物理に移行します
「断る」と王が答えた瞬間、千乃の笑顔がほんの少しだけ深くなった。
「そうですか。残念です」
声だけを聞けば、まだ穏やかだった。
千乃は右手の大剣をゆっくりと持ち上げると、肩へ担いでいた刀身を一度だけ横へ振り抜く。
ブンッ、と凄まじい風圧が大広間を駆け抜け、王の前に並んでいた燭台が一斉に揺れ、壁に掛けられた旗まで大きくはためいた。
「二百三回目ですね。うちの子たちを返してください」
「だから断ると言っている!」
「分かりました」
千乃は素直に頷いた。その笑顔には、まだ怒鳴り声を上げる様子すらない。
ただし、次の瞬間には大剣を床へ軽く振り下ろし、王座から数メートル手前の石床を一直線に裂いた。
轟音とともに亀裂が走る。
「……え?」
王が固まった。
「今のは、交渉です」
「どこがだ!?」
「まだ王様には当ててませんよ?」
「当てる前提で話すな!」
千乃は不思議そうに首を傾げた。
「だって、何回お願いしても返してくれないので。仕方ないですよね!」
と、まるで雨の日に傘を忘れてしまった程度のことを話すような口調で言いながら、大剣をもう一度肩へ担ぐ。
その隣では、真銀も完全に怒りを隠す気がなくなっていた。
「千乃、もう十分だ」
「うん。私もそう思う」
「なら……」
「だから、次は物理で交渉する」
「そうなるのか」
真銀は深いため息をついたものの、止める気はないらしい。むしろ王を睨む目には、千乃と同じくらいの怒りが宿っている。
王が玉座から立ち上がった。
「待て! 王城内で剣を振り回すなど――」
「二百四回目ですね。うちの子たちを返してください」
「話を聞け!」
「二百五回目ですね。うちの子たちを返してください」
「だから!」
千乃は笑顔のまま大剣を横薙ぎに振った。
王の頭上を通過した刀身が背後の壁を削り、石片がぱらぱらと床へ落ちる。
王は思わず頭を抱えたが、千乃はそれを見ても申し訳なさそうにするどころか、むしろ丁寧に一礼した。
「すみません。少しだけ近かったですね(笑)」
「少し!?」
「次は気をつけますよ、一応」
「そういう問題ではない!」
ララが後ろで目を輝かせながら笑っている。
「主、全然話し合えてないよ!でも面白い!」
「ちゃんと話してるよ?」
「剣で?」
「うん」
ライが額を押さえた。
ただ、口元は嬉しそうに笑っている。(←うん、結構ホラー)
「もう交渉という言葉の意味が分からなくなってきた」
アイシィも苦笑しながら王城の壁を見上げる。
「少なくとも、建物の修理費については交渉の余地がなくなってきましたね」
と呟いたところで、メルトが千乃の横へててててと歩いてきた。
頭上には相変わらず巨大なおこマークが浮かんでおり、その身体も怒りを表すようにぷるぷる震えている。
「ぷるるるる……!」
「メルトもやる?」
「ぷる!」
メルトが勢いよく身体を膨らませた。
「いや、メルトは待って」
「ぷる?」
「建物まで壊し始めたら収拾つかないから」
千乃がそう言った直後、王が
「ならば話し合いを続ければいいだろう!」
と叫んだ。
「もちろんです」
千乃は嬉しそうに頷いた。
「二百六回目ですね。うちの子たちを返してください」
「断る!」
「二百七回目ですね」
「断る!」
「二百八回目ですね」
「断る!」
そこから先は、再び猛烈な早送りになった。
ただし、先ほどまでとは違う。
千乃が数字を一つ増やすたびに、大広間のどこかが少しずつ壊れていくのだ。
「二百十回目ですね。うちの子たちを返してください」
ズドン!
「二百二十回目ですね。うちの子たちを返してください」
バキィン!
「二百三十回目ですね。うちの子たちを返してください」
ドゴォン!
「二百四十回目ですね。うちの子たちを返してください」
王座の後ろの壁に大きな亀裂が入る。
「二百五十回目ですね。うちの子たちを返してください」
今度は大広間の柱が一本、根元からではなく途中から綺麗に切断され、ゆっくりと傾いた。
「待て待て待て! それは王城の柱だぞ!」
「大丈夫です。まだ倒れてません」
「倒れたら駄目なんだ!」
「では、二百五十一回目ですね。うちの子たちを返してください」
「その前に止まれ!」
王が叫ぶ。
千乃はぴたりと止まり、にっこり笑った。
「返してくれます?」
「……断る」
「二百五十二回目ですね」
「なぜだ!」
王の悲鳴が響く。
真銀はそんな王を見ながら、冷静な声で言った。
「俺なら、もう返すがな」
「真銀!?」
「俺たちが二百回以上同じことを言っているんだ。これ以上続けても意味がない」
「だから交渉をやめろと言っているのか!?」
「違う」
真銀は王を見据えた。
「俺もそろそろ面倒になってきた。千乃より先に俺が行くか?」
王の顔から血の気が引いた。
「……二人とも、落ち着け」
「私は落ち着いてますよ?」
千乃が笑顔で答える。
「こんなにも”優しく”お願いしてるんですから!」
そう言って千乃は大剣をブンッと振り、肩へ担いだ。
王はその瞬間、悟った。
この少女にとって「優しくお願いする」という行為は、どうやら相手が自発的に返す最後の機会を与えることらしい。
そして。
「二百五十三回目ですね」
千乃が笑顔のまま一歩前へ出た。
「うちの子たちを返してください」
王は玉座の後ろへ半歩下がった。
「……考え直そう」
「はい?」
「少しだけ、話し合おうではないか」
「もちろんです」
千乃は嬉しそうに頷いた。
「じゃあ、まず三人を連れてきてもらえます?」
「…………」
「本人たちの前で、ちゃんと話しましょう」
王は黙った。
千乃は笑顔だった。
真銀も黙って王を見ている。
ララたちはすでに逃げ道を塞いでいる。
そしてメルトの頭上には、特大のおこマークが浮かんでいた。
「……分かった」
王がようやく口を開いた。
「三人を連れてこよう」
千乃の笑顔が、さらに明るくなる。
「ありがとうございます」
大剣を肩へ担いだまま、千乃はぺこりと頭を下げた。
「では、二百五十三回目の交渉は成立ですね」
王は思った。
最初からこうしておけばよかった、と。
だが、その直後。
「ちなみに」
千乃が笑顔で付け加える。
「もし三人に何かあったら、二百五十四回目からはもっと優しくしますね」
「……もっと…か」
王の顔が引きつった。




