鬼月姫
魔王城から少し離れた、深い森。
木々の間を、ひとつの影が歩いていた。
鬼化した千乃だった。
魔王城での食事が足りなくなったわけではない。
ただ、千乃は腹が減った。
それだけだった。
感情の大部分を失った今の千乃にとって、「食べたい」という感覚すら、以前とはどこか違っている。
それでも空腹はある。
だから、狩りに来た。
「……」
千乃は森の奥へ進んでいく。
すると。
ガサッ。
茂みの向こうから、大きな音がした。
千乃が足を止める。
直後。
巨大な魔物が木々を薙ぎ倒しながら飛び出してきた。
その巨体は、森の中にいるだけで周囲を圧倒するほどだった。
鋭い爪。
巨大な牙。
そして、身体中から溢れ出す凶悪な魔力。
普通の冒険者なら、まず一人で相手をしようとは思わない。
しかし。
千乃はただ、その魔物を見つめた。
「……食べられる?」
魔物が咆哮する。
森全体が震えた。
その巨体が千乃へ向かって突進する。
地面が抉れる。
木々が倒れる。
圧倒的な速度。
普通なら避けるだけでも精一杯だ。
だが。
千乃は動かなかった。
そして。
拳を一度だけ振った。
ドゴォンッ!!
巨大な魔物の身体が吹き飛んだ。
木を何本もへし折りながら地面を転がり、そのまま動かなくなる。
「……」
千乃は倒れた魔物のもとへ歩いていく。
しゃがみ込む。
そして、じっと見る。
「……これにする」
あまりにも淡々としていた。
まるで、森で木の実を拾うような感覚だった。
だが。
その光景を見ていた者たちがいた。
「た、助かった……」
少し離れた場所。
数人の冒険者が、震えながら地面に座り込んでいた。
彼らは先ほど、この魔物に襲われていた。
武器は折れ、装備もボロボロ。
もう少しで全滅するところだった。
そこへ現れたのが、千乃だった。
「……あの魔物を……一撃で……?」
「ありえねぇ……」
「待て……」
一人の冒険者が、震える声で言った。
「魔物を倒したのは……あの女だ」
「……女?」
全員の視線が千乃へ向く。
長い髪。
人とは明らかに違う気配。
そして。
頭には、鬼の角。
「……鬼……?」
その言葉に、千乃が振り向いた。
冒険者たちの身体が硬直する。
千乃は何も言わない。
ただ、彼らを一瞥する。
そして。
興味を失ったように視線を戻した。
魔物の身体を持ち上げる。
そのまま、森の奥へ歩いていく。
「…………」
冒険者たちは、しばらく動けなかった。
「……生きてる」
「俺たち……生きてるぞ……」
「でも……」
一人が千乃の消えていった方向を見る。
「……あれ、何だったんだ?」
「分からない」
「でも、鬼だった」
その言葉が、妙に重く響いた。
やがて冒険者たちは、街へ戻った。
そして。
酒場。
冒険者ギルド。
街の広場。
あちこちで、同じ話が囁かれ始めた。
「森で鬼が出たらしい」
「鬼?」
「ああ。角の生えた女の鬼だ」
「魔物を一撃で倒したって話だぞ」
「一撃?」
「しかも、俺たちを襲ってた魔物をだ」
「じゃあ……助けてくれたのか?」
「分からん。ただ、こっちには一切興味を示さなかったらしい」
噂は、瞬く間に広がった。
尾ひれがつく。
話す人間が増えるたびに、内容も変わっていく。
「森に鬼が住み着いた」
「冒険者を襲ったらしい」
「いや、逆だ。冒険者を助けたらしい」
「魔物を素手で倒したって聞いたぞ」
「鬼神じゃないのか?」
「まさか。そんなものが森にいるわけ……」
誰かが言った。
「……でも、本当にいたんだろ?」
その一言で、酒場が静かになる。
そして誰も知らない。
その「鬼」が。
かつてこの街で笑っていた少女だということを。
かつて多くの仲間と旅をし。
かつて一人の男と結ばれ。
今もなお、その男が必死に取り戻そうとしている。
その少女の名は。
千羽千乃。
そしてその頃。
千乃は魔王城へ戻り、狩ってきた魔物を置いた。
「……食べ物」
ただ、それだけを告げる。
感情のない声。
けれど。
ほんの一瞬。
千乃の指が、魔物の肉から離れた。
その指先に。
小さな光が灯った。
赤でも。
黒でもない。
かつて千乃が使っていた、癒しの光。
しかし千乃自身は、それに気づかなかった。
光はすぐに消えた。
まるで。
忘れられた記憶が、一瞬だけ瞬きをしたように。
魔王城。
千乃が狩ってきた魔物を置いたあと。
しばらくして、魔王がその姿を見た。
「……随分と派手にやったな」
「……?」
千乃は魔王を見る。
特に何かを感じている様子はない。
「森で冒険者と遭遇したそうだな」
「……いた」
「殺したのか?」
「……殺してない」
魔王は少しだけ目を細めた。
「そうか」
千乃は何も言わない。
ただ、先ほど狩ってきた魔物を見ている。
そんな千乃を見ながら、魔王はふと思った。
「……お前には、名が必要だな」
「……名前?」
「ああ」
千乃は首を傾げる。
今の千乃にとって、自分の名前など大した意味を持たない。
けれど魔王は続けた。
「千羽千乃」
「……」
「その名は、かつてのお前の名だろう」
千乃の瞳が、ほんの僅かに揺れる。
だが、それだけだった。
「今のお前には、今のお前に相応しい名がある」
魔王は千乃の頭にある角を見る。
そして、その姿を静かに見つめた。
「鬼となった者」
「……」
「月のように静かでありながら、夜を支配する鬼」
魔王が告げる。
「今日からお前は――」
一拍。
「鬼月姫、だ」
「……鬼月姫」
千乃は、その名前を口にした。
「そうだ」
「……鬼月姫」
もう一度。
その名を呟く。
何度か繰り返しているうちに。
千乃の中で、ひとつの名前が置き換わった。
千羽千乃。
その名前の上から。
新しい名前が重なる。
――鬼月姫。
魔王は満足そうに笑った。
「これからは、その名を名乗れ」
「……分かった」
千乃は頷いた。
そして。
魔王城の窓から差し込む月明かりの中で、鬼の角を持つ少女は静かに立っていた。
かつて千羽千乃だった少女。
今は――
鬼月姫。
その名が、魔王城に刻まれた。
数日後。
千乃……いや。
魔王から新たな名を与えられた少女は、再び森へ来ていた。
目的は、前と同じ。
食べ物を狩るため。
「……」
木々の間を歩いていると。
「た、助けてくれぇ!!」
遠くから声が聞こえた。
千乃が足を止める。
少し離れた場所。
数人の冒険者が、一体の巨大な魔物に追い詰められていた。
「くそっ……強すぎる!」
「こんなの、聞いてないぞ!」
魔物が大きく吠える。
冒険者たちは必死に武器を構えるが、明らかに力の差が大きい。
「……」
千乃はしばらく見ていた。
別に、助ける必要はない。
そう思った。
けれど。
魔物が冒険者へ飛びかかった瞬間。
千乃の身体が動いた。
「……邪魔」
ズドンッ!!
魔物の身体が地面へ叩き落とされる。
「…………え?」
冒険者たちが固まった。
千乃は魔物の前に立っていた。
そして、倒れた魔物を見下ろす。
「……」
拳を握る。
そして、少しだけ顔をしかめた。
「……これ、言うの……?」
誰にも聞こえないほど小さな声。
千乃は迷った。
以前の自分なら。
絶対にノリノリで言っていた。
厨二病全開の技名。
今の自分がやるのは、少し恥ずかしい。
「…………」
しかし。
せっかく魔王から名前まで貰った。
なら。
少しくらいは、それらしく。
千乃は目を閉じる。
そして、ゆっくりと右手を掲げた。
「……闇夜に眠る、鬼の力……」
言いながら、少しだけ顔が赤くなる。
「……月下に集いし魔力よ……」
ちらっ。
冒険者たちを見る。
全員、ぽかんとしている。
「……っ」
さらに恥ずかしくなった。
それでも続ける。
「我が右腕に宿りし――」
一瞬、ためらう。
「……鬼神の力よ」
千乃の周囲に、凄まじい魔力が集まる。
空気が震えた。
木々がざわめく。
地面に亀裂が走る。
「――**鬼月閃**」
ドォォォンッ!!
一閃。
それだけだった。
巨大な魔物は、遥か彼方へ吹き飛んでいった。
「…………」
静寂。
千乃はゆっくり手を下ろす。
「……」
そして。
小さく呟いた。
「……やっぱり恥ずかしい」
冒険者たちは、完全に言葉を失っていた。
「……い、今の……」
「なんだ……?」
「技……?」
「技名を……言った……?」
一人の冒険者が、恐る恐る千乃を見る。
「あ、あの……!」
千乃が振り返る。
「あなたは……一体……?」
「……」
千乃は黙る。
少しだけ迷った。
けれど。
魔王から与えられた名前を思い出す。
「……鬼月姫」
「え?」
「私の名」
それだけ。
千乃は踵を返す。
「ま、待ってくれ!」
呼び止める声を背に。
千乃は森の奥へ消えていった。
残された冒険者たちは、呆然とその背中を見つめていた。
「……鬼月姫」
一人が呟く。
「今の……あの鬼が……そう名乗ったのか?」
「ああ」
「鬼月姫……」
その名前は。
またしても、森から街へ運ばれた。
そして今度は、ただの「鬼」ではなかった。
「森に鬼月姫っていう鬼がいるらしい」
「鬼月姫?」
「ああ。冒険者を襲ってた魔物を、一瞬で倒したらしい」
「また冒険者を助けたのか?」
「どうやらそうらしい」
「敵なのか味方なのか、分からないな……」
噂は広がっていく。
森の鬼。
冒険者を襲わない。
むしろ、冒険者を襲う魔物を倒す。
そして。
自らを――
**鬼月姫**と名乗る。
その噂はやがて、王都にまで届いた。
冒険者ギルド。
酒場。
商人たち。
衛兵たち。
人から人へ。
そして。
真銀たちの耳にも、その名が届いた。
「……鬼月姫?」
真銀が、その言葉を聞いて顔を上げる。
その場にいた全員が、静かになった。
「森に現れた鬼が、そう名乗ったらしいです」
ユラが告げる。
「冒険者を襲っていた魔物を撃退したあと、自ら名乗ったと」
「……鬼月姫」
真銀は、その名をもう一度口にした。
胸の奥が、ざわつく。
理由は分からない。
けれど。
その名前を聞いた瞬間。
なぜか、ひとつの顔が脳裏に浮かんだ。
――千乃。
真銀は、ゆっくりと拳を握った。
「……千乃じゃないか?」
その一言に。
誰も答えられなかった。
王都。
魔王城へ向かう準備が整った。
集まったのは、六人。
夜坂真銀。
勇者カイル。
対話プログラム、ユラ。
従魔のララ、ライ、アイシィ。
そして、その六人を見送ろうとしている人物が一人。
ラブリー・スミス。
「……よし」
真銀が荷物を確認する。
「これで準備はできたな」
「はい、主」
真銀の腕にあるブレスレットから、ユラの声が返ってくる。
「食料、回復用品、野営道具、地図。すべて確認済みです」
「ありがとな、ユラ」
「どういたしまして、主」
その隣では。
「ララも準備ばっちり!」
真っ白なうさぎが元気よく跳ねる。
「おやつも持った!」
「……お前、それが一番重要じゃないだろ」
ライが呆れたように言う。
「重要だよ!」
「そういうところだぞ、ララ」
アイシィも小さな身体を揺らす。
「私は準備できています」
「俺も完璧だ!」
カイルが胸を張る。
「魔王討伐の旅に相応しい、完璧な勇者装備!」
「……」
ララがカイルを見る。
「おまけ勇者!」
「誰がおまけだ!!」
「おまけです」
ユラまで淡々と追撃した。
「ユラ!?」
そんなやり取りを眺めながら。
真銀は、静かに前を見る。
目的地は魔王城。
そこにいる。
千乃が。
今は、鬼月姫と名乗っている。
真銀は拳を握った。
「……行こう」
「はい、主」
ユラが答える。
その時。
「待って!!」
背後から声が飛んできた。
全員が振り返る。
ラブリーだった。
「私も行きます!!」
「……ラブリー」
「行きますから!!」
「いや……」
真銀が困った顔をする。
「今回は、かなり危険だ」
「分かってます!」
「魔王城だぞ?」
「分かってます!!」
「魔王がいるんだぞ?」
「分かってますってば!!」
ラブリーは真銀の前まで走ってくる。
「だから行くんです!!」
「……」
「千乃さんがいるんでしょう!?」
その言葉に。
ラブリーの声が少し震えた。
「だったら……私も……」
「ラブリー」
真銀が静かに名前を呼ぶ。
「今回は、一般冒険者も連れていかない」
「……」
「足手まといになるからだ」
「……私も?」
「……」
真銀が答えに詰まる。
すると。
「戦力として考えると、ラブリー・スミス様は……」
ユラが淡々と口を開いた。
「ほぼゼロです」
「ユラさん!?」
「事実です」
「事実ですけど!!」
ラブリーの目に涙が浮かぶ。
「やだやだ!!」
「……」
「いく! いきたいっ!」
突然、いつもの調子が戻った。
「千乃さんに会いたいんです!!」
「ラブリー……」
「だって千乃さんですよ!?」
「分かってる」
「私、千乃さんのこと大好きなんですよ!?」
「それも知ってる」
「じゃあ連れてってくださいよぉ!!」
完全に駄々っ子だった。
「危ないとか! 戦力にならないとか! そんなの知らないです!!」
「いや、そこは知ってくれ」
ライが冷静に突っ込む。
「やだ!!」
「子供か」
「子供じゃないです!!」
「じゃあ落ち着け」
「落ち着けません!!」
ララがぴょんぴょん跳ねる。
「ラブリー様、がんばれ!」
「ララちゃん! 応援してくれるんですか!?」
「でもお留守番だよ!」
「ララちゃん!?」
アイシィが小さく首を傾げる。
「……ラブリー・スミス様」
「はい?」
「千乃さんを取り戻したいお気持ちは、私たちも同じです」
「……」
「ですが」
アイシィは真銀を見る。
「魔王城へ向かう以上、少しでも戦力を絞る必要があります」
「……」
ラブリーは黙った。
そして。
「…………でも行きたい」
「まだ言うのか」
ライがため息をついた。
真銀は少しだけ笑った。
「ラブリー」
「……はい」
「千乃を取り戻したら、一緒に会いに行こう」
「……」
「だから、ここで待っててくれ」
ラブリーはしばらく黙っていた。
やがて。
「……絶対ですよ?」
「ああ」
「絶対、千乃さんを連れて帰ってきてくださいね?」
「約束する」
「……分かりました」
ラブリーは渋々頷く。
けれど。
「……やっぱり私も――」
「行かない」
「即答!?」
カイルが吹き出す。
「ははは!」
「カイルさん笑わないでください!!」
「いや、悪い悪い!」
真銀は振り返る。
その先には、魔王城へ続く道。
まだ遠い。
そして、その先には。
鬼月姫となった千乃がいる。
「行こう」
真銀が歩き出す。
「はい、主」
ユラ。
「行くぞー!」
ララ。
「……了解」
ライ。
「はい!」
アイシィ。
「任せろ!」
カイル。
五人と一個(?)。
いや。
正確には、真銀、カイル、ユラ、ララ、ライ、アイシィ。
六人の旅が始まった。
その背中を。
「……みなさん、気をつけてくださいね!」
ラブリーが見送る。
そして小さく呟いた。
「……千乃さん」
その声は。
魔王城へ向かう彼らには届かなかった。
こうして。
鬼月姫のいる魔王城へ向けた旅が、始まった。




