常闇の箱庭大戦(ディストピア・ゲーム)5
千乃の足元に、黒いダークマターが絡みついていた。
クローバー・チーフが伸ばした手は、まだ千乃へ届こうとしている。
「さあ、諦めて俺のものになれ。君の心は、もう俺に傾き始めているんだ」
「い・や・だ!!」
千乃は即答した。
「……は?」
「絶っっっ対に嫌!! なんで私があなたを好きにならなきゃいけないの!? 私には真銀がいるの! 夫がいるの! 間に合ってます!!」
「な、なぜだ!? 俺の魅力が通じないのか!?」
「能力のせいで変な感情が湧いてくるのが嫌なの!! あなたの魅力とかそういう話じゃない!!」
「俺の魅力は関係ないだと!?」
「そこに食いつかないで!!」
千乃は全力でクローバーから離れようとした。しかし、足元にはガーデスのダークマターが絡みつき、身体を動かすたびに黒い帯が追いすがってくる。
「はははははっ! いいぞクローバー! もっとやれぇぇぇ!! 千乃をこっちに引き込めぇぇぇ!!」
「ガーデス、少し黙っていろ!」
「なんでだぁぁぁ!!」
「集中できん!!」
「戦争中に集中するなぁぁぁ!!」
「集中するだろうが!!」
敵側の連携は妙に成立していた。
千乃の動きをダークマターで封じ、クローバーが《プランダー》で心を揺さぶる。普段なら攻撃を避けながら二人まとめて吹き飛ばせる千乃も、今は自分の感情を無理やり変えられているせいで、思うように動けない。
しかも、クローバーが手を伸ばすたび、千乃の身体はほんのわずかにそちらへ引き寄せられてしまう。
「くっ……! このっ……!」
「抵抗しても無駄だ。君は少しずつ俺を意識するようになる」
「うるさい!! 私が意識してるのは、あなたをぶっ飛ばす方法だよ!!」
「それも一種の意識では?」
「屁理屈ぅぅぅ!!」
真銀が駆け込もうとする。しかし、ガーデスがダークマターを壁のように展開し、その行く手を阻んだ。
「おっとぉ! そっちは通行止めだぁぁぁ!!」
「邪魔だ」
真銀が剣を振るう。
ガキィンッ!!
黒い壁が弾け飛ぶ。だが、散ったダークマターはすぐに集まり、再び壁を作り上げた。
「何度やっても同じだぞぉぉぉ!! 俺のダークマターは完全制御! 完全制御だぞぉぉぉ!!」
「二回言わなくても分かる」
「大事なことだからなぁぁぁ!!」
「本当にうるさいな……!」
真銀の眉間に、深い皺が刻まれた。
そのときだった。
「…………」
戦場の片隅。
エリシアを追いかけていたメルトが、ぴたりと足を止めた。
ててててて……。
「…………ぷる?」
メルトの身体が、ゆっくりと千乃の方を向く。
その視線の先では、主が困っていた。
いつもなら、どんな敵を前にしても笑っている主が。どんな状況でも余裕を崩さない主が。
今は、嫌がっていた。
困っていた。
助けを求めているわけではない。それでも、メルトには分かった。
主が、嫌なことをされている。
「ぷる……」
エリシアが、少し離れたところで立ち止まった。
「……え?」
メルトの身体から、いつもの柔らかな雰囲気が消えていた。
ぷるぷる、と揺れていた表面が静まり返る。透明感のある身体の奥で、周囲の魔力が吸い寄せられるように渦を巻き始めた。
「……ぷる」
もう一度、小さな声。
それから。
メルトは、千乃へ向かって走り出した。
ててててててててててててててててて。
ただし、先ほどまでとは違う。
その進路にあったダークマターが、メルトの身体に触れた瞬間。
ずるっ。
黒い物質が、吸い込まれた。
「…………ん?」
ガーデスが振り返る。
ダークマターの一部が消えていた。
「……あれ?」
もう一度、メルトが駆ける。
てててててててててて。
ずるるるるっ。
地面を這っていた黒い帯が、根元からメルトの身体へ吸い込まれていく。
「…………は?」
ガーデスの顔から笑みが消えた。
「ちょ、ちょっと待てぇぇぇ!! 何をしているぅぅぅ!!」
「ぷる」
メルトは止まらない。
ててててててててててて。
黒い壁にぶつかる。
べちょっ。
壁が消えた。
「はぁぁぁぁぁぁぁ!?」
ガーデスが叫んだ。
「俺のダークマターぁぁぁぁぁ!!」
メルトは壁を吸収しただけではなかった。壁を構成していた魔力まで取り込み、ぷるぷると身体を揺らしている。
その身体の色が、少しずつ変わっていく。
白っぽかった表面に黒い筋が走り、内部で渦巻く魔力が濃くなった。
「ぷるぷるぷるぷる」
「返せぇぇぇぇぇ!! 俺のダークマターを返せぇぇぇぇぇ!!」
ガーデスが両手を振る。
周囲のダークマターを一斉に引き戻そうとする。
しかし。
メルトの身体が、ぐにゅうっと広がった。
黒い物質が、次から次へと吸い込まれていく。
ずるるるるるるるるるっ!!
「ぎゃあああああああああ!! 減ってる! 減ってるぞぉぉぉぉぉ!!」
「ガーデス、何をしている!?」
「俺が聞きたいわぁぁぁ!!」
クローバーが千乃へ伸ばしていた手を引っ込めた。
「……なんだ、あれは?」
メルトが、ぴたりと止まる。
ぷるん。
身体の表面に、黒い模様が浮かび上がった。
次の瞬間。
ぶわっ!!
メルトの身体から、取り込んだダークマターの魔力が噴き上がった。
白い世界に、黒い波紋が広がる。
レーレそのものが揺れたわけではない。けれど、その中で戦っていた者たちは、全員が動きを止めてしまった。
「…………」
ララが目を丸くする。
「……え、メルト?」
ライの耳が、ぴんと立つ。
「これは……」
アイシィも、思わず動きを止めた。
「わぁ……。メルト、そんなこともできたんですね……?」
カミルは静かに目を細めた。
「……なるほど。主の危機を察したか」
真銀だけは、驚きながらも千乃から目を離さなかった。
「千乃!」
「うん、分かってる!」
千乃はクローバーの手を振り払おうとした。
「だから、離してってば!!」
「なっ、まだ抗うのか!?」
「当たり前でしょ!!」
千乃が思いきり身体を捻る。
クローバーが慌てて手を伸ばし直した、その瞬間。
千乃の目が、すっと細くなった。
「……もう、いい加減にして!気合ぃぃぃっっっっっ!」
バキィッ!!
千乃は足元に絡みついていたダークマターを力ずくで引きちぎり、クローバーの手を振り払った。
「うわっ!?」
さらに一歩踏み込み、クローバーの胸元を押し返す。
「私の心を勝手にいじらないで!!キショい!!」
クローバーがよろめいた。
「な、なぜだ!? 俺の能力は確かに発動したはず……!」
「発動したからって、私が言うことを聞くとは限らないでしょ!バカ!アホ!」
千乃は真銀の方へ駆けた。
途中で身体が一瞬だけクローバーへ引かれかける。それでも、千乃は自分の足で踏みとどまった。
「私は真銀が好きなの! それは私が決めたことなの!!」
真銀が手を伸ばす。
千乃はその手を掴み、彼の隣へ飛び込んだ。
「真銀!」
「無事か?」
「うん! でも、ものすっごく嫌だった!!不快の絶好調!」
「……そうか」
真銀は千乃の手を握り返す。
「よく振り切った」
「うん! あとでいっぱい文句言っていい!?」
「好きなだけ言えばいい」
「じゃあ、まずはあの人に二度と触らないでって言う!!」
「それは俺からも言っておこう」
「お願い!!」
二人が並んだ、その背後で。
ぷるるるるるるるるるるるるるっ!!
メルトが震え始めた。
「…………」
ガーデスが、ゆっくりと後ずさる。
「お、おい……。何だ、その振動は……?」
メルトの身体が、ぐにゅううううっと広がる。
吸収したダークマターが、表面を黒く染めていく。だが、それは単なる色の変化ではなかった。
メルトの身体から溢れる魔力が、どんどん濃くなっている。
周囲のダークマターが、意思を持ったかのようにメルトへ引き寄せられていく。
「ま、待て! それ以上は俺のダークマターが……!」
ずるるるるるるるるるるっ!!
「ぎゃああああああああああ!!」
ガーデスの叫びが響き渡る。
メルトは、もはやエリシアを追いかけていたときの、かわいらしいぷるぷるスライムではなかった。
ぷるぷるしている。
見た目は、ぷるぷるしている。
なのに。
その場にいる全員が、本能的に理解した。
これは、まずい。
災害級だ。
しかも、主を助けるために本気になった災害級である。
「ぷる」
メルトが、ガーデスを向いた。
「ひっ……」
ガーデスの口から、初めて小さな悲鳴が漏れた。
メルトは一歩進む。
て。
ガーデスが一歩下がる。
「ま、待て! 話し合おう! 俺たちは分かり合えるはずだ!」
メルトがもう一歩進む。
てて。
「俺は戦争が好きなだけで、お前と戦いたいとは言ってないぞぉぉぉ!!」
メルトの身体が、にゅうっと伸びた。
「ぎゃあああああああああ!!」
ガーデスが逃げ出す。
ててててててててててててててて。
メルトが追う。
ててててててててててててててて。
「なんでだぁぁぁぁぁ!! なんで俺が追われてるんだぁぁぁぁ!!」
エリシアが遠くから、その光景を見つめていた。
「…………」
メルトがガーデスを追っている。
ガーデスが必死に逃げている。
しかも、逃げるたびにダークマターが吸い取られ、追いかけっこをするほどメルトが強くなっていく。
「…………」
エリシアは、そっと後ずさった。
「……私は、あっちに行かないでおきます」
誰も止めなかった。
クローバーだけが、呆然と立ち尽くしていた。
「俺の能力を受けても、完全には屈しなかった……。そして、あのスライムはダークマターを吸収している……?」
彼の自信に満ちた顔から、余裕が消えていく。
千乃は真銀の隣で、まだ少し不快そうに眉を寄せていた。
「……ほんっとに嫌だった。気持ち悪い。生理的に無理。気色悪い。うぇっ」
「分かっている」
「勝手に好きな人を変えようとするなんて、最低だよね」
「ああ」
「あとで絶対に文句言う」
「好きなだけ言え」
千乃は真銀の手をぎゅっと握った。
そして、メルトを見た。
「……メルト」
メルトは、ガーデスを追い詰めながら振り返った。
「ぷるっ!」
「助けてくれてありがとう。でも、ちょっとだけ落ち着いてね?」
「ぷるぷるぷるぷるっ!!」
メルトの身体から、さらに黒い魔力が噴き出した。
「…………」
千乃が黙った。
真銀も黙った。
ララが小さく呟く。
「……主。あれ、落ち着いてるの?」
「…………」
千乃は、ガーデスを追い回すメルトを見つめた。
ててててててててててててて。
「戦争だぁぁぁぁぁ!! 助けてくれぇぇぇぇぇ!!」
ててててててててててててて。
「ぷるるるるるっ!!」
千乃は、そっと目を逸らした。
「……うん。たぶん、まだ」
真銀が静かに言う。
「たぶん、か」
レーレの白い世界に、黒い魔力が渦巻く。
敵側の切り札だったダークマターは、今やメルトの身体へ吸い込まれ続けていた。
千乃を追い詰めていた敵の連携は、完全に崩れ始めている。
そしてガーデス・テントウは、ようやく理解した。
自分は今。
戦争が大好きなキッズから。
災害級スライムに追われる、ただの逃走者へと成り下がっていた。
「誰かぁぁぁぁぁ!! 俺を助けろぉぉぉぉぉ!!」
その叫びに、千乃は笑顔で答えた。
「ごめんね! 今ちょっと忙しいから!」
「それお前の台詞じゃねぇぇぇぇぇ!!」




