面に、少し照れた顔の少年が映った。前歯が1本だけ少し欠けている。

 一花はカウンターの端末を立ち上げ、利用者登録の画面を開いた。名前を打ち込む。水原忠信。住所、霧ヶ丘団地4号棟。プリンターが小さく唸り、新しい利用者カードを吐き出した。

「水原忠信くん。今日から、この図書館の利用者」

 忠信はカードを両手で受け取り、じっと見つめた。指先で、自分の名前の印字をなぞる。

「……ありがとう」

 それから少年はふらりと書架へ向かい、迷うことなく1冊の絵本を抜き出した。

『わすれんぼうのとけい』。

「その本、知ってるの?」

「一花さんが、よく読んでくれた」

「私が? いつ?」

 忠信ははっとして、本を閉じた。

「……ごめん。今のは、なし」


*


 午後11時58分。図書館の前の通りは静まり返っていた。家々の窓の灯りが、ひとつ、またひとつと消えていく。

 忠信がポケットから、折りたたんだ古い紙片を取り出した。黄ばんで、角が丸くすり減っている。

「これ、渡しておく。水曜日になったら開いて。それまで、絶対に開けないで」

「何なの、これ」

「一花さんのものだよ。7年間、僕が預かってた」

 町じゅうの防災無線のスピーカーから、静かなメロディーが流れ出した。「朝霧の歌」のチャイム。この町の子どもなら誰でも歌える、穏やかな童謡。毎週火曜日の深夜0時、それはこの町に流れる。

「じゃあね。……忘れないでね」

 忠信は闇の中へ駆けていった。裸足の足音が、すぐに聞こえなくなった。

 一花は通りを振り返った。

 コンビニのガラス越しに、レジに突っ伏して眠る篠崎が見えた。

 家々の窓の奥で、人々が糸の切れた人形のように崩れ落ちていく。ソファの上で、台所で、玄関先で。誰もが、そこが寝床であるかのように、静かに。

 一花だけが、立っていた。

 0時。町は眠り、火曜日は死ぬ。


*


 2026年8月19日、水曜日。

 台所では、父が新聞を読んでいた。

「昨日は何してた」

「……寝てた」

「そうか」

 毎週繰り返される、決まったやりとり。父の声の抑揚まで、毎週同じだった。

 一花はスマートフォンの写真フォルダを開いた。昨夜の写真がない。忠信の照れた顔も、欠けた前歯も。「最近削除した項目」も空だった。端末の同期履歴には、午前0時過ぎに別の機器から接続された痕跡が残っていた。記憶だけならまだしも、誰かが写真にまで手を伸ばしている。

 指先が、冷たくなった。

 図書館の端末で利用者番号を検索すると、画面には「該当する利用者は存在しません」と表示された。引き出しに控えておいた申込書の束をめくる。忠信の申込書だけが、きれいに抜き取られていた。

 削除されたのは画像だけではない。申込書を抜いた下の紙には、昨夜、一花自身が押した日付印の半分が残っていた。紙の束の切り口は新しく、指にかすかな紙粉がついた。記憶を曇らせる仕組みと、帳簿を抜き取る行為は別だ。誰かが、町を歩き回っている。

 一花は切り口を指で押さえ、次からは控えを町の外にも残そうと決めた。忘却が自然現象ならば、ここまで手間のかかる隠蔽は必要ない。

 市役所の市民課で訊いた。

「水原忠信。12歳。霧ヶ丘団地4号棟です」

「……該当する方は、いらっしゃいませんね」

「じゃあ、水原菜々さんは」

「ええ、いらっしゃいます。世帯主、お一人の世帯です」

「お子さんは」

「いえ。お一人です」

 中学校の事務室でも同じだった。そういう生徒はいない。小学校の卒業名簿にもない。


*


 霧ヶ丘団地4号棟の3階。表札には「水原」とあった。

 ドアを開けたのは、穏やかで、少し疲れた顔の女だった。39歳くらい。

「突然すみません。息子さんの忠信くんのことで」

「息子?」

 女は、心底不思議そうに首を傾げた。

「私、子どもはいませんけど」

 一花は言葉に詰まった。女の肩越しに、部屋の中が見えた。

 廊下の奥のドアに、手書きの紙が貼られている。物置。

 そのドアの柱に、鉛筆で引かれた何本もの横線があった。子どもの身長を測った跡だ。横線の脇に、小さな字で日付が添えられている。2024年5月7日、145センチ。2025年4月15日、151センチ。2026年6月2日、156センチ。

 一花は頭の中で曜日を数えた。すべて、火曜日だった。

 ベランダの物干し竿に、24センチの小さなスニーカーが干してあった。

「……あの靴は」

 菜々は振り返り、スニーカーを見た。一瞬だけ、表情が揺れた。水面に小石が落ちたように。

「前の住人のでしょうね。いつからあるのかしら」

 菜々は柔らかく微笑んで、ドアを閉めた。


*


 夕方、図書館の閲覧室で、一花はぼんやりと6脚の小さな椅子を見ていた。片付けるのを忘れていた。7年間で初めてのことだった。

 自動ドアが乱暴に開き、柏木が入ってきた。手帳を握りしめている。顔色が悪い。

「船山一花さんですよね」

「……はい」

「俺、昨日、あなたに会ってますか」

 柏木は手帳を開いて突きつけた。右に傾いた、癖のある字。水曜日の俺へ。彼女は、何かを知っている。

「書いた覚えがない。なのに、間違いなく俺の字だ。昨日1日分の記憶が、まるごとない。ホテルにチェックインしたことすら覚えてないんです」

 一花は柏木を見た。この人は、昨日、凍りついた交差点の向こうで、自分と同じように動いていた。けれど今は、それを覚えていない。この人も結局、水曜日の人なのだ。

「……会ってません」

「本当に?」

「本当です。お引き取りください」

 柏木はしばらく一花を見つめ、カウンターに名刺を置いた。

「気が変わったら、連絡ください。俺は、来週の火曜日もこの町にいます」

 柏木が出ていったあと、一花は名刺を握りしめた。角が手のひらに食い込んだ。


*


 その夜、一花は自室の机に、忠信から渡された紙片を置いた。

 黄ばんだ古い紙。4つに折られ、折り目のところが毛羽立っている。

 水曜日になったら開いて。あの子は、そう言った。

 今は水曜日の夜だ。もう開けてもいい。

 一花は、ゆっくりと紙を開いた。

 鉛筆で書かれた、たった1行。

 次の火曜日、あなたは私を殺す。

 一花は息をのんだ。

 文字が、紙の上でゆらりと揺れたように見えた。いや、揺れているのは自分の手だった。

 階段を上ってくる足音がした。ゆっくりと、一段ずつ。ドアの前で止まる。

「一花。まだ起きてるのか」

 父の声だった。

 一花は紙を握りつぶすように胸に抱いた。心臓の音が、紙越しに自分の手のひらを打っていた。

 窓の外では、北の山の白い建物が、闇の中に溶けていた。

 最後の火曜日まで、あと8回。


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