神魔境界の観測者
夜。
星々が王都の空を埋め尽くしていた。
宿の屋根の上。
千乃は一人、夜風に当たりながら空を見上げていた。
「きれい……。」
神化した姿になってから、不思議なことが増えた。
昼よりも夜。
静かな時間になるほど、世界の魔力の流れがはっきりと感じられる。
風が流れる音。
草木が揺れる音。
遠くを飛ぶ鳥。
全部が、少しだけ鮮明に聞こえる。
「眠れないのか?」
後ろから声がした。
振り返ると、真銀が屋根へ上がってきていた。
「ごめん、起こしちゃった?」
「いや。」
真銀は千乃の隣へ腰を下ろす。
「なんとなく目が覚めただけだ。」
二人はしばらく黙って夜空を眺めた。
「……なぁ。」
「ん?」
「神になった気分って、どうなんだ?」
千乃は少し考える。
「神になったっていう実感は、あんまりないかな。」
「ただ……。」
自分の胸に手を当てる。
「前より、世界が近く感じる。」
「世界が近い?」
「うん。」
「誰かが困ってたり、強い敵意が近付いたりすると、何となく分かるの。」
真銀は少し驚いた。
「そんなことまで。」
「でも、全部じゃないよ?」
千乃は苦笑する。
「ぼんやりだから。」
「まだ慣れてない。」
その時だった。
肩に乗って眠っていたミルが、ゆっくり目を開ける。
『主よ。』
「ミル?」
『来るぞ。』
「……え?」
『誰かではない。』
『"見ている者"だ。』
その瞬間。
千乃の翼が、ふわりと光を帯びた。
風が止む。
夜の虫の声も消えた。
まるで世界そのものが息を潜めたような静寂。
「誰……?」
千乃が空へ問いかける。
返事はない。
だが。
星空の一角が、水面のようにゆらりと揺れた。
真銀も立ち上がる。
「空間が歪んでる……!」
そこから、一つの光がゆっくりと降りてくる。
人影。
白い長衣をまとい、顔は光に包まれて見えない。
足は地面についていない。
ただ静かに宙へ浮かんでいる。
「……。」
その人物は千乃を見つめる。
そして、小さく微笑んだように見えた。
『神格保持者、千羽千乃。』
声は直接頭の中へ響く。
『我は敵ではない。』
『ただの観測者。』
千乃は警戒を解かない。
「観測者……?」
『神魔境界を越えた者を見届ける役目を持つ存在。』
『お前は、数千年ぶりの存在だ。』
真銀は一歩前へ出る。
「何者だ。」
『安心しろ。』
『今夜、お前たちと戦う気はない。』
観測者は静かに千乃を見る。
『お前はまだ、神へ傾いている。』
『だが境界は揺らぐ。』
『怒り。』
『絶望。』
『喪失。』
『そのどれか一つでも深く抱けば、お前は神ではなく魔へ近付く。』
千乃は黙って聞いていた。
観測者は続ける。
『だから覚えておけ。』
『力は心を映す鏡だ。』
『神魔境界とは、力の境界ではない。』
『心の境界だ。』
その言葉だけを残し。
光の身体は、夜風に溶けるように消えていった。
静寂が戻る。
虫の声が聞こえ始める。
真銀はしばらく空を見つめていた。
「……心の境界、か。」
千乃も夜空を見上げる。
「うん。」
そして、小さく笑った。
「難しいことは分からないけど。」
「私は私でいたい。」
その何気ない一言に。
ミルは静かに目を細めた。
『その願いこそが、今の主を神たらしめている。』
夜空には、何事もなかったかのように星が瞬いていた。
だがその日から。
千乃は時折、自分をどこかから見守るような視線を感じるようになった。




