すれ違う日々
111話。ポッキー回ですね笑
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翌日。
「真銀!」
朝食の時間。
千乃は嬉しそうに手を振った。
「昨日ね! 魔法も神靴も全部戻っ……」
真銀は足を止めた。
一瞬だけ千乃を見る。
その瞳はいつも通り優しかった。
それなのに。
「……おはよう。」
それだけ言って、席へ向かう。
「え?」
千乃は目をぱちぱちさせた。
「真銀?」
返事はなかった。
真銀はエリシアの向かいへ座る。
エリシアは静かに紅茶を口へ運び、小さく微笑んだ。
---
朝食中。
「真銀、このパン美味しいよ!」
千乃が笑顔で皿を差し出す。
真銀は一瞬だけ視線を向けた。
「……。」
受け取ろうとした手が止まる。
約束。
頭に浮かぶ。
ゆっくりと手を引っ込めた。
「悪い。」
「今日は食欲ない。」
「そっか……。」
千乃はパンを戻した。
「またあとで食べてね。」
笑顔だった。
でも、その笑顔は少しだけぎこちなかった。
---
昼。
中庭。
千乃は神化して飛行の練習をしていた。
「見て!」
「急停止もできるようになった!」
くるり、と一回転して着地する。
以前なら。
真銀が拍手してくれた。
「すごいな。」
そう笑ってくれた。
でも今日は。
真銀は立ち止まらない。
そのまま通り過ぎていく。
「真銀?」
聞こえていないはずがない距離だった。
それでも。
振り返らなかった。
---
夕方。
図書室。
千乃は新しい魔法陣の本を見つけた。
「これ真銀好きそう!」
嬉しくなって本を抱える。
「あ!」
廊下の先に真銀がいた。
「真銀!」
駆け寄ろうとした。
しかし。
エリシアが自然に真銀の隣へ並ぶ。
「真銀様。」
「先ほどの続きを。」
「ああ。」
二人はそのまま歩いていく。
千乃は立ち止まった。
本を抱えたまま。
静かに。
「……。」
---
夜。
ララが首を傾げる。
「ねぇ。」
「最近、真銀おかしくない?」
「うん。」
アイシィも心配そうに頷く。
「千乃さんを避けているように見えます。」
ライは腕を組んだ。
「避けている。」
「だが。」
「嫌っている様子ではない。」
「え?」
「視線だけは、いつも千乃を追っている。」
「なのに近付かない。」
ララは困った顔になる。
「意味分かんないよ……。」
---
その夜。
千乃は城の屋上にいた。
星空を見上げながら。
足をぶらぶらさせる。
「……。」
神靴は戻った。
魔法も戻った。
飛べる。
歩ける。
全部戻った。
なのに。
「なんで……?」
胸だけが苦しい。
「私。」
「何かしたのかな。」
思い返しても。
何も分からない。
真銀は怒っている様子でもない。
冷たいわけでもない。
でも。
近付いてくれない。
話してくれない。
笑ってくれない。
「……。」
千乃は膝を抱えた。
その頃。
少し離れた別の塔の上。
真銀もまた、一人で夜空を見上げていた。
「ごめんな。」
誰にも聞こえない声だった。
「もう少しだけ。」
「耐えてくれ。」
そう呟いても、その願いが千乃に届くことはなかった。
二人は同じ星空を見上げている。
それでも、その距離は今までで一番遠く感じられていた。
数日後。
真夜中。
城の書庫。
「……。」
千乃は一人、本棚の奥にある古い魔導具を分解していた。
「この術式……。」
魔法陣。
記録結晶。
記憶保存。
「……これ。」
千乃は目を細める。
世界修正体との戦い以降。
魔法だけでなく、魔導具や術式の解析も得意になっていた。
「暗号化?」
指先へ真紅の魔力を集める。
「解析。」
幾重にも組まれた術式が、一枚ずつ剥がれていく。
カチ……
カチ……
「見つけた。」
隠されていた記録結晶が淡く光った。
---
映像が映し出される。
そこにいたのは。
真銀。
そして。
エリシア。
千乃は思わず息を止めた。
『返せ。』
真銀の低い声。
『神靴。』
『車椅子。』
『……魔法まで封じたのも、お前だろ。』
映像は続く。
そして。
エリシアの言葉が響いた。
『返却には条件があります。』
千乃の表情が変わる。
『今後。』
『真銀様から千乃様へ関わりに行かないこと。』
『千乃様へ話しかけない。』
『自分から近付かない。』
『二人きりにならない。』
『そして。』
『真銀様は、私以外とは話さないこと。』
千乃の瞳が揺れる。
「……。」
映像は最後まで流れた。
『分かった。』
真銀の答え。
その一言。
そのあと。
神靴も。
車椅子も。
魔法も返された。
記録が終わる。
部屋は静まり返った。
---
「そういう……ことだったんだ。」
千乃は俯いた。
「私を避けてたんじゃない。」
「約束を守ってたんだ。」
少し笑う。
涙が一滴落ちた。
「ばか。」
「なんで一人で背負うの。」
その笑顔はすぐに消えた。
代わりに。
静かな怒りが込み上げてくる。
「……エリシア。」
部屋中へ真紅の魔力が広がる。
ゴォォ……
窓ガラスが震えた。
本棚が軋む。
翼が一枚。
また一枚。
広がる。
神化。
「人の大切な人を。」
「脅して。」
「利用して。」
「笑ってたんだ。」
瞳から感情が消えた。
「許さない。」
---
バンッ!!
応接室の扉が勢いよく開いた。
エリシアが驚いて立ち上がる。
「千乃様……?」
その瞬間。
ドンッ!!
真紅の魔力が部屋を埋め尽くした。
護衛たちが一斉に武器を構える。
「皇女様!」
千乃は護衛を見もしない。
視線はエリシアだけ。
「……ねぇ。」
静かな声だった。
「私。」
「全部知った。」
エリシアの表情が固まる。
「何のことでしょう。」
「まだ。」
「しらばっくれるの?」
千乃が一歩踏み出す。
バサッ……
六枚の翼がゆっくり広がる。
真紅の羽根が一枚。
また一枚。
ふわりと宙へ浮かぶ。
護衛たちが息を呑む。
「動くな。」
一人が叫ぶ。
しかし。
千乃は止まらない。
「真銀に。」
「条件を出したよね。」
「私に近付くなって。」
「話すなって。」
「全部返す代わりに。」
「違う?」
エリシアは答えない。
沈黙。
それが答えだった。
千乃の怒りが爆発する。
「ふざけるな!!」
ドォンッ!!
神威が城中へ響く。
窓ガラスが震え。
天井のシャンデリアが揺れる。
「物を盗んで!」
「歩けなくして!」
「魔法まで奪って!」
「車椅子まで隠して!」
「それだけじゃ足りなくて!」
「真銀まで利用したの!?」
「私たちを引き離すために!!」
エリシアは初めて一歩後ずさった。
千乃はさらに近付く。
「簪も。」
「ブレスレットも。」
「神靴も。」
「全部。」
「真銀がくれた。」
「私の大切なもの。」
「それを面白がるように奪って!」
「まだ足りなかったの!?」
部屋の空気が震える。
護衛たちは汗を流していた。
誰一人、動けない。
「千乃!」
真銀が駆け込んできた。
息を切らしている。
千乃は振り返らない。
「真銀。」
「なんで言わなかったの。」
「一人で背負わないでよ。」
真銀は何も言えない。
千乃は静かに笑った。
涙を流しながら。
「私。」
「そんなに弱くない。」
「二人で戦えたのに。」
その言葉に。
真銀は拳を握り締めた。
もう隠す理由はなかった。
部屋の中。
真銀は何も言えず立ち尽くいていた。
千乃は静かに振り返る。
涙を拭き、小さく笑う。
「……ごめんね。」
その笑顔は、どこか寂しかった。
「少しだけ。」
「一人で片付けさせて。」
「千乃。」
真銀が一歩踏み出す。
しかし。
千乃は右手をそっと前へ出した。
真紅の魔法陣が足元へ広がる。
「転移。」
パッ──
景色が変わる。
「……!」
気付けば真銀は千乃の部屋にいた。
ガチャッ。
外から鍵が掛かる音が響く。
「千乃!!」
ドンドン!!
真銀は勢いよく扉を叩く。
「開けろ!」
「一人で行くな!」
返事はない。
ただ静かな沈黙だけが部屋を満たしていた。
---
その頃。
城の広い庭。
エリシアと護衛たちは突然現れた魔法陣に驚いていた。
「これは……転移魔法?」
「いつの間に。」
その中心へ。
もう一つの魔法陣が静かに浮かび上がる。
パァァ……
光が収まる。
そこに立っていたのは千乃だった。
「千乃様。」
エリシアが口を開く。
しかし。
千乃は答えない。
ゆっくりと目を閉じる。
「…………。」
次の瞬間だった。
ゴォォォォ……
真紅だった魔力が。
ゆっくりと黒へ染まっていく。
空気が重くなる。
風が止まる。
光さえ飲み込むような魔力が庭を覆った。
ライたちも異変を察知し、城の窓から庭を見下ろす。
「何だ……あの魔力は。」
アイシィの顔から血の気が引く。
「まさか……。」
---
千乃の身体が静かに浮き上がる。
ふわり。
地面から数メートル。
さらに。
十メートル。
二十メートル。
空中で静止する。
黒い魔力が渦を巻く。
メタルピンクだった髪は、ゆっくりと色を失っていく。
白。
雪よりも白い髪。
金とピンクだったオッドアイは。
両目とも深紅へ染まった。
純白だった神衣は。
黒へ。
翼も。
純白ではなく。
巨大な黒い翼へ変わる。
ギィ……
翼がゆっくり広がる。
口元からは、少しだけ尖った犬歯が覗く。
そして。
額から。
二本の大きな黒い角がゆっくりと伸びた。
その姿は。
神ではなかった。
まるで。
悪魔。
---
庭は静まり返る。
誰も声を出せない。
空中に浮かぶ千乃は。
表情がなかった。
怒りも。
悲しみも。
喜びも。
何一つ映らない。
ただ。
無機質な瞳でエリシアを見下ろしている。
「……。」
ゆっくり。
右腕が上がる。
人差し指が。
真っ直ぐエリシアを指した。
その瞬間。
黒い翼がわずかに揺れる。
サァ……
一枚。
また一枚。
黒い羽根が翼から離れる。
ヒュン……
ヒュン……
ヒュン……
静かな音を立てながら。
数十枚。
数百枚。
黒い羽根が千乃の周囲へ浮かび始める。
指先の動きを待つように。
整然と並び。
標的だけを見据えていた。
護衛たちは反射的に武器を構える。
だが。
誰一人として踏み出せない。
圧倒的な威圧感が。
身体を縫い付けていた。
エリシアも初めて恐怖の色を浮かべる。
「……千乃、様。」
呼び掛けても。
返事はない。
空中で静止したまま。
感情を失った紅い瞳だけが。
静かに。
エリシアを見つめ続けていた。
庭を覆う沈黙。
誰も動けない。
空中に浮かぶ千乃は、感情のない紅い瞳でエリシアたちを見下ろしていた。
ゆっくりと。
人差し指が、ほんのわずかに動く。
その軌跡をなぞるように。
待機していた黒い羽根が一斉に反応した。
ヒュン……
ヒュン……
ヒュン……
鋭い音を立てながら、黒い羽根が一直線に飛び出す。
「来るぞ!」
護衛が叫ぶ。
全員が武器を構え、防御態勢を取る。
しかし。
次の瞬間。
ヒュンッ!
一本目の羽は、護衛の肩をかすめることなく背後の地面へ。
ドッ。
ヒュンッ。
二本目はエリシアの右横。
ドン。
ヒュンッ。
三本目は左側。
ドッ。
続けざまに。
ヒュンッ。
ヒュンッ。
ヒュンッ。
ヒュンッ。
黒い羽根は誰一人傷付けることなく、正確に地面へ突き刺さっていく。
その精度は異常だった。
わずか数センチでも軌道がずれれば、人へ当たる距離。
それでも。
一本たりとも外さない。
「……当てていない。」
ライが息を呑む。
「いや。」
「当てないように撃っている。」
羽根は次々と地面へ突き刺さり、円を描くように並んでいく。
ヒュン。
ドッ。
ヒュン。
ドッ。
やがて。
エリシアと護衛たちを中心とした、大きな円が完成した。
さらにもう一周。
ヒュン……
ドドドドドッ!
外側にも黒い羽根が突き刺さる。
三重。
四重。
五重。
まるで巨大な檻。
逃げ道を計算し尽くした配置だった。
護衛の一人が恐る恐る一歩踏み出そうとする。
その瞬間。
ヒュンッ!
一枚の黒い羽根が、その足先のわずか数センチ前へ突き刺さる。
ドンッ。
護衛は反射的に足を止めた。
額を汗が伝う。
「……警告か。」
誰も動かない。
いや、動けない。
空では。
千乃が依然として無表情のまま浮かんでいる。
指先がゆっくりと下りる。
それに合わせて、新たな黒い羽根が静かに周囲へ現れ、音もなく待機した。
ヒュ……
ヒュ……
次の指先の動きだけを待ちながら。
庭は静まり返っていた。
黒い羽根の檻。
誰も一歩も動けない。
空中では、魔化した千乃が感情のない瞳で全てを見下ろしている。
その時だった。
エリシアの視線が、ふと城へ向く。
ベランダ。
鍵の掛かった部屋の窓から、真銀が必死に外を見ていた。
「千乃!!」
何度も窓を叩いている。
その姿を見たエリシアの表情がわずかに歪んだ。
「……なら。」
右手をゆっくりと掲げる。
護衛の一人が驚く。
「皇女様?」
淡い魔法陣が展開される。
「おやめください!」
しかし、止まらない。
「これなら……。」
エリシアはベランダを見据えた。
「真銀様は、私だけを見てくださる。」
魔法陣が輝く。
次の瞬間。
一直線に放たれた光が、ベランダへ向かって走る。
「真銀!!」
ララの叫びが響いた。
だが。
その攻撃が届くことはなかった。
ヒュンッ!!
空気を裂く轟音。
黒い影が、誰の目にも留まらぬ速さで空を駆け抜ける。
一瞬。
本当に一瞬だった。
ベランダの前。
真銀の目の前へ、千乃が現れる。
「……!」
真銀が目を見開く。
魔化したままの千乃。
白い髪。
黒い翼。
紅い瞳。
何も言わない。
ただ。
真銀をかばうように両腕を広げ、その前へ立つ。
ドォンッ!!
放たれた魔法が、真正面から千乃へ直撃した。
激しい衝撃が庭中へ響く。
黒い翼が大きく揺れる。
真銀の瞳が震えた。
「千乃っ!!」
攻撃は、真銀には一切届かなかった。
その全てを。
千乃が受け止めた。
一瞬の静寂。
千乃は何も言わない。
ゆっくりと真銀を振り返る。
その紅い瞳が、一瞬だけ揺らいだ気がした。
そして。
翼から力が抜ける。
ふわり、と身体が傾く。
「……。」
黒い翼が閉じる。
そのまま。
重力に引かれるように落ちていく。
「千乃ぉぉぉっ!!」
真銀の叫びが城中に響いた。
ドンッ!!
庭の芝生へ身体が叩きつけられる。
土煙が舞い上がる。
黒い羽根が、音もなく周囲へ舞い落ちた。
真銀は鍵の掛かった扉を力任せに叩く。
「開けろ!!」
「誰か!!」
「開けてくれ!!」
拳が赤くなっても叩き続ける。
庭では、誰も動けなかった。
たった今まで感情を失っていたはずの千乃が。
最後の最後だけは。
何の迷いもなく、自分の身を盾にして真銀を守った。
その行動だけが。
千乃の心の奥底にある想いは、何一つ変わっていないことを物語っていた。
千乃の身体が庭へ倒れ込む。
黒い羽根が、ひらひらと舞い落ちる。
「千乃!!」
真銀の叫びが響く。
その瞬間だった。
ピクリ……
倒れたままの千乃の口が、ゆっくりと開く。
感情のない、機械のような声が庭中へ響いた。
「敵対行動を感知。」
一拍の沈黙。
そして。
「排除に移ります。」
ゾワッ……
護衛全員の背筋に悪寒が走る。
「まずい!」
ライが叫ぶ。
「止めろ!!」
しかし、もう遅かった。
ドクン……
黒い魔力が再び溢れ出す。
地面に散らばっていた黒い羽根が、一斉に宙へ浮かび上がる。
ヒュ……
ヒュ……
ヒュ……
今度は先ほどのような威嚇ではない。
全ての羽根の切っ先が、エリシアと護衛たちへ向けられていた。
千乃はゆっくりと立ち上がる。
俯いたまま。
表情はない。
瞳には感情が宿っていない。
まるで、敵対行動への対処だけを実行する存在になったかのようだった。
護衛隊長が剣を構える。
「全員、防御!」
「回避を最優先!」
誰も攻撃しようとはしない。
あの速度を見てしまった以上、先に動けば終わると理解していた。
エリシアも初めて一歩後ろへ下がる。
「そんな……。」
千乃は静かに右手を持ち上げる。
指先が、ほんのわずかに動く。
ヒュン……
一枚の黒い羽根が、エリシアの頬をかすめることなく髪を一本だけ切り落とし、その背後の地面へ突き刺さった。
ドッ。
続いて。
ヒュン。
ヒュン。
ヒュン。
護衛たちの足元、肩先、耳元、武器のすぐ横へと、寸分違わぬ精度で黒い羽根が突き刺さる。
誰にも当たらない。
だが、一歩でも動けば当たる。
そう理解できる配置だった。
「警告……?」
アイシィが息を呑む。
ライは険しい表情で首を振る。
「違う。」
「完全に制圧している。」
空中には、なお数え切れないほどの黒い羽根が静かに待機していた。
その全てが、次の指先の動きを待っている。
そして千乃は、感情のない声で、もう一度だけ繰り返した。
「敵対行動を確認。」
「対象を監視します。」
指先は、エリシアから一度も離れなかった。
庭に張り詰めた空気。
黒い羽根は微動だにせず、空中に並んでいる。
エリシアは震える足を踏みとどまり、千乃を見上げた。
そして、強がるように笑う。
「フッ!」
「ビビりだから、どうせ当てられないんでしょう!!」
その言葉が庭に響く。
誰も声を発しない。
真銀はベランダから顔色を変えた。
「やめろ……!」
しかし。
魔化した千乃の表情は変わらない。
感情は読み取れない。
ただ、紅い瞳が静かにエリシアを見つめていた。
「対象の発言を確認。」
「脅威レベルを再評価。」
その声は淡々としていた。
ゆっくりと。
人差し指が、ほんの数センチだけ動く。
ヒュン。
黒い羽根が一枚だけ飛ぶ。
「っ!」
エリシアが身構える。
だが、その羽根は肩へ軽く触れる程度だった。
チクリ。
「……え?」
続いて。
ヒュン。
ヒュン。
ヒュン。
護衛たちにも一本ずつ黒い羽根が触れる。
鎧の隙間。
腕。
肩。
どれも致命傷には程遠い、ごく浅い接触だった。
「こんなもの……」
護衛の一人が言いかけた、その時。
「……眠い。」
一人が膝をつく。
「な、何だ……これは……」
もう一人も剣を落とした。
ガシャン。
エリシアも視界が揺れる。
「まさか……毒……?」
「睡眠効果を確認。」
千乃は感情のない声で告げる。
「生命活動に危険なし。」
「対象を戦闘不能と判断。」
次々と。
ドサッ。
ドサッ。
護衛たちが静かに眠りへ落ちていく。
最後にエリシアが千乃を見上げた。
「あなた……」
言葉は最後まで続かなかった。
そのまま意識を失い、芝生へ静かに倒れ込む。
庭は静寂に包まれた。
千乃は眠る全員を見下ろす。
右手をゆっくり掲げる。
足元に巨大な魔法陣が広がった。
幾重にも重なる転移術式。
「対象の帰還を開始。」
光が庭を包み込む。
眠るエリシアと護衛たちの身体が、淡い光の粒へと変わっていく。
パァァ……
次の瞬間。
全員の姿が庭から消えた。
転移先は、エリシアたちの祖国にある王城の転移広間。
戦闘不能ではあるものの、命に別状はない状態で送り返された。
庭には再び静けさが戻る。
空中に残っていた黒い羽根も、役目を終えたようにゆっくりと消え始めた。
静寂が庭を包む。
エリシアたちの姿は、もうどこにもなかった。
転移魔法の光だけが、ゆっくりと消えていく。
空中では。
魔化した千乃が、まだ静かに浮かんでいた。
黒い翼。
白い髪。
深紅の瞳。
その視線がゆっくりと城へ向く。
ベランダ。
必死にこちらを見つめる真銀。
その少し離れた場所には、ララ、ライ、アイシィもいた。
千乃の瞳が一人ずつを捉える。
まるで確認するように。
数秒後。
感情のない声が静かに響いた。
「仲間の無事を確認。」
わずかな間。
そして。
「確認完了。」
さらに一拍置いて。
「安堵。」
その瞬間だった。
ふっ……
千乃の口元が、ほんの少しだけ緩んだ。
それは戦闘中、一度も見せなかった小さな笑み。
その笑みと同時に。
黒い魔力が、さらさらと霧のようにほどけ始める。
黒い翼は光の粒となって消え。
二本の角もゆっくりと縮んでいく。
白かった髪は、少しずつ本来のメタルピンクへ。
両目の深紅は消え、右は金色、左はピンクのオッドアイへ戻っていく。
黒い衣も光へ溶け。
見慣れた神化の姿を経て、最後には普段の千乃の姿へ戻った。
「……あ。」
小さく声を漏らす。
次の瞬間。
ふらり、と身体が傾いた。
「千乃!」
真銀が叫ぶ。
力を使い果たした千乃は、そのまま空から静かに落ち始めた。
先ほどまで世界を圧倒していた存在はもういない。
そこにいたのは。
仲間の無事を確認して安心し、張り詰めていた糸が切れた、一人の少女だけだった。
「千乃!」
真銀は鍵の掛かった扉へ体当たりした。
ドンッ!!
一度。
二度。
三度。
それでも開かない。
「くそっ!」
拳を握り締めた、その時。
バキィッ!!
蝶番ごと扉が吹き飛んだ。
真銀は迷わずベランダへ飛び出す。
下では。
力を失った千乃が、静かに落ちていく。
「間に合え……!」
ベランダの手すりを蹴る。
真銀の身体が空へ躍り出た。
落ちる千乃。
駆け上がる真銀。
距離が一気に縮まる。
あと少し。
あと少し。
「千乃!!」
ふわり。
その小さな身体が腕の中へ収まった。
「捕まえた。」
真銀はしっかりと千乃を抱き寄せる。
勢いのまま落下していく。
「ライ!」
「任せろ!」
ライが地上から大きく跳び上がる。
その背を踏み台にして、真銀は体勢を立て直す。
さらにアイシィが氷の足場を次々と空中へ作り出した。
真銀はその足場を蹴りながら落下速度を殺していく。
トン。
トン。
トン。
最後の一歩で芝生へ降り立った。
ドサッ、と着地するが、千乃だけは少しも揺らさない。
腕の中では、千乃が静かに眠っていた。
規則正しい寝息。
苦しそうな様子はない。
真銀はそっと前髪を撫でる。
「……おかえり。」
その一言に。
眠ったままの千乃の表情が少しだけ柔らかくなった気がした。
ララが駆け寄る。
「千乃、大丈夫!?」
アイシィも膝をつく。
「命に別状はありません。」
「魔力を極限まで消耗して眠っているだけです。」
ライは安堵したように息を吐く。
「本当に……無茶をする。」
真銀は眠る千乃を見つめたまま、小さく笑う。
「お互い様だ。」
そう言って、抱き上げたまま城へ向かって歩き出す。
もう、その腕を離すつもりはなかった。




