第1章 水曜日の朝、誰も覚えていない
目覚まし時計が鳴る前に、船山一花は目を開けていた。
カーテンの隙間から差し込む光はまだ青く、天井の木目が、水の底に沈んだ古い地図のように見える。枕元の時計は午前6時58分を指していた。あと2分で鳴る。毎週この日だけは、いつも鳴る前に目が覚める。体のどこかが、この日を待ち構えているかのように。
2026年8月18日、火曜日。
一花は枕元の手帳を引き寄せ、ページを開いた。月曜日の欄には、几帳面な小さな文字がびっしりと並んでいる。返却督促の電話3件、郷土資料の補修、児童書の除籍リストの確認、夕食は鯖の味噌煮。水曜日も、木曜日も、金曜日も同じように埋まっている。
火曜日の欄だけが、白い。
先週も、その前の週も。手帳を何年分遡っても、火曜日の欄は几帳面に空白のまま並んでいる。まるで白い石を等間隔に置いて作った、細い小道のように。
一花はペンを取り、今日の火曜日の欄に、小さく「晴れ」とだけ書いた。
それ以上は書かない。書いても意味がないからではない。書いたものがどうなるかを、知っているからだ。
この町には、火曜日がない。
正確に言えば、火曜日を覚えている人間が、一花しかいない。
窓の外に目をやると、北の山の中腹に、白い四角い建物が朝霧に霞んで見えた。誰も名前を口にしない建物。地図の上では「旧研究所跡地」とだけ記されている。一花は毎朝それを見るが、見ているという自覚はない。目に入る、という程度のことだ。歯ブラシや、鏡の曇りや、廊下の時計と同じように。
階下から、味噌汁の匂いが上がってきた。
*
台所では、父の修一がお玉を手に鍋の前に立っていた。62歳。背中は若い頃よりわずかに丸くなったが、白髪をきちんと撫でつけ、ワイシャツの袖を2回折り返す習慣は、一花が物心ついた頃から変わらない。
お玉を持つ手が、かすかに震えていた。
味噌汁が椀の縁から少しだけこぼれ、父は布巾でそれを拭った。一花は気づかないふりをした。気づかないふりをすることが、この家では一種の礼儀になっていた。
「今日は火曜か」
父は鍋に目を落としたまま言った。
「うん」
「……なら、早く帰ってきなさい。夜は出歩くな」
「毎週同じこと言う」
「毎週同じことを言うのが、大事なんだ」
父は椀を2つ食卓に並べ、向かいに座った。湯気の向こうで、父の眼鏡が白く曇る。
一花は箸を取りながら、廊下の突き当たりに目をやった。地下へ続く古い木の扉。真鍮の南京錠が掛かっている。先週までは黒い鉄の錠だった。
「お父さん、地下の鍵、また変えた?」
「湿気で錆びたからな」
「何が入ってるの、あそこ」
「古い論文だ。お前が読んでも面白くない」
父は壁の時計に目をやった。秒針の音だけが、台所に響いていた。カチ、カチ、と、何かを数えるように。
一花はそれ以上訊かなかった。訊いても同じ答えが返ってくることを知っていた。父の答えは、いつも丁寧に磨かれた石のように、どこにも引っかかるところがない。
*
朝霧市は、北陵地方の盆地にある人口およそ3万人の町だ。三方を山に囲まれ、秋から春にかけては、ほとんど毎朝のように霧が降りる。市の名前はその霧に由来するのだと、小学校の社会科で教わった。霧の町。忘れられた町。最近では、ネットの片隅でそう呼ばれることもある。
霧ヶ丘商店街は、まだシャッターの列だった。どの店のシャッターにも、同じ文句の貼り紙がしてある。
火曜定休。
数年前から、この町では火曜日に店を開ける人がいなくなった。予定を入れる人も。結婚式も、入学試験も、病院の手術も、火曜日だけは避けられる。市役所の窓口は開いているが、職員は最小限で、重要な手続きは受け付けない。誰もそれを不便だとは言わない。翌日になれば何も覚えていないのだから、火曜日に大事なことをしても仕方がない。それが、この町の常識になっていた。
「火曜性一過性健忘」。市はこの現象をそう名づけ、県立大学との共同調査の結果、地磁気の周期変動に伴う無害な地域特性であると発表した。健康被害はない。命にも別状はない。ただ、毎週、1日分の記憶がなくなるだけだ。
人間は、驚くほど早く慣れる。一花はこの町でそれを学んだ。
シャッターの列の中に、一軒だけ灯りのついた店がある。
ベーカリー朝霧。
扉を押すと、鈴が鳴った。焼きたてのパンの匂いが、霧で冷えた頬を包む。
「はい、いつもの」
店主の柴田トシ子は、一花の顔を見るなり紙袋を押しつけてきた。70歳。小柄で、白い三角巾から灰色の巻き毛がのぞいている。
「まだ何も頼んでないです」
「いいの。火曜日はね、一花ちゃんからお代はもらわないことにしてるの」
「それ、いつ決めたんですか」
トシ子は答えようとして、口を開けたまま言葉に詰まった。自分でも分からない、という顔だった。粉のついた指先が、エプロンの裾をつまむ。
「……さあ。いつだったかしらねえ」
入口の脇に、小さな木の台がある。その上の白い皿に、丸パンが6つ並べて置いてあった。何も入っていない、ただの白い丸パン。値札はない。
毎週、同じ場所に、同じ数だけ置かれている。
「あのパン、毎週置いてありますよね」
「あれは売り物じゃないの」
「誰のですか」
「誰のって……」
トシ子は困ったように笑い、皿のほうに目をやった。その目が一瞬、遠いところを見た。
「火曜日だからよ」
この町の人たちは、火曜日になると少しだけ優しくなる。一花はそれを7年間見てきた。理由は誰も知らない。翌朝には、優しくしたことさえ忘れてしまうのだから。
*
霧ヶ丘団地の前のコンビニ、ヤマトマートに寄ると、レジには篠崎拓海が立っていた。28歳。茶色く染めた髪の根元が黒く伸びている。眠そうにあくびをかみ殺しながら、一花に気づいて片手を上げた。
その隣に、もう1人、40代の女性店員がいた。髪を後ろでひとつに結び、名札には「遠山」とある。
搬入口から、白い菊の花束が段ボールで何箱も運び込まれていた。蝋燭の棚には「補充中」の札が下がっている。
「あ、図書館の人。火曜なのに出勤っすか」
「図書館は火曜も開館日だから。篠崎くんこそ」
「俺、火曜もシフト入ってるらしいんすよ。覚えてないけど。水曜に給料明細見ると、ちゃんと火曜の分がついてるんで」
篠崎は他人事のように笑った。この町の若者は、みんなこういう笑い方をする。
「……菊、すごい量だね」
「なんか毎週火曜だけ入るんすよ。誰が買ってくのか知らないけど、水曜には全部売れてる」
遠山と名札をつけた女は、黙々と菊の束のビニールをほどいていた。一花と目が合った。ほんの一瞬。女はすぐに目を逸らし、作業に戻った。その横顔に、何かを堪えているような硬さがあった。
一花はペットボトルの水を1本買って店を出た。自動ドアが閉まる直前、背中に視線を感じた。振り返らなかった。
*
朝霧市立図書館は、明治の終わりに建てられた煉瓦造りの2階建てだ。何度か改修され、空調も自動ドアもついているが、建物の骨格は古いまま残っている。階段の手すりは無数の手に磨かれて飴色に光り、書庫の奥には、紙と埃と時間の混ざった、独特の甘い匂いがこもっている。
一花はここで働いて7年になる。司書の資格を取ったのは東京の大学だった、ということになっている。
児童コーナーの絨毯の上に、一花は小さな木の椅子を6脚、半円に並べた。椅子の背は低く、座面には子どもたちの足が何千回も擦った跡がある。並べる位置は決まっている。窓から2歩、書架から3歩。半円の中心に、自分のための少し大きな椅子を置く。
立て看板を出す。
火曜日のおはなし会 午前10時30分から。
時計が10時30分を指した。
誰も来ない。
一花は半円の中心の椅子に座り、絵本を開いた。表紙には、霧の中に立つ古い柱時計の絵。『わすれんぼうのとけい』。もう何年も前に絶版になった本で、この図書館にしか残っていない。
「……むかしむかし、霧の深い町に、わすれんぼうの時計がありました」
声は、空っぽの児童コーナーに吸い込まれていった。
「時計は、毎週1回だけ、針をひとつ飛ばしてしまうのです」
6脚の空の椅子に向かって、一花は丁寧に読み続けた。ページをめくるときは、絵がみんなに見えるように本をゆっくり左右に向ける。時計の台詞のところでは声を低く、町の子どもの台詞のところでは声を高くする。見えない誰かが身を乗り出しているかのように。
誰も来ないおはなし会を、一花は7年間続けている。
どうして椅子が6脚なのか。どうしていつもこの本なのか。自分でも分からない。図書館に勤め始めた最初の火曜日、気がつけば一花は椅子を6脚並べ、この本を書架から抜き出していた。翌週もそうした。その翌週も。やめようと思ったことは何度もある。けれど火曜日の朝になると、手が勝手に椅子を運ぶのだ。
最後のページを読み終え、一花は本を閉じた。
椅子の座面に、窓からの光が四角く落ちていた。
*
午前11時、自動ドアが開いて、くたびれた紺のジャケットの男が入ってきた。肩から一眼レフを提げ、髪は寝癖のまま、無精髭が顎にうっすら影を作っている。
「すみません。北陵新聞の柏木といいます」
男は名刺を差し出した。北陵新聞 報道部 記者 柏木隼人。
「この町の、いわゆる『火曜日の記憶障害』について調べてまして。過去の地元紙、閲覧できますか」
「……縮刷版は2階です」
柏木は礼を言い、迷いのない足取りで右手の通路へ曲がりかけ――止まった。
「あれ。……トイレって、こっちですよね」
「そうですけど。来たこと、あるんですか」
「いや。初めてのはずなんですけど」
柏木は自分でも首を傾げ、苦笑した。人懐こい笑い方だった。一花は来館者名簿を差し出した。柏木がボールペンで名前を書き込む。少し右に傾いた、癖のある字。
開け放した窓から風が吹き込み、名簿のページが数枚、ぱらぱらとめくれ戻った。
一花の目の端を、2019年11月の欄がかすめた。そこに、今とまったく同じ傾きの筆跡で、柏木隼人、と書かれていた気がした。
風が止み、ページは元に戻った。一花は瞬きをした。気のせいだろう。そう思うことに、この町の人間は慣れている。
「ところで」と柏木は言った。「この町の人は、火曜日のことを本当に何も覚えてないんですか」
「ええ。みんな」
「あなたも?」
一花は、ほんの一瞬だけ間を置いた。
「……ええ。私も」
柏木は、その一瞬の間を見逃さなかった。記者の目だった。しかし何も言わず、軽く頭を下げて階段を上がっていった。
*
昼は、市立病院の中庭で、幼なじみの榊真理恵と弁当を広げるのが火曜日の習慣だった。水曜日の真理恵はその習慣を知らない。それでも、火曜日の昼になると、真理恵はちゃんと中庭のベンチに座って待っている。
「ねえ一花、変なこと言っていい?」
真理恵は卵焼きを箸でつまみながら言った。32歳。ナース服の上にカーディガンを羽織り、ショートカットの髪を耳にかけている。
「真理恵は昔から変なことしか言わないでしょ」
「毎週水曜の朝にね、説明のつかない怪我の患者が来るの。手のひらの火傷とか、膝の擦り傷とか、拳の骨折とか。本人に聞いても『火曜日だから覚えてない』って笑うだけ」
一花は黙って箸を動かした。
「先週はね、70歳のおばあちゃんが、両手に蝋が固まったまま来たの。何十本も蝋燭を握りしめてたみたいに」
一花の箸が止まった。
「町の人はみんな『火曜日だから』で済ませる。私も済ませてる。でもさ、看護師が原因の分からない傷をカルテに書くとき、なんて書くと思う?」
「なんて書くの」
「『受傷機転:火曜日』」
真理恵は声を立てて笑った。一花は笑えなかった。
「一花はいいよね。火曜も図書館で寝てるだけでしょ」
「……うん。寝てるだけ」
嘘だ。一花は全部、覚えている。
蝋燭を握りしめた老婆が、どこで、誰のために火を灯していたのかは知らない。けれど、その老婆が火曜日の夕方、泣きながら北の山のほうへ歩いていく後ろ姿を、一花は何度も見たことがある。
*
昼を過ぎると、町の空気が変わり始める。
空が少しずつ白く濁っていく。本物の霧ではない。気象台の記録には何も残らない種類の、薄い膜のようなものだ。
すれ違う人々の表情が、目に見えて変わっていく。商店街の角で立ち止まり、北の山を見上げる老人。買い物袋を提げたまま、急にぽろぽろと涙をこぼす主婦。それを見ても誰も驚かず、通りかかった見知らぬ人が、そっと彼女の背中をさする。
昼を過ぎると、この町には霧が降りてくる。人の顔に降りてくる霧だ。
一花はそれを7年間、見てきた。見て、見なかったことにしてきた。
*
午後3時14分。
朝霧市の中央交差点は、人と車が行き交っていた。一花は横断歩道の手前で腕時計を見た。秒針が12に近づいていく。
3時15分。
その瞬間、町が止まった。
歩行者が立ち止まる。車が停まる。自転車の高校生が地面に足をつく。誰の合図もない。防災無線も鳴らない。まるで、目に見えない巨大な手が、町全体の時計の振り子を指1本で押さえたかのように。
全員が同じ方角を向いていた。北の山の中腹、霧に霞む白い建物の方を。そして目を閉じ、深く頭を垂れた。
信号が青に変わった。誰も動かない。カッコウの電子音だけが、静まり返った交差点に虚しく響く。
その中を、一花だけが歩いていく。慣れた足取りで。目は伏せたまま。止まった人々の間を縫い、肩に触れないよう、息を殺して。7年間、毎週そうしてきたように。
交差点の向こう側に、もう1人、動いている人間がいた。
柏木だった。カメラを構えたまま、凍りついた町を呆然と見回している。
2人の目が合った。
柏木は声を出さず、唇だけを動かした。
なに、これ。
1分後。人々は何事もなかったように顔を上げ、また歩き出した。車のエンジン音が戻り、自転車の高校生がペダルを踏み込む。誰も、今の1分間について口にしない。
柏木が人波をかき分けて、一花に駆け寄ってきた。
「今の、何ですか。全員が、きっかり1分間止まった」
「……火曜日ですから」
「火曜日だから、何なんです」
「明日になれば、あなたも忘れます」
一花は踵を返した。背中に柏木の視線が刺さっていたが、振り返らなかった。
柏木は路上で手帳を取り出し、猛然とペンを走らせた。
15時15分。町が止まった。全員が北の山に向かって頭を下げた。動いていたのは俺と、図書館の船山一花だけ。――水曜日の俺へ。彼女は、何かを知っている。
*
夜9時、図書館を閉めて帰る途中、一花はヤマトマートの前を通った。
ガラス越しに、店内が見えた。
レジの篠崎が、泣いていた。声も出さずに、拳を握りしめ、肩を震わせて。朝のあの眠たげな笑顔はどこにもなかった。まるで別の人間の顔だった。
遠山が、その肩にそっと手を置いていた。
白い菊のバケツは、すべて空になっていた。
一花は立ち止まり、それから、見なかったふりをして歩き出した。
火曜日の夜、この町の人たちは泣く。でも明日の朝、自分が泣いたことを知らない。
*
朝霧川沿いの遊歩道は、街灯がまばらだった。草むらで秋の虫が鳴いている。川の水音が、暗闇の底で途切れなく続いていた。
一花は足早に歩いた。
背後で、砂利を踏む音がした。
振り返る。誰もいない。
気のせいだ、と言い聞かせて再び歩き出した瞬間、草むらから小さな影が飛び出し、一花の袖をつかんだ。
少年だった。12歳くらい。裸足で、膝に擦り傷がある。息を切らし、汗で前髪が額に張りついていた。
「船山一花さん、だよね」
「……誰?」
「お願い」
少年は、一花の袖を両手で握りしめた。その指が冷たかった。
「水曜日になっても、僕のことを忘れないで」
遠くの土手の上で、懐中電灯の光が揺れた。男の太い声が響く。
「おい! どこだ!」
少年がびくりと身を縮めた。
一花は迷った。ほんの数秒。見知らぬ子ども。追ってくる大人。関わるべきではない理由なら、いくらでも思いついた。
けれど、袖をつかむ指の冷たさが、それを全部押し流した。
一花は少年の手を引いて、橋の下へ走った。
*
コンクリートの橋脚の陰で、2人は息を殺した。頭上を、懐中電灯の光が横切っていく。
土手の上に、大柄な男の影が見えた。警備会社の制服。無線機に、低い声で何か告げている。
「対象、見失いました。……ええ、0時までには必ず」
足音が遠ざかった。
「あの人、誰」
「研究所の人。……悪い人じゃないよ。ただ、僕が町にいちゃいけないんだって」
「町にいちゃいけないって、どういうこと」
「話すと長いんだ。0時までしか、時間がない」
*
一花は少年を図書館に連れていった。非常灯だけが灯る、薄暗い閲覧室。書架の影が、床に長い縞模様を描いている。
給湯室でタオルを濡らし、少年の足を拭いてやった。足の裏は砂と小石で黒ずみ、小さな切り傷がいくつもあった。
「名前は」
「水原忠信。12歳」
「お家は」
「霧ヶ丘団地の4号棟。お母さんがいる。水原菜々」
「じゃあ、お母さんのところへ――」
「だめなんだ。お母さんは、火曜日にしか僕のことを覚えてない」
一花の手が止まった。
「水曜日から月曜日まで、お母さんは僕を知らない。道ですれ違っても、知らない子を見る目で見る。火曜日の昼過ぎになるとね、だんだん思い出して、僕を探しに来るんだ。泣きながら」
忠信は、天気の話でもするように淡々と言った。その淡々とした声が、かえって一花の胸を締めつけた。
「それで、夜の0時になると、また忘れる」
「どうして、そんなことが」
「それは、一花さんが自分で思い出さなきゃだめなんだ」
「私が?」
忠信は口をつぐんだ。言いすぎた、という顔だった。
しばらくして、少年は小さな声で言った。
「……あと8回なんだ」
「何が」
「最後の火曜日まで。あと8回で、町は火曜日ごと全部忘れる。そしたら、お母さんは火曜日になっても、もう2度と僕を思い出さない」
一花は言葉を失った。
「一花さんだけなんだ。火曜日を覚えていられるのは。だから、僕を覚えていて。僕がいたってことを」
一花はスマートフォンを取り出した。
「写真、撮っていい?」
「いいけど、消えるよ」
シャッター音。画面に、少し照れた顔の少年が映った。前歯が1本だけ少し欠けている。
一花はカウンターの端末を立ち上げ、利用者登録の画面を開いた。名前を打ち込む。水原忠信。住所、霧ヶ丘団地4号棟。プリンターが小さく唸り、新しい利用者カードを吐き出した。
「水原忠信くん。今日から、この図書館の利用者」
忠信はカードを両手で受け取り、じっと見つめた。指先で、自分の名前の印字をなぞる。
「……ありがとう」
それから少年はふらりと書架へ向かい、迷うことなく1冊の絵本を抜き出した。
『わすれんぼうのとけい』。
「その本、知ってるの?」
「一花さんが、よく読んでくれた」
「私が? いつ?」
忠信ははっとして、本を閉じた。
「……ごめん。今のは、なし」
*
午後11時58分。図書館の前の通りは静まり返っていた。家々の窓の灯りが、ひとつ、またひとつと消えていく。
忠信がポケットから、折りたたんだ古い紙片を取り出した。黄ばんで、角が丸くすり減っている。
「これ、渡しておく。水曜日になったら開いて。それまで、絶対に開けないで」
「何なの、これ」
「一花さんのものだよ。7年間、僕が預かってた」
町じゅうの防災無線のスピーカーから、静かなメロディーが流れ出した。「朝霧の歌」のチャイム。この町の子どもなら誰でも歌える、穏やかな童謡。毎週火曜日の深夜0時、それはこの町に流れる。
「じゃあね。……忘れないでね」
忠信は闇の中へ駆けていった。裸足の足音が、すぐに聞こえなくなった。
一花は通りを振り返った。
コンビニのガラス越しに、レジに突っ伏して眠る篠崎が見えた。
家々の窓の奥で、人々が糸の切れた人形のように崩れ落ちていく。ソファの上で、台所で、玄関先で。誰もが、そこが寝床であるかのように、静かに。
一花だけが、立っていた。
0時。町は眠り、火曜日は死ぬ。
*
2026年8月19日、水曜日。
台所では、父が新聞を読んでいた。
「昨日は何してた」
「……寝てた」
「そうか」
毎週繰り返される、決まったやりとり。父の声の抑揚まで、毎週同じだった。
一花はスマートフォンの写真フォルダを開いた。昨夜の写真がない。忠信の照れた顔も、欠けた前歯も。「最近削除した項目」も空だった。端末の同期履歴には、午前0時過ぎに別の機器から接続された痕跡が残っていた。記憶だけならまだしも、誰かが写真にまで手を伸ばしている。
指先が、冷たくなった。
図書館の端末で利用者番号を検索すると、画面には「該当する利用者は存在しません」と表示された。引き出しに控えておいた申込書の束をめくる。忠信の申込書だけが、きれいに抜き取られていた。
削除されたのは画像だけではない。申込書を抜いた下の紙には、昨夜、一花自身が押した日付印の半分が残っていた。紙の束の切り口は新しく、指にかすかな紙粉がついた。記憶を曇らせる仕組みと、帳簿を抜き取る行為は別だ。誰かが、町を歩き回っている。
一花は切り口を指で押さえ、次からは控えを町の外にも残そうと決めた。忘却が自然現象ならば、ここまで手間のかかる隠蔽は必要ない。
市役所の市民課で訊いた。
「水原忠信。12歳。霧ヶ丘団地4号棟です」
「……該当する方は、いらっしゃいませんね」
「じゃあ、水原菜々さんは」
「ええ、いらっしゃいます。世帯主、お一人の世帯です」
「お子さんは」
「いえ。お一人です」
中学校の事務室でも同じだった。そういう生徒はいない。小学校の卒業名簿にもない。
*
霧ヶ丘団地4号棟の3階。表札には「水原」とあった。
ドアを開けたのは、穏やかで、少し疲れた顔の女だった。39歳くらい。
「突然すみません。息子さんの忠信くんのことで」
「息子?」
女は、心底不思議そうに首を傾げた。
「私、子どもはいませんけど」
一花は言葉に詰まった。女の肩越しに、部屋の中が見えた。
廊下の奥のドアに、手書きの紙が貼られている。物置。
そのドアの柱に、鉛筆で引かれた何本もの横線があった。子どもの身長を測った跡だ。横線の脇に、小さな字で日付が添えられている。2024年5月7日、145センチ。2025年4月15日、151センチ。2026年6月2日、156センチ。
一花は頭の中で曜日を数えた。すべて、火曜日だった。
ベランダの物干し竿に、24センチの小さなスニーカーが干してあった。
「……あの靴は」
菜々は振り返り、スニーカーを見た。一瞬だけ、表情が揺れた。水面に小石が落ちたように。
「前の住人のでしょうね。いつからあるのかしら」
菜々は柔らかく微笑んで、ドアを閉めた。
*
夕方、図書館の閲覧室で、一花はぼんやりと6脚の小さな椅子を見ていた。片付けるのを忘れていた。7年間で初めてのことだった。
自動ドアが乱暴に開き、柏木が入ってきた。手帳を握りしめている。顔色が悪い。
「船山一花さんですよね」
「……はい」
「俺、昨日、あなたに会ってますか」
柏木は手帳を開いて突きつけた。右に傾いた、癖のある字。水曜日の俺へ。彼女は、何かを知っている。
「書いた覚えがない。なのに、間違いなく俺の字だ。昨日1日分の記憶が、まるごとない。ホテルにチェックインしたことすら覚えてないんです」
一花は柏木を見た。この人は、昨日、凍りついた交差点の向こうで、自分と同じように動いていた。けれど今は、それを覚えていない。この人も結局、水曜日の人なのだ。
「……会ってません」
「本当に?」
「本当です。お引き取りください」
柏木はしばらく一花を見つめ、カウンターに名刺を置いた。
「気が変わったら、連絡ください。俺は、来週の火曜日もこの町にいます」
柏木が出ていったあと、一花は名刺を握りしめた。角が手のひらに食い込んだ。
*
その夜、一花は自室の机に、忠信から渡された紙片を置いた。
黄ばんだ古い紙。4つに折られ、折り目のところが毛羽立っている。
水曜日になったら開いて。あの子は、そう言った。
今は水曜日の夜だ。もう開けてもいい。
一花は、ゆっくりと紙を開いた。
鉛筆で書かれた、たった1行。
次の火曜日、あなたは私を殺す。
一花は息をのんだ。
文字が、紙の上でゆらりと揺れたように見えた。いや、揺れているのは自分の手だった。
階段を上ってくる足音がした。ゆっくりと、一段ずつ。ドアの前で止まる。
「一花。まだ起きてるのか」
父の声だった。
一花は紙を握りつぶすように胸に抱いた。心臓の音が、紙越しに自分の手のひらを打っていた。
窓の外では、北の山の白い建物が、闇の中に溶けていた。
最後の火曜日まで、あと8回。




