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訪問者

ある日の昼。


星氷神城の門前が、朝から慌ただしかった。


「使者?」


真銀が首を傾げる。


兵士が恭しく頭を下げる。


「隣国、**ルミナリア皇国**より、皇女殿下がお見えになっております。」


「皇女?」


千乃たちが顔を見合わせる。


しばらくして、一台の豪華な馬車がゆっくりと城門をくぐった。


扉が開く。


降りてきたのは、一人の少女。


長い銀髪。


澄んだ翡翠色の瞳。


白を基調とした美しいドレスをまとっている。


彼女は優雅に一礼した。


「初めまして。」


「私はルミナリア皇国第一皇女。」


「**エリシア・ルミナリア**と申します。」


千乃も笑顔で頭を下げる。


「ようこそ!」


「遠いところありがとうございます!」


エリシアは微笑み返す。


その笑顔は、とても綺麗だった。


だが。


視線だけは、真銀から離れなかった。


---


応接室。


お茶会が始まる。


「夜坂真銀様。」


エリシアが穏やかに話しかける。


「あなたのお話は、以前から伺っております。」


「俺の?」


「ええ。」


「剣の腕も、お人柄も。」


真銀は困ったように笑う。


「買いかぶりですよ。」


「そんなことはありません。」


二人が話し始める。


千乃も加わろうと口を開く。


「真銀、その話だけど……」


「あ、そうでした。」


エリシアがすぐに真銀へ向き直る。


「真銀様、この資料もご覧いただけますか?」


「ああ。」


会話はそのまま続いていく。


千乃は言葉を飲み込んだ。


「……。」


---


翌日。


王都を案内することになった。


「真銀様。」


「こちらへ。」


エリシアが自然に真銀の隣へ並ぶ。


千乃が近付こうとすると。


「あら、千乃様。」


「そのお花、とても綺麗ですわ。」


「え?」


「少し見てもよろしいですか?」


足を止めるしかなかった。


その間に。


真銀とエリシアは少し前へ進んでしまう。


---


さらに別の日。


城の図書室。


「真銀。」


千乃が本を持って近付く。


「これ、一緒に……」


「真銀様。」


またエリシアだった。


「少しご相談したいことが。」


「今ですか?」


「はい。」


真銀は千乃を見る。


「悪い。」


「すぐ戻る。」


「……うん。」


また。


二人が離れていく。


---


そんな日が何日も続いた。


朝。


昼。


夕方。


気付けば。


エリシアは必ず真銀の隣にいる。


悪意があるようには見えない。


礼儀正しく。


優しく。


誰に対しても丁寧。


だからこそ、誰も強く言えない。


---


ある夜。


千乃は一人で庭に座っていた。


「……。」


簪へ触れる。


ブレスレットを見る。


夜風だけが吹いていた。


「私……。」


小さく笑う。


「何考えてるんだろ。」


分かっている。


真銀は何も悪くない。


エリシアも、表向きは失礼なことはしていない。


それでも。


胸が苦しかった。


「また。」


「二人で笑ってる。」


窓から見える。


廊下で話す二人の姿。


千乃は目を逸らした。


「……見なきゃよかった。」


---


数日後。


ララが首を傾げる。


「あれ?」


「千乃、最近あんまり笑わないね?」


「そう?」


千乃はいつものように笑顔を作る。


「そんなことないよ。」


「疲れてるだけ。」


「ほんと?」


「うん。」


ララは納得したように頷いた。


けれど。


ライだけは静かに千乃を見つめていた。


「……。」


何かがおかしい。


そう感じていた。


---


その夜。


千乃は眠れなかった。


窓際に座る。


星空を見上げる。


「……。」


ブレスレットへ触れる。


位置共有の魔法は、真銀の居場所を静かに伝えてくる。


「近くにいる。」


「ちゃんといる。」


それなのに。


心だけが、少しずつ遠く感じてしまう。


千乃はぎゅっと膝を抱えた。


部屋の中は静かだった。


その静けさが、今日はやけに広く感じられた。




「本日も、よろしくお願いいたします。」


エリシアは今日も優雅に一礼した。


気付けば、ルミナリア皇国の皇女が星氷神城へ来てから二週間が経っていた。


本来なら数日の表敬訪問。


それが。


「皇国より連絡です。」


使者が書状を差し出す。


真銀が目を通す。


「……滞在延長?」


「はい。」


「皇女殿下には、引き続き友好関係を深めていただきたいとのことです。」


「またか。」


真銀は小さくため息をつく。


---


そして。


三週間。


一か月。


「もう帰るものだと思ってた。」


ララが小声で呟く。


アイシィも困ったように笑う。


「長いですね……。」


ライは腕を組んだ。


「外交上、こちらから追い返すことも難しい。」


---


いつの間にか。


エリシア専用の客室まで用意されていた。


「しばらく、お世話になります。」


そう微笑む姿は、とても自然だった。


まるで最初から住んでいたかのように。


---


朝。


「真銀様。」


「朝のお散歩はいかがですか?」


「え?」


「この辺りを案内していただきたくて。」


「……分かりました。」


庭へ出る二人。


少し遅れて千乃も出てくる。


「あ……。」


もう二人は歩き始めていた。


「千乃!」


ララが駆け寄る。


「行こう!」


「うん。」


笑う。


笑えている。


……そう思っていた。


---


昼。


食堂。


「真銀様、こちらへ。」


エリシアが自然に隣の席を引く。


真銀も深く考えず座る。


千乃は少し離れた席へ腰掛けた。


「千乃さん?」


アイシィが心配そうに声を掛ける。


「今日はこっちなんですね。」


「うん。」


「たまたま。」


---


夜。


図書室。


真銀が本を探している。


「真銀。」


千乃が近付こうとすると。


「真銀様。」


またエリシアだった。


「この本について教えていただけませんか?」


「どれです?」


「こちらです。」


二人が並ぶ。


千乃は足を止める。


「……。」


静かに本を棚へ戻した。


---


その頃からだった。


千乃が。


「今日は飛ぶの?」


ララが尋ねる。


「うん。」


「少しだけ。」


朝。


昼。


夕方。


夜。


一人で飛ぶ時間が増えていく。


---


部屋へ戻る時間も早くなった。


「千乃?」


真銀が廊下で呼ぶ。


「今日はもう休むのか?」


「うん。」


「ちょっと疲れちゃって。」


「そうか。」


「ちゃんと寝ろよ。」


「うん。」


部屋の扉が閉まる。


カチャン。


その音だけが静かに響いた。


---


部屋の中。


千乃はベッドへ腰掛ける。


「疲れた……。」


疲れたのは身体じゃない。


心だった。


窓の外を見る。


庭では。


真銀とエリシアがまだ話している。


「……。」


見ないように。


カーテンを閉めた。


---


数日後。


ララが小さく呟く。


「最近。」


「千乃、一人が多いね。」


アイシィも頷く。


「ええ……。」


「以前なら、真銀さんを誘っていたことも、一人で済ませています。」


ライは静かに窓の外を見た。


「逃げている。」


「え?」


ララが振り向く。


「傷付かないために。」


「自分から距離を置き始めている。」


その言葉に。


アイシィもララも何も返せなかった。


---


夜。


星空の下。


千乃は神化した姿で、一人静かに飛んでいた。


誰もいない高い空。


風だけが隣を飛んでいく。


「ここなら。」


「考えなくて済む。」


そう呟いても。


胸の奥は少しも軽くならなかった。


そして城の窓から。


その小さな背中を見つめる視線があった。


真銀だった。


「……千乃。」


最近の千乃の笑顔が、どこか無理をしているように見える。


その違和感だけが、真銀の心に静かに引っ掛かり続けていた。



翌朝。


「……あれ?」


千乃は鏡の前で首を傾げた。


「ない。」


髪へ手を伸ばす。


いつも留めてあるはずの簪がない。


机の上。


ベッド。


クローゼット。


部屋中を探す。


「どこ……?」


その時。


コンコン。


「千乃、朝ごはんだよ!」


ララだった。


「今行く!」


返事をしながらも、胸がざわつく。


あの簪だけは。


絶対になくしたくない。


---


食堂。


「あ……。」


千乃の動きが止まる。


そこには。


エリシアがいた。


そして。


その髪には。


見覚えのある簪が輝いていた。


星の飾り。


銀細工。


真銀から贈られた、世界に一つだけの簪。


「……。」


千乃は静かに近付く。


「その簪。」


エリシアは微笑んだ。


「あら?」


「これですか?」


「はい。」


「私のですが?」


その場が静まり返る。


真銀が簪を見つめる。


(あれは……。)


間違えるはずがない。


自分が贈ったものだった。


千乃は小さく首を振る。


「違う。」


「それ。」


「真銀にもらった私の。」


エリシアは困ったように笑う。


「何か勘違いをされているのではありませんか?」


「この簪は、幼い頃から私の物です。」


「そんな……。」


ララが思わず声を上げる。


「嘘!」


「千乃のだもん!」


「失礼ですよ。」


護衛の騎士が一歩前へ出る。


空気が張り詰める。


---


千乃は何も言わなかった。


ただ。


右手を静かに前へ伸ばす。


「……戻って。」


その一言だけ。


次の瞬間。


簪から真紅の細い光が伸びた。


翌朝。


千乃はいつものように身支度を整えていた。


「髪よし。」


簪に触れる。


ちゃんとある。


少し安心して、今度は左手を見る。


「……え。」


そこにあるはずのブレスレットがなかった。


「また……。」


思わず立ち上がる。


部屋中を探す。


机の下。


ベッドの上。


棚の中。


どこにもない。


胸がざわつく。


「あれだけは……。」


千乃は急いで部屋を飛び出した。


---


食堂。


朝食の準備が進む中。


ララがパンを頬張っていた。


「あ、おはよ……」


その言葉が止まる。


「えっ。」


ララの視線の先。


エリシアの左手首には、銀色のブレスレットが輝いていた。


夜空のような蒼い宝石。


見間違えるはずがない。


真銀とお揃いのブレスレットだった。


「それ……。」


千乃が静かに口を開く。


エリシアは手元へ視線を落とし、不思議そうに首を傾げる。


「こちらですか?」


「ええ。」


「私の物ですが。」


また同じ答えだった。


真銀が立ち上がる。


「いや。」


「そのブレスレットは俺と……」


言いかけたところで、千乃がそっと右手を上げた。


「大丈夫。」


その声は驚くほど落ち着いていた。


---


千乃はブレスレットを見つめる。


「帰っておいで。」


その一言とともに。


キィィン……


宝石が淡く真紅に光る。


「なっ……!?」


エリシアの腕からブレスレットが外れる。


ヒュン……


細い真紅の魔力の紐が宝石へ繋がり、そのまま千乃の手へ飛んでいく。


パシッ。


「……ただいま。」


千乃は優しく受け止めた。


その瞬間。


ブレスレットの宝石が一瞬だけ輝く。


**《所有者確認》**


**C・S**


表示は一瞬で消えた。


千乃だけが、小さく微笑む。


「うん。」


「ちゃんと私の。」


真銀は少し安心したように息をついた。


---


その日の午後。


千乃は自室で新たな術式を組み始める。


「簪だけじゃ足りない。」


真紅の魔法陣が幾重にも重なる。


「追加。」


「呼び戻し。」


「固定。」


「認証強化。」


「転移阻害。」


一つひとつ丁寧に組み込んでいく。


最後にそっとブレスレットへ触れる。


「これで……。」


カチッ。


ブレスレットが静かに腕へ固定された。


外そうとしても、所有者である千乃の意思がなければ外れない。


さらに、一定距離以上離れると、自動で千乃の腕へ戻る術式も追加された。


「これなら安心。」


小さく笑う。


---


しかし翌日。


「……。」


千乃は目を瞬かせた。


「また?」


左手は空だった。


急いで城内を探す。


そして中庭。


「千乃様。」


エリシアが穏やかに微笑んでいた。


その隣には護衛が四人。


中央の騎士が、小箱を両手で抱えている。


箱には幾重もの封印魔法。


「まさか……。」


千乃が近付く。


護衛が一歩前へ出た。


「この箱はお渡しできません。」


千乃は何も言わず、小箱を見る。


「そこにいるね。」


右手を静かに前へ。


「帰っておいで。」


キィィィン……


箱の中から蒼い光が漏れる。


護衛が驚く。


「封印が……!」


パキッ。


封印魔法がひび割れる。


カチャン。


箱がひとりでに開いた。


ヒュン……


真紅の魔力の紐に導かれ、ブレスレットが勢いよく飛び出す。


「止めろ!」


護衛たちが手を伸ばす。


しかし届かない。


ヒュン……


一直線に千乃のもとへ。


パシッ。


千乃は胸の前で受け止める。


「おかえり。」


優しく微笑み、そのまま左手へはめた。


カチッ。


真紅の魔力が手首を包み込む。


ブレスレットは静かに馴染み、淡い光を放ったあと、何事もなかったように落ち着いた。


千乃はそっと撫でる。


「もう離れちゃだめだからね。」


その様子を見ていた真銀は、ブレスレットを見つめながら小さく呟く。


「そんなに大事にしてくれてたんだな……。」


千乃は少し照れたように笑うだけで、その理由までは口にしなかった。秘密の術式もまた、誰にも気付かれないまま静かに眠り続けていた。


キィン……


一本の魔力の糸。


いや。


細く、美しい真紅の紐。


エリシアが目を見開く。


「え……?」


ヒュン。


簪は髪から自然に抜ける。


そのまま真紅の紐に引かれ。


一直線に千乃の手へ飛んできた。


パシッ。


千乃は優しく受け止める。


「……おかえり。」


その声は怒っていなかった。


安心したような声だった。


真銀も小さく息を吐く。


「最初から所有者登録してあったのか。」


千乃は頷いた。


「うん。」


「私以外は持てないようになってる。」


エリシアは何も言えなかった。


---


その日の夕方。


千乃は念入りに簪を留め直した。


「これで大丈夫。」


真紅の魔力で固定する。


さらに。


何重もの魔法を重ねる。


「もうなくならないように。」


---


しかし。


翌朝。


「……。」


また。


簪がない。


「嘘……。」


千乃は立ち上がる。


急いで城内を探す。


そして。


中庭。


エリシアがまた簪を手にしていた。


「それ!」


今度は髪にも付けていない。


手の中へ握り締めている。


「返してください。」


「これは私の……」


言い終わる前だった。


エリシアは護衛へ簪を渡す。


「預かっていてください。」


「はっ!」


護衛は両手で大切そうに受け取る。


「絶対に離すな。」


「承知しました。」


さらに別の護衛が周囲を囲む。


まるで重要な宝を守るように。


ララが叫ぶ。


「なんでそこまで!?」


ライも険しい表情になる。


「異常だ。」


---


千乃は静かだった。


怒鳴らない。


泣かない。


ただ。


右手を前へ伸ばす。


「……帰ってきて。」


キィィン……


真紅の魔力が細い一本の紐となって伸びる。


護衛が驚く。


「何だこれは!」


紐は護衛の隙間を縫うように走り。


簪へ繋がった。


「離せ!」


護衛が強く握る。


しかし。


意味はなかった。


ヒュン。


簪はするりと手を抜け。


真紅の光を引きながら空中を飛ぶ。


「なっ!?」


誰にも止められない。


一直線。


千乃の手へ。


パシッ。


「……。」


千乃は胸へ抱き寄せた。


宝物を守るように。


そして。


鏡も見ず。


慣れた手付きで髪へ留める。


カチッ。


「今度こそ。」


両手を添える。


真紅の魔力が全身を包み込む。


ゆっくり。


優しく。


髪。


簪。


魔力。


三つが重なり合う。


キィィィン……


淡い光が溶け込むように消えた。


簪は髪と一体になったかのように動かなくなる。


千乃は静かに簪へ触れ、小さく息をついた。


「もう……離さない。」


その言葉を聞いた真銀は、胸の奥が締め付けられるのを感じていた。


千乃が守ろうとしているのは、ただの簪ではない。


自分が想いを込めて贈った、大切な思い出そのものなのだと。






翌朝。


カーテンの隙間から朝日が差し込む。


「ん……。」


千乃はゆっくり目を覚ました。


ベッドから足を下ろす。


いつものように立ち上がろうとして。


「あれ?」


右足に力を入れる。


次の瞬間。


ガクッ。


「……っ!」


膝から崩れ落ちた。


ドサッ。


床へ手をつく。


「え……?」


何が起きたのか分からない。


もう一度。


壁へ手をついて立ち上がる。


「よいしょ……。」


足へ力を込める。


ガクッ。


「きゃっ!」


また膝が折れる。


床へ座り込んでしまった。


「なんで……?」


左足も。


右足も。


思うように動かない。


そこでようやく気付く。


「神靴……。」


足元を見る。


履いているはずの神靴がない。


「……。」


胸がざわついた。


「また。」


---


千乃は大きく息を吸う。


「食堂……行かなきゃ。」


壁へ手をつく。


ゆっくり。


本当にゆっくり立ち上がる。


片手で壁を支えながら。


一歩。


また一歩。


ぎこちなく歩く。


廊下へ出たところで。


バランスを崩した。


ドンッ。


「いたっ……。」


肩を壁へぶつける。


それでも進む。


途中で足がもつれ。


ドサッ。


床へ転ぶ。


「ぅ……。」


肘を擦りむいた。


けれど立ち上がる。


また歩く。


また転ぶ。


何度も。


何度も。


城の廊下を少しずつ進んでいった。


---


食堂の扉が開く。


ガチャ。


ララが勢いよく振り向く。


「千乃!」


真銀も立ち上がる。


「どうした!?」


千乃は無理に笑った。


「ちょっと……。」


「転んじゃった。」


服には埃が付き。


手や膝は赤く擦りむけている。


歩く姿も明らかに不自然だった。


真銀はすぐ駆け寄る。


「歩けないのか?」


千乃は少し迷ってから頷いた。


「神靴が……。」


「なくなった。」


その場の空気が凍りつく。


ライの表情が険しくなる。


「またか。」


アイシィは心配そうに千乃の足を見る。


「かなり無理をされましたね……。」


真銀は拳を握り締めた。


「誰が。」


低い声だった。


怒りを押し殺しているのが分かる。


---


朝食のあと。


真銀が言う。


「部屋まで送る。」


千乃は首を横に振った。


「大丈夫。」


「でも。」


「歩いて帰れないから。」


少し考えて。


「飛ぶ。」


「え?」


真銀が聞き返す。


千乃は静かに目を閉じる。


真紅の魔力が溢れ出す。


純白の衣。


六枚の光の翼。


神化した姿へ変わる。


ふわり。


足が地面から離れる。


「これなら。」


「歩かなくて済むから。」


翼がゆっくり羽ばたく。


バサッ……


バサッ……


千乃はそのまま食堂の窓から空へ。


真銀は黙って見送ることしかできなかった。


---


自室のベランダへ降り立つ。


神化を解く。


着地した瞬間。


ガクッ。


「……。」


やはり立てない。


壁へ寄り掛かりながら、ゆっくり部屋へ入る。


ベッドへ腰掛ける。


そして静かに足を抱えた。


「せっかく……。」


「歩けるようになったのに。」


小さな呟きが部屋へ消えていく。


その頃。


城のどこかでは。


一足の真紅のロングブーツが、誰にも見つからない場所へ隠されていた。




神靴がなくなってから、三日。


千乃は一度も歩いていなかった。


移動するときは、神化。


翼を広げ。


バサッ……


バサッ……


静かに空を飛ぶ。


城の廊下も。


庭も。


王都へ行く時も。


すべて飛行だった。


---


その日。


真銀たちは王都へ買い物へ向かっていた。


千乃も一緒だ。


ただし。


歩いているのは真銀たちだけ。


千乃だけは、地面から一メートルほど浮いたまま、みんなの横をゆっくり飛んでいる。


「千乃。」


真銀が見上げる。


「疲れないか?」


「大丈夫。」


千乃は笑って答える。


「飛ぶの、慣れてるから。」


そう言ってみせる笑顔は、少しだけぎこちなかった。


---


商店街へ着く。


多くの人が行き交う中。


「あら。」


聞き覚えのある声がした。


エリシアだった。


「皆様、お久しぶりです。」


優雅に一礼する。


そして。


一歩。


また一歩。


軽やかに歩き始める。


コツ……


コツ……


その足元を見た瞬間。


ララの耳がぴんと立った。


「えっ……。」


真銀も目を見開く。


真紅を基調としたロングブーツ。


金色の装飾。


踵には小さな氷の結晶。


見間違えるはずがない。


千乃が自分のために作った魔道具。


神靴だった。


エリシアは嬉しそうに笑う。


「まあ。」


「なんて歩きやすい靴なんでしょう。」


「まるで足が軽くなったみたいですわ。」


その言葉に。


辺りの空気が一瞬止まる。


千乃は何も言わない。


ただ。


空中で静かに止まっていた。


---


真銀が低い声で言う。


「……その靴。」


エリシアは首を傾げる。


「はい?」


「どこで手に入れた。」


「こちらですか?」


エリシアは足元を見て微笑む。


「昔から私が持っていた物ですが?」


まただった。


同じ言葉。


ララが思わず叫ぶ。


「また嘘!」


ライも鋭い目を向ける。


「その靴は千乃しか扱えない魔道具だ。」


「おや。」


「そうなのですか?」


エリシアは本当に知らないような顔をする。


その演技が。


千乃の胸へ静かに刺さる。


---


千乃はゆっくり右手を伸ばした。


「帰ってきて。」


その一言。


真紅の魔力が細い紐となって神靴へ伸びる。


キィィン……


神靴が淡く光った。


しかし。


「!」


光は途中で止まる。


神靴の周囲へ、別の魔法陣が現れた。


護衛の一人が静かに前へ出る。


「申し訳ありません。」


「その靴には転移阻害の結界を施しております。」


「返還はできません。」


「……。」


千乃は少しだけ目を伏せた。


「そう。」


怒らない。


叫ばない。


その代わり。


翼をゆっくり広げる。


バサッ……


バサッ……


ふわりと少しだけ高度を上げた。


「今日は。」


「いい。」


静かな声だった。


「千乃?」


真銀が呼ぶ。


千乃は笑おうとする。


「街を歩けなくても。」


「飛べるから。」


そのまま。


みんなの少し前を飛び始めた。


石畳を歩く人々の上を。


一人だけ。


静かに。


---


その後も。


服屋へ行く時も。


本屋へ行く時も。


市場へ寄る時も。


千乃は一度も地面へ降りなかった。


歩けないから。


ではない。


歩けても。


神靴がないから。


その現実を見たくなかった。


---


夕暮れ。


城へ戻る途中。


真銀は前を飛ぶ千乃の背中を見つめていた。


羽ばたく姿は、いつもと変わらず綺麗だった。


それなのに。


どこか寂しそうだった。


そして真銀は、心の中で静かに決意する。


(もういい。)


(神靴は俺が取り返す。)


(今度は俺が守る番だ。)





翌朝。


「……。」


千乃はゆっくり目を開けた。


窓から差し込む朝日。


いつもと変わらない景色。


「今日も飛んで……。」


そう呟きながら、身体を起こす。


神化しようと魔力を巡らせた。


しかし。


「……あれ?」


何も起きない。


もう一度。


深く息を吸い、魔力を練る。


「神化。」


静かな声。


それでも。


何の反応もなかった。


「え……?」


千乃は困惑したまま右手を見つめる。


いつもなら真紅の魔力が溢れるはずなのに。


指先には、小さな光さえ灯らない。


「魔法……?」


試しに小さな光球を作ろうとする。


「灯れ。」


シン……


部屋は静かなまま。


魔法陣も。


光も。


何も現れない。


「そんな……。」


胸がざわつく。


「嘘だよね……?」


何度試しても結果は同じだった。


魔法が使えない。


神化もできない。


飛ぶこともできない。


---


「落ち着こう……。」


千乃はベッドから降りようとした。


足を床へ下ろす。


立ち上がる。


ガクッ。


「っ!」


膝が崩れ、そのまま床へ座り込んだ。


神靴もない。


歩く力も戻っていない。


「……。」


深呼吸をして、部屋の隅を見る。


「車椅子。」


そこなら置いてあるはずだった。


ずっと使っていた、大切な車椅子。


しかし。


そこは空っぽだった。


「……ない。」


部屋中を見回す。


どこにもない。


クローゼットの横にも。


窓際にも。


机の横にも。


「車椅子まで……?」


声が震えた。


---


コンコン。


「千乃ー?」


ララの声がする。


「朝ごはんできたよー!」


返事をしようとしても、声が出ない。


もう一度ノック。


「千乃?」


静かすぎる部屋を不思議に思ったララが扉を開ける。


「入るよー……」


扉が開いた瞬間。


ララの耳がぴんと立った。


「千乃!?」


床に座り込む千乃。


顔は青ざめている。


「どうしたの!?」


ララの叫びで、真銀たちも駆けつけた。


「千乃!」


真銀がしゃがみ込む。


「何があった!」


千乃はゆっくり首を振る。


「飛べない。」


「神化もできない。」


「魔法も……使えない。」


真銀の表情が固まる。


「……何だって?」


「それだけじゃなくて。」


千乃は部屋の隅を見た。


「車椅子も。」


「なくなってる。」


その一言で、部屋の空気が張り詰めた。


ライが部屋を見渡す。


「……誰かが侵入した形跡はない。」


アイシィは信じられないという表情で呟く。


「ここまで徹底して……。」


真銀は拳を強く握り締めた。


「誰がこんなことを……。」


千乃は無理に笑おうとした。


「大丈夫。」


「少し休めば……。」


言い終わる前に。


その笑顔は崩れた。


自分でも、その言葉を信じられなかったからだった。


真銀は静かに千乃の前へ膝をつく。


「大丈夫じゃない。」


その声は穏やかだったが、怒りを必死に抑えていた。


「今度は俺たちが動く。」


「もう、お前一人に我慢させない。」


部屋の中には、重苦しい沈黙だけが流れていた。



その日の午後。


真銀は一人、エリシアのいる応接室へ向かった。


扉を開ける。


エリシアは優雅に紅茶を飲んでいた。


「真銀様。」


「お待ちしておりました。」


真銀は真っ直ぐ彼女を見据える。


「返せ。」


短い一言だった。


「神靴。」


「車椅子。」


「……魔法まで封じたのも、お前だろ。」


エリシアはカップを静かに置く。


「証拠はございますか?」


「ない。」


「だが、お前以外に考えられない。」


沈黙。


しばらくして。


エリシアは小さく息をついた。


「……認めましょう。」


その言葉に、真銀の目が細くなる。


「ですが。」


「返却には条件があります。」


「何だ。」


エリシアは微笑んだ。


その笑顔は穏やかなのに、どこか冷たかった。


「今後。」


「真銀様から千乃様へ関わりに行かないこと。」


「……。」


「千乃様へ話しかけない。」


「自分から近付かない。」


「二人きりにならない。」


真銀は黙って聞いている。


エリシアはさらに続けた。


「そして。」


「真銀様は、私以外の女性とは必要最低限しか話さないこと。」


「もちろん千乃様も含みます。」


部屋の空気が凍った。


「……ふざけるな。」


真銀の声は低かった。


「それが条件です。」


「受け入れていただけるなら。」


「神靴も。」


「車椅子も。」


「封印した魔法も、すべて元へ戻します。」


「断れば?」


「現状のままです。」


静寂が流れる。


真銀は拳を握る。


強く。


強く。


爪が食い込むほどに。


(どうする。)


断れば。


千乃は歩けない。


飛べない。


魔法も使えない。


車椅子すらない。


(でも。)


こんな条件を飲めば。


今度は千乃が傷付く。


真銀は目を閉じた。


頭に浮かぶのは。


床へ崩れ落ちた千乃。


壁を伝って歩いていた姿。


一人で飛び続けていた姿。


無理に笑っていた顔。


そして。


「大丈夫。」


そう言っていた、震える声。


「……。」


長い沈黙のあと。


真銀は静かに口を開いた。


「分かった。」


その一言に。


エリシアは満足そうに微笑む。


「ありがとうございます。」


「約束は守ります。」


---


夕方。


城へ大きな木箱が届けられた。


箱を開ける。


そこには。


真紅の神靴。


長く使っていた車椅子。


そして。


千乃の魔力を封じていた魔導具。


真銀は迷わず最後の封印を砕く。


パリン……


淡い真紅の光が部屋いっぱいに広がった。


遠く離れた自室で。


千乃は突然、身体の奥から魔力が溢れるのを感じる。


「……!」


右手へ真紅の光が戻る。


「魔法……!」


神化。


六枚の翼が広がる。


「戻った……!」


思わず涙ぐむ。


「戻った!」


その声を聞き、ララたちが駆け込んできた。


「千乃!」


「飛べるの!?」


「うん!」


千乃は嬉しそうに頷く。


そして。


神靴へ足を通す。


カチッ。


「使用者認証。」


「千羽千乃。」


いつもの透き通った声。


立ち上がる。


今度は膝は崩れない。


一歩。


また一歩。


ちゃんと歩ける。


部屋の隅には、見慣れた車椅子も戻っていた。


千乃は車椅子へそっと手を添える。


「おかえり。」


嬉しそうに微笑む。


---


その頃。


廊下の角。


真銀は、その笑顔を遠くから見ていた。


(……よかった。)


千乃が歩いている。


笑っている。


それだけで十分だ。


そう自分に言い聞かせる。


しかし。


「真銀。」


ララが手を振る。


「千乃のところ行こ!」


真銀は一瞬だけ足を踏み出しかけた。


だが。


止まる。


「……いや。」


「今日はやめとく。」


「え?」


「ちょっと用事。」


そう言って背を向ける。


ララは不思議そうに首を傾げた。


「変なの。」


ライだけが、その後ろ姿をじっと見つめていた。


「……。」


何かがあった。


そう確信していたが、まだその理由までは分からなかった。


真銀は振り返らない。


自分から千乃に近付くことは、もうできなかった。


交わした約束が、胸に重くのしかかっていた。

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