静かに見るもの
夜の城門。
氷の大地の上で。
ララがぴょん、と跳ねる。
「まだまだいるよ!」
「……数は減っています。」
アイシィが周囲を見る。
「でも、これ以上は城へ近付けさせません。」
その隣で。
ライが爪を構える。
「ならば。」
「残りは俺が。」
「待って!」
ララが振り返る。
「ライも一緒!」
「……。」
「みんなで守るんだよ!」
ライは一瞬だけララを見る。
そして。
小さく頷いた。
「そうだな。」
---
三人が同時に駆け出す。
白い魔力。
氷の魔力。
そして。
蒼銀の風。
夜の城門前を駆け抜ける。
敵の群れが次々と押し返されていく。
それでも。
一体。
また一体。
城へ向かおうとする。
その瞬間。
「そこ。」
千乃の声。
空から。
無数の羽が降り注ぐ。
敵の目の前で。
羽が地面へ突き刺さる。
進路を塞ぐ。
「ここから先は。」
千乃が空中で静かに告げる。
「私たちの国。」
---
真銀が千乃を見る。
「……。」
千乃は。
以前とは違った。
自分だけで全部を背負うのではない。
仲間が戦っている。
自分は。
その背中を支える。
それだけでいい。
---
ララが叫ぶ。
「あとちょっと!」
「ララ。」
アイシィが呼ぶ。
「右です。」
「任せて!」
ララが飛び込む。
ずばばばばっ!
白い魔力が弾ける。
「終わり!」
敵の群れが。
一気に消えていく。
---
静寂。
風だけが吹く。
氷が少しずつ溶ける。
ララが振り返る。
「……。」
城を見る。
「守れた?」
アイシィが微笑む。
「ええ。」
「無事です。」
ライも城を確認する。
「問題ない。」
ララが嬉しそうに笑う。
「よかったぁ。」
---
城の上空から。
千乃と真銀が降りてくる。
「みんな。」
千乃が笑う。
「お疲れ様。」
ララが駆け寄る。
「千乃ー!」
「守ったよ!」
千乃はしゃがんで。
ララの頭を撫でる。
「うん。」
「ありがとう。」
アイシィも近付く。
「城にも街にも被害はありません。」
ライが続ける。
「敵は全て退けた。」
千乃は。
三人を見る。
「……。」
「ありがとう。」
その言葉に。
ライは尻尾を揺らす。
アイシィは微笑む。
ララは胸を張る。
「えへへ!」
---
その後。
城門の前。
ラブリーが記録結晶を掲げていた。
「……。」
真銀が嫌な予感を覚える。
「何してる?」
「もちろん!」
ラブリーが満面の笑顔になる。
「帰る場所を守った皆さんの勇姿を!」
「永久保存です!!」
「やっぱりか。」
千乃が笑う。
「でも。」
ラブリーは結晶を見る。
「こういう記録も。」
「きっと大切になりますよ。」
桜の花びらが。
一枚。
夜風に乗って飛んでいく。
誰かが帰ってくる場所。
誰かを待つ場所。
そして。
みんなで守る場所。
星空の城は。
今日も静かに。
そこに建っていた。
夜。
敵の群れを退けたあと。
星空の城には、再び静けさが戻っていた。
城門の前では、ララたちが戦いの痕跡を確認している。
千乃は少し離れた場所で。
ふと。
足を止めた。
「……。」
風が止まる。
桜の枝も。
揺れない。
千乃の瞳が。
ゆっくりと森の向こうへ向く。
「……また。」
真銀が振り返る。
「どうした?」
千乃は答えない。
ただ。
森を見る。
ずっと前から。
感じていた。
視線。
ララと契約した時。
ライと出会った時。
アイシィと契約した時。
それからずっと。
時々。
誰かに見られているような感覚があった。
気のせいだと思っていた。
でも。
違った。
「……いる。」
ライが耳を立てる。
「何が?」
千乃は目を細める。
「私たちを見てる。」
「ずっと。」
---
アイシィが周囲を見渡す。
「……私も。」
「今。」
「何か感じました。」
ララも耳をぴんと立てる。
「ララは分かんない。」
「でも。」
「千乃が怖い顔してる。」
「怖い顔じゃないよ。」
千乃は苦笑する。
「警戒してるだけ。」
その瞬間。
森の奥。
何もなかった空間に。
黒い光が浮かんだ。
一つ。
二つ。
やがて。
巨大な魔法陣へ変わる。
「……!」
真銀が剣に手をかける。
ライが前へ出る。
アイシィの周囲に冷気が集まる。
ララも構える。
そして。
魔法陣の中心から。
一人の男が歩いてくる。
黒い外套。
長い角。
赤い瞳。
圧倒的な魔力。
その存在だけで。
周囲の空気が重くなる。
---
男は。
城を見上げる。
「……星空の城。」
そして。
千乃を見る。
「ようやく。」
「直接会えたな。」
千乃の目が細くなる。
「……誰?」
男は。
静かに笑った。
「俺か?」
「そうだな。」
一歩。
こちらへ近付く。
「魔王。」
空気が凍る。
ララが目を丸くする。
「魔王!?」
アイシィの表情が変わる。
「……なるほど。」
ライが低く唸る。
「ずっと。」
「主を見ていたのは。」
魔王は。
ライを見る。
「そうだ。」
「お前たちと契約した時から。」
千乃の表情が変わる。
「……やっぱり。」
魔王は頷く。
「お前がララと契約した日。」
「ライと契約した日。」
「アイシィと契約した日。」
「全て見ていた。」
---
千乃は。
一歩前へ出る。
「何のために?」
魔王は答えない。
ただ。
千乃を見る。
「興味があった。」
「お前に。」
「……私?」
「そうだ。」
魔王の赤い瞳が。
千乃を捉える。
「この世界に突然現れ。」
「神にも。」
「悪魔にも。」
「鬼にもなり。」
「それでも。」
「仲間を増やし。」
「国まで作った。」
「そんな存在。」
魔王が。
ほんの少し笑う。
「面白いと思わないか?」
千乃の背中から。
翼がゆっくり開く。
「……。」
「私は。」
「面白半分で見られるほど。」
「軽い人生送ってないよ。」
魔王の笑みが消える。
「……そうだな。」
---
真銀が千乃の隣に立つ。
「何が目的だ。」
魔王は真銀を見る。
「まだ。」
「それを話す時ではない。」
「では。」
魔王は。
背を向ける。
「また会おう。」
黒い魔法陣が展開される。
その直前。
千乃が声をかける。
「待って。」
魔王が振り返る。
「あなた。」
「私たちをずっと見てたなら。」
千乃は真っ直ぐ魔王を見る。
「どうして。」
「今まで何もしなかったの?」
魔王は。
少しだけ笑った。
「……。」
「それは。」
「お前が何者なのか。」
「確かめたかったからだ。」
そして。
黒い光の中へ消えていく。
---
静寂。
誰も喋らない。
ララが。
ぽつり。
「……魔王。」
アイシィが空を見上げる。
「ずっと。」
「見られていたのですね。」
ライは千乃を見る。
「主。」
「……。」
千乃は。
魔王が消えた場所を見つめていた。
「うん。」
そして。
小さく呟く。
「やっと。」
「正体が分かった。」
星空の城。
その上空。
一つの黒い影だけが。
遠くへ消えていった。
魔王と出会ってから。
三日。
四日。
一週間。
千乃自身は。
何も変わっていないと思っていた。
いつも通り笑う。
いつも通り仲間と話す。
いつも通り魔法を使う。
いつも通り。
真銀の隣にいる。
けれど。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
何かが。
変わり始めていた。
---
「千乃。」
朝。
真銀が声をかける。
「ん?」
「昨日の夜。」
「庭にいたか?」
千乃は首を傾げる。
「……庭?」
「ああ。」
「ずっと起きてたのか?」
「ううん。」
「じゃあ、俺の気のせいか。」
真銀はそれ以上聞かなかった。
ただ。
千乃の瞳を見て。
一瞬。
違和感を覚えた。
---
食堂。
ララが千乃の膝に飛び乗る。
「千乃ー!」
「なに?」
「今日、一緒に街行こ!」
「うん。」
千乃は笑う。
ララも笑う。
けれど。
その瞬間。
千乃の指先から。
黒い魔力が。
ほんの一瞬だけ漏れた。
「……?」
ライが気付く。
しかし。
すぐに消えた。
「どうしたの?」
千乃がライを見る。
「……いや。」
ライは目を細める。
「何でもない。」
---
その日の夜。
千乃は一人。
庭に立っていた。
月明かり。
静かな夜。
千乃は自分の手を見る。
「……。」
赤い魔力。
いつもの魔力。
その奥に。
知らない色が混ざっている。
黒。
けれど。
完全な黒ではない。
どこか赤く。
どこか紫がかっている。
「これ……。」
千乃が指を動かす。
黒い魔力が。
意思を持つように指へ絡みつく。
「前から。」
「こんなのあったっけ。」
---
「あるわけがない。」
突然。
声がした。
千乃が振り返る。
誰もいない。
「……。」
気のせい。
そう思った。
けれど。
庭の木々の影から。
赤い瞳が一瞬だけ覗いた。
「魔王……?」
影は消える。
千乃は。
追わなかった。
---
翌日。
千乃は魔法の訓練をしていた。
火。
風。
雷。
氷。
いつもの魔法。
ところが。
「……。」
千乃が手を止める。
「もう少し。」
「強くできるかも。」
魔力を込める。
炎が大きくなる。
さらに。
大きく。
大きく。
「千乃!」
真銀が叫ぶ。
「止めろ!」
千乃は。
はっとする。
炎は。
自分の意思とは関係なく。
庭の端まで広がっていた。
「……え?」
千乃が手を下ろす。
炎は消える。
「ごめん。」
「ちょっと。」
「力加減間違えた。」
真銀は。
千乃を見る。
「……本当に?」
「うん。」
笑う。
いつもの笑顔。
でも。
真銀には。
その笑顔が。
少しだけ不自然に見えた。
---
さらに数日。
変化は。
少しずつ増えていった。
千乃は夜になると。
庭へ出るようになった。
黒い魔力を。
無意識に纏うようになった。
時々。
誰もいない場所を見て。
何かを聞いているような顔をする。
そして。
魔法を使う時。
以前にはなかった。
妙な感覚。
「……。」
千乃が手を伸ばす。
黒い魔力が。
指先から伸びる。
その形は。
まるで翼。
「……綺麗。」
千乃は。
そう呟いた。
---
その夜。
ライが千乃の前に立つ。
「主。」
「ん?」
「最近。」
「何か変わったか?」
千乃は笑う。
「急にどうしたの?」
「質問に答えてほしい。」
「……。」
少し沈黙。
「分かんない。」
千乃は自分の手を見る。
「私も。」
「何が起きてるのか。」
「よく分からない。」
ライは。
千乃の目を見る。
「なら。」
「俺は。」
「主の変化を見ている。」
「……うん。」
「どれだけ姿が変わっても。」
ライは静かに続ける。
「俺は見失わない。」
千乃は。
少しだけ目を伏せた。
「……ありがとう。」
---
しかし。
その夜。
千乃が眠ったあと。
ベッドの横。
黒い魔力が。
ゆっくり浮かび上がった。
そして。
千乃の身体へ。
静かに吸い込まれていく。
「……。」
眠っている千乃の髪が。
一瞬だけ。
白く変わる。
赤い瞳が。
閉じたまま。
ほんの少し。
揺れた。
そして。
耳元に。
誰かの声。
「近づいている。」
「もうすぐ。」
「お前は。」
「こちら側へ。」
千乃は。
何も知らない。
ただ。
眠り続けていた。
その姿は。
少しずつ。
人の領域から。
魔の領域へ。
近づいていた。
翌朝。
千乃は目を覚ました。
「……ん。」
いつものように。
ベッドから起き上がる。
鏡の前へ向かう。
そして。
「……。」
足が止まった。
鏡に映っているのは。
白い髪。
真紅の瞳。
二本の角。
尖った歯。
そして。
黒を基調とした和服。
以前、魔化した時と。
まったく同じ姿だった。
「……え?」
千乃は髪を一房つまむ。
白い。
「戻って……ない。」
---
「千乃?」
扉の向こうから真銀の声。
「起きてるか?」
「……うん。」
扉が開く。
真銀が入ってきた瞬間。
目を見開いた。
「千乃。」
「これ……。」
千乃は鏡を見る。
「昨日の夜から。」
「ずっとこのまま。」
「魔力を切っても。」
「戻らない。」
真銀が近付く。
「神化でもないのか?」
「違う。」
千乃が手を握る。
黒い魔力が一瞬だけ滲む。
「これ。」
「勝手に出てくる。」
---
真銀は。
千乃の角を見る。
白い髪を見る。
そして。
真紅の瞳を見る。
「痛くないか?」
「うん。」
「苦しくは?」
「ない。」
「意識は?」
千乃は少し笑う。
「ちゃんと私。」
その答えに。
真銀は少しだけ安心する。
けれど。
完全には安心できなかった。
---
食堂。
「おはよー!」
ララが元気よく駆け寄ってきて。
ぴたり。
止まる。
「……。」
「千乃?」
「うん。」
「なんで白いの?」
「分かんない。」
ララは千乃の周りをぐるぐる回る。
「角もある。」
「あるね。」
「目も赤い。」
「赤いね。」
「……。」
ララが千乃の手を握る。
「でも千乃だね!」
千乃は少し笑う。
「うん。」
---
ライは。
千乃を見るなり。
静かに立ち上がった。
「……。」
「主。」
「大丈夫。」
千乃が先に言う。
ライはしばらく千乃を見る。
そして。
「分かった。」
それだけ。
けれど。
その声には。
いつも以上の警戒が滲んでいた。
---
アイシィも。
千乃の周囲を漂う魔力を見る。
「……これは。」
「普通の魔化とは違います。」
「やっぱり?」
「ええ。」
アイシィが少し考える。
「魔力によって姿を変えているのではなく。」
「魔力そのものが。」
「この姿を維持しているように見えます。」
千乃は自分の手を見る。
「つまり。」
「戻れないってこと?」
「今のところは。」
---
ラブリーが。
記録結晶を構える。
「これは……!」
「撮らないで。」
「はい!」
即座にしまう。
「珍しく素直。」
「今は真面目な場面ですから!」
真銀が千乃を見る。
「……。」
「大丈夫。」
千乃が笑う。
「私は私だよ。」
「姿が変わっただけ。」
真銀は。
その言葉を聞いて。
少しだけ目を伏せる。
「……そうだな。」
---
その日の昼。
千乃は街へ出た。
白い髪。
真紅の瞳。
和服姿。
角。
当然。
街の人々は驚く。
けれど。
千乃が手を振ると。
「千乃様!」
「おはようございます!」
いつものように。
笑顔が返ってくる。
千乃は。
少し驚いた。
そして。
嬉しそうに笑った。
「……そっか。」
姿が変わっても。
ここで暮らす人たちは。
自分を千乃として見てくれている。
---
その夜。
千乃は再び鏡を見る。
白い髪。
赤い瞳。
和服。
角。
「……。」
指先から。
黒い魔力が漏れる。
千乃は。
それを見つめる。
「魔王と会ってから。」
「少しずつ。」
「変わってる。」
背後から。
真銀の声。
「千乃。」
「……うん。」
「怖いか?」
千乃は。
少しだけ考える。
「分からない。」
「でも。」
鏡の中の自分を見る。
「この姿になったからって。」
「私まで別人になるつもりはないよ。」
真銀は。
静かに頷いた。
「なら。」
「俺も同じだ。」
千乃が振り返る。
「何があっても。」
真銀は真っ直ぐ千乃を見る。
「お前は千乃だ。」
その言葉に。
千乃は小さく笑った。
けれど。
鏡の中。
千乃の瞳の奥で。
ほんの一瞬。
赤黒い光が揺れた。
本人は。
まだ気付いていなかった。
それから。
数日。
千乃の姿は、戻らなかった。
白い髪。
真紅の瞳。
二本の角。
黒い和服。
それだけなら。
まだ誰も気にしなかった。
姿が変わっただけ。
そう思っていた。
けれど。
変わっていたのは。
姿だけではなかった。
---
「千乃ー!」
朝。
ララがいつものように飛び込んでくる。
「今日さ、一緒に――」
「……うるさい。」
「え?」
ララが止まる。
千乃は。
窓の外を見たまま。
「朝から騒がないで。」
「……。」
ララの耳が下がる。
「ご、ごめん。」
「別に。」
千乃は。
それだけ言って。
部屋を出ていった。
---
食堂。
ライが千乃を見る。
「主。」
「何?」
「昨夜は眠れたか?」
「普通。」
「そうか。」
以前なら。
「ライは?」
「ちゃんと寝た?」
なんて聞き返していた。
今日は。
それがない。
ライは。
何も言わなかった。
---
アイシィが。
千乃の前に紅茶を置く。
「どうぞ。」
「……。」
千乃は。
カップを見る。
「いらない。」
「……。」
「飲みたくないから。」
アイシィは。
静かにカップを下げた。
「分かりました。」
その声は。
いつも通り穏やかだった。
でも。
瞳には。
僅かな不安があった。
---
真銀は。
ずっと千乃を見ていた。
「千乃。」
「何?」
「最近。」
「何かあったか?」
「別に。」
「……。」
「何もないよ。」
千乃は笑った。
けれど。
その笑顔は。
以前とは違った。
口元だけ。
笑っている。
目が。
笑っていない。
---
昼。
城の庭。
千乃は。
一人で魔法の訓練をしていた。
黒い魔力が。
以前より濃くなっている。
「……。」
手を伸ばす。
黒い羽が。
大量に現れる。
一本。
また一本。
地面へ突き刺さる。
その威力は。
以前より明らかに強い。
千乃は。
それを見て。
笑った。
「……これ。」
「いい。」
以前なら。
力が強すぎれば。
怖がった。
周囲を気にした。
でも。
今は。
違う。
「もっと。」
魔力を込める。
黒い羽が。
さらに増える。
---
「主。」
背後から。
ライ。
千乃は振り返る。
「何?」
「少し。」
「魔力を抑えたほうがいい。」
「どうして?」
「庭が。」
千乃が周囲を見る。
地面には。
無数の亀裂。
木々は。
魔力で揺れている。
「……。」
千乃は。
少しだけ笑った。
「直せばいいじゃん。」
「……。」
「いつもそうしてたでしょ。」
魔法を解除。
一瞬で。
庭が元に戻る。
けれど。
ライは。
千乃を見続けていた。
「……以前の主なら。」
千乃が振り返る。
「何?」
「まず。」
「みんなの心配をした。」
沈黙。
千乃の瞳が。
赤く光る。
「……私だって。」
「心配してるよ。」
「ただ。」
「今は。」
「力の方が。」
「ずっと楽。」
---
その言葉に。
ライは何も返せなかった。
---
夜。
真銀は。
千乃の部屋の前に立っていた。
ノック。
「千乃。」
返事がない。
もう一度。
「千乃。」
「……入って。」
扉を開ける。
千乃は。
窓辺に立っていた。
月明かりの中。
白い髪が揺れている。
「何?」
「話がしたい。」
「……。」
「昔のお前は。」
「もっと。」
真銀が言葉を探す。
「もっと笑ってた。」
千乃は。
振り返る。
「今も笑ってる。」
「そういうことじゃない。」
「じゃあ何?」
声が。
少し低くなる。
「俺が知ってる千乃は。」
「こんな顔で笑わない。」
「……。」
千乃の瞳が。
細くなる。
「知ったようなこと言わないで。」
真銀が。
息を呑む。
「私は。」
「私だよ。」
「でも。」
千乃は。
自分の胸元に手を当てる。
「最近。」
「こっちの方が。」
「ずっと自然。」
黒い魔力が。
身体を包む。
「この力。」
「この姿。」
「この感覚。」
「全部。」
「私のものみたい。」
---
真銀は。
一歩近付く。
「千乃。」
「何。」
「戻ってこい。」
千乃の表情が。
一瞬だけ揺れる。
「……。」
けれど。
すぐに消える。
「戻る?」
「どこに?」
「私。」
「もう。」
「こっちの方が私なんだよ。」
---
真銀は。
言葉を失う。
千乃が。
部屋を出ていく。
その背中を。
ただ見つめる。
---
廊下。
千乃は。
一人で歩く。
白い髪。
赤い瞳。
黒い和服。
その影だけが。
妙に長く伸びている。
そして。
千乃自身も気付かないほど小さな声で。
「……千乃。」
自分の名前を。
呟く。
「……誰だっけ。」
その瞬間。
赤い瞳が。
ほんの一瞬。
深い黒に染まった。
それから、さらに数日。
千乃の変化は、もう「魔王の影響かもしれない」という言葉だけでは片付けられなくなっていた。
白髪。
真紅の瞳。
角。
黒い和服。
それらは、もはや一時的な魔化ではない。
けれど。
一番おかしいのは、そこじゃなかった。
千乃自身が。
少しずつ、**鬼に近づいている。**
理由は。
誰にも分からない。
魔王から何かをされたわけでもない。
新しい契約を結んだわけでもない。
呪いを受けたわけでもない。
ただ。
日を追うごとに。
少しずつ。
人間だった頃の千乃から。
何かが遠ざかっていた。
---
朝。
千乃は鏡の前に立っていた。
「……。」
昨日より。
角が少し大きくなっている。
「……また?」
指で触れる。
硬い。
確かに。
自分の身体の一部になっている。
そして。
口を開く。
尖った歯。
「……。」
以前なら。
驚いていた。
怖がっていた。
でも。
今は。
「……別に。」
何とも思わない。
むしろ。
自然だった。
---
食堂。
ララが千乃を見る。
「千乃。」
「なに?」
「角。」
「うん。」
「昨日より大きくなってない?」
「そう?」
「うん。」
ララは首を傾げる。
「なんで?」
「分かんない。」
千乃はパンを一口食べる。
「でも。」
「別に困ってないよ。」
「……。」
ララは。
何も言えなくなる。
---
ライは。
じっと千乃を見る。
「主。」
「何?」
「牙が。」
「これ?」
千乃が口元を指す。
「そうだ。」
「伸びた。」
「……。」
ライは黙る。
千乃が笑う。
「そんな顔しないでよ。」
「私は平気。」
ライは。
低く答える。
「俺は。」
「平気ではない。」
千乃が。
少しだけ目を見開く。
「……そっか。」
それだけ。
---
その日の午後。
千乃は庭に出た。
魔法を使う。
赤い魔力。
黒い魔力。
そして。
その二つが混ざった。
禍々しい魔力。
「……。」
千乃が手を握る。
空気が震える。
地面に。
黒い紋様が浮かぶ。
「これ。」
「前より。」
「使いやすい。」
魔力を放つ。
ドンッ!
庭の一角が吹き飛ぶ。
でも。
千乃は驚かなかった。
ただ。
眺める。
「……。」
そして。
笑う。
「もっと。」
---
「千乃!」
真銀が駆けてくる。
「止めろ!」
千乃は振り返る。
「どうして?」
「今の魔力。」
「危険すぎる。」
「でも。」
千乃は。
自分の手を見る。
「気持ちいい。」
真銀が。
言葉を失う。
「……千乃。」
「この力。」
「私。」
「好きかもしれない。」
---
その瞬間。
真銀は。
初めて気付いた。
これは。
力の問題じゃない。
千乃の心そのものが。
少しずつ。
変わっている。
---
夜。
城の屋根。
千乃は一人で座っていた。
月を見る。
「……。」
遠く。
どこかから。
声がする。
「お前は。」
「人ではない。」
千乃は。
目を閉じる。
「……。」
「もうすぐ。」
「こちらへ来る。」
千乃は答えない。
ただ。
自分の手を見る。
黒い爪。
以前より。
少し長くなっている。
「……鬼。」
その言葉を。
口にしてみる。
不思議と。
嫌ではなかった。
「……鬼。」
もう一度。
呟く。
すると。
背中から。
黒い魔力が噴き出した。
羽ではない。
煙でもない。
まるで。
何か生き物のように。
千乃を包み込む。
「……。」
千乃の髪が。
さらに白くなる。
角が。
僅かに伸びる。
瞳の赤が。
深くなる。
そして。
千乃は。
月を見ながら。
静かに笑った。
「……なんでだろ。」
「鬼って。」
「こんなに。」
「落ち着くんだろう。」
---
その様子を。
城の影から見ていたライ。
隣には。
真銀。
アイシィ。
ララ。
誰も。
声を出せない。
ララが。
小さな声で呟く。
「千乃。」
ライは。
拳を握る。
「……。」
そして。
静かに。
それでも。
はっきりと言う。
「どれだけ変わろうと。」
「俺たちにとっては。」
真銀が。
その先を見つめる。
「千乃だ。」
けれど。
その夜。
誰も知らなかった。
千乃の変化が。
まだ。
始まったばかりだということを。
翌朝。
千乃は、いつも通り食堂へ来た。
「おはよー!」
ララが駆け寄る。
「……おはよう。」
「今日ね、昨日見つけた花が――」
「そう。」
千乃は椅子に座る。
ララが止まった。
「……?」
「どうしたの?」
「ううん。」
ララは笑おうとする。
「なんでもない!」
けれど。
千乃は、その笑顔を見ても。
何も感じなかった。
以前なら。
「なにその顔」
とか。
「朝から元気だね」
とか。
笑っていた。
今は。
ただ。
「……。」
食事を続ける。
---
少しずつ。
変化は広がっていった。
ララが転んでも。
「大丈夫?」
と言わなくなった。
アイシィが珍しい魔法を見せても。
「すごい!」
と言わなくなった。
ライが街の警備から戻ってきても。
「お疲れ様」
と言わなくなった。
ラブリーが大袈裟に騒いでも。
「また始まった」
と笑うことすらなくなった。
そして。
真銀が話しかけても。
以前ほど。
嬉しそうにしなくなった。
---
「千乃。」
「何?」
「今日、街に行かないか?」
「……どっちでもいい。」
真銀が止まる。
「どっちでもいい?」
「うん。」
「行きたいとか。」
「行きたくないとかは?」
「特にない。」
千乃は。
淡々と答えた。
「真銀が行きたいなら行けばいい。」
「俺は。」
「お前と行きたい。」
「……そう。」
それだけ。
真銀は。
胸の奥が冷たくなるのを感じた。
---
庭。
千乃は魔法の訓練をしている。
以前なら。
成功すれば笑った。
失敗すれば悔しがった。
今は。
どちらでもない。
炎が大きくなっても。
氷が砕けても。
ただ。
淡々と繰り返す。
「……。」
真銀が見ている。
「千乃。」
「何?」
「楽しいか?」
「……。」
千乃は考える。
長い。
そして。
「分からない。」
「嬉しいとか。」
「楽しいとか。」
「最近。」
「よく分からない。」
真銀の表情が曇る。
「悲しいことは?」
「それも。」
「分からない。」
---
夜。
千乃は鏡を見る。
白い髪。
真紅の瞳。
角。
黒い和服。
そして。
無表情。
「……。」
鏡の中の自分を見る。
以前なら。
「変な格好。」
と笑ったかもしれない。
今は。
何も思わない。
「……私。」
「何か。」
「なくなってる?」
答えはない。
ただ。
鏡の中の赤い瞳が。
静かにこちらを見ている。
---
その時。
扉が開いた。
真銀だった。
「千乃。」
「……。」
「入っていいか?」
「うん。」
真銀が隣に立つ。
「最近。」
「感情が薄くなってる。」
千乃は。
否定しなかった。
「そうかも。」
「怖くないのか?」
「……。」
「分からない。」
「悲しくない?」
「分からない。」
「俺といても?」
千乃の瞳が。
ほんの少し揺れる。
「……。」
「それは。」
「……。」
言葉が出ない。
真銀は。
千乃を見る。
「千乃。」
「何?」
「俺は。」
「お前が笑ってくれるのが好きだった。」
「……。」
「怒るところも。」
「泣くところも。」
「くだらないことで喜ぶところも。」
「全部。」
千乃は。
じっと真銀を見る。
そして。
小さく。
「……そう。」
その一言だけ。
真銀の胸が痛む。
---
廊下。
真銀が部屋を出たあと。
千乃は。
一人になった。
「……。」
胸に手を当てる。
何もない。
悲しくない。
寂しくない。
怖くない。
でも。
ほんの一瞬。
何かが。
胸の奥で。
小さく揺れた。
「……。」
千乃は。
それを掴もうとする。
けれど。
掴めない。
その瞬間。
黒い魔力が。
身体を包んだ。
「……。」
白い髪が揺れる。
角が僅かに大きくなる。
そして。
千乃の表情から。
また一つ。
人間らしい感情が。
静かに消えていった。
それから、さらに数日。
千乃の感情は。
少しずつ。
少しずつ。
薄くなっていった。
最初に消えたのは、表情だった。
次に。
声の抑揚。
そして。
人との距離感。
---
朝。
ララがいつものように千乃の部屋へ飛び込んでくる。
「千乃! 起きてるー?」
「……起きてる。」
「今日ね、街で新しいお菓子が――」
「そう。」
「……。」
ララが首を傾げる。
「千乃、聞いてる?」
「聞いてるよ。」
「じゃあ、なんて思った?」
「特に何も。」
「……。」
ララの耳が垂れる。
千乃はそれを見ても。
以前のように慌てなかった。
「どうしたの?」
「……ううん。」
「そう。」
それだけ。
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食堂。
ラブリーが大声で叫ぶ。
「本日の朝食はこちらです!!」
「……。」
千乃は黙々と食べる。
「千乃さん?」
「何?」
「感想を!」
「普通。」
「普通!?」
ラブリーが固まる。
以前なら。
「おいしい!」
くらいは言っていた。
今は。
美味しいかどうかさえ。
あまり重要ではなかった。
---
昼。
アイシィが千乃の前に立つ。
「千乃さん。」
「何?」
「少し。」
「お時間をいただいても?」
「いいよ。」
アイシィは。
千乃の顔を見る。
「最近。」
「何か感じることはありますか?」
「……。」
千乃は。
少し考えた。
「分からない。」
「嬉しいとか。」
「悲しいとか。」
「怒るとか。」
「そういうのが。」
「遠い。」
アイシィは黙る。
「……そうですか。」
「でも。」
千乃は続ける。
「別に困ってない。」
その言葉に。
アイシィの表情が僅かに曇った。
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その日の夕方。
ライが庭で千乃を見つけた。
「主。」
「……。」
「何をしている?」
「何も。」
千乃は。
ただ空を見ていた。
「今日は。」
「魔法の練習をしないのか?」
「必要ない。」
「そうか。」
ライは隣に座る。
しばらく。
二人とも黙っていた。
「主。」
「何?」
「俺が。」
「もし。」
「戻ってこいと言ったら。」
千乃は。
ライを見る。
「どこに?」
ライは。
答えられなかった。
「……。」
千乃は。
視線を空へ戻す。
「私。」
「今のほうが静かで。」
「楽なんだ。」
ライの胸が。
僅かに締め付けられる。
---
夜。
真銀が千乃の部屋へ入る。
「千乃。」
「うん。」
「今日。」
「ライと話してたな。」
「話した。」
「何を?」
「分からない。」
「……。」
真銀は。
千乃の前に座る。
「俺のこと。」
「どう思ってる?」
千乃は。
じっと真銀を見る。
「……。」
長い沈黙。
「大切。」
真銀の目が少し開く。
「そうか。」
「でも。」
千乃は続ける。
「その言葉が。」
「前みたいに。」
「胸に響かない。」
真銀は。
黙った。
「……千乃。」
「うん。」
「それでも。」
真銀は千乃の手を見る。
「俺はここにいる。」
千乃は。
手を見つめる。
「……そう。」
「だから。」
「何?」
「忘れないでくれ。」
「何を?」
「俺たちのことを。」
千乃は。
少しだけ首を傾げた。
「忘れるのかな。」
「分からない。」
その答えが。
一番怖かった。
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深夜。
千乃は鏡の前に立つ。
白い髪。
赤い瞳。
角。
黒い和服。
そして。
以前より。
さらに尖った歯。
「……。」
千乃は。
鏡に触れる。
「私。」
「誰?」
答えはない。
その瞬間。
鏡の中の千乃が。
ほんの一瞬だけ。
笑った。
けれど。
現実の千乃は。
笑っていなかった。
黒い魔力が。
鏡の表面を這う。
千乃の瞳から。
最後に残っていた人間らしい光が。
また一つ。
静かに。
消えていった。




