錯綜するシグナルと、体育倉庫の密室
私立翠鳳高校の夏は、まるで沸騰したソーダ水のように、狂熱と排気音を孕んで加速していく。
昨夜の激しい夕立は嘘のように晴れ上がり、グラウンドからはサッカー部の威勢のいい掛け声と、橘蒼汰を応援する女子生徒たちの黄色い歓声が響いていた。
しかし、私の世界は、制服の長袖の奥でじっと熱を持っている。
手首の赤紫色に続き、昨日の放課後、雨の更衣室で蓮に深く刻まれた首筋の噛み痕。それはまるで見えない鎖のように、私の皮膚を通して一之瀨蓮という少年の狂気を絶え間なく送り込んできていた。
「椎名さん、今日の体育の授業、グラウンドじゃなくて合同の合同器具片付け、お願いできるかな?」
体育準備室の前で私を呼び止めたのは、体育委員を務める他クラスの男子生徒だった。彼は私の顔をまともに見られず、耳まで真っ赤にしている。
「あ、はい。分かりました」
私がいつもの「完璧な女神」の微笑みを浮かべて頷くと、彼はそれだけで救われたような顔をして逃げるように去っていった。
全校生徒が私を崇め、偶像として奉る。その視線のすべてが、私にとっては薄いガラス越しに眺めるだけの、無機質なノイズに過ぎない。
ただ一人、あの暗い情熱で私を貪る幼馴染を除いては。
「——ほう。風紀委員長が、ずいぶんと物騒な顔をして弓を引いているね」
放課後の放課後。弓道場の高い天井に、冷ややかな声が木霊した。
現れたのは、制服の第一ボタンまで完璧に締め、腕に「生徒会長」の腕章を巻いた神条 律だった。彼の銀縁眼鏡が、夕暮れの斜光を浴びて鋭く光る。
蓮は引いていた弓をピタリと止めたが、その翡翠色の瞳は、神条の姿を捉えた瞬間に完全な「拒絶」の色へと染まった。
「生徒会長。ここには何の用ですか。弓道部は生徒会の監査対象外のはずですが」
「用があるのは部活じゃない。君の『飼育方針』についてさ、一之瀬くん」
神条はゆっくりと歩を進め、蓮との距離を詰めた。
「昨日、椎名さんの手首を見たよ。ずいぶんとクラシカルで、野蛮なマークが刻まれていたね。……君が彼女を独占したい気持ちは分からなくもないが、やり方が子供っぽすぎる。彼女は学校の共有財産だ。一人の風紀委員が私物化していい存在じゃない」
「……黙れ」
蓮の声から、完全に温度が消えた。
彼が握る和弓の木枠が、ミりみりと悲鳴を上げる。昨日の更衣室での一件以来、蓮の脳内では神条に対する排除命令が絶え間なく点滅していた。
「彼女は誰の物でもない。……僕以外の人間が、彼女の領域に触れることは許さない」
「なら、実力で証明してみせるといい」
神条は不敵に微笑み、眼鏡の位置を直した。
「次の定期考査、そして校内行事。君が少しでも隙を見せたら、僕はいつでも彼女を僕の補佐として引き抜くよ。……彼女のあの美しい泣き顔は、きっと僕の机の上の方がよく映える」
「神条……っ!!」
蓮が弓を投げ捨て、神条の胸ぐらを掴もうとしたその瞬間。
「おいおい! そこまでにしとけって!」
副主将の長谷川 徹が慌てて二人の間に割って入った。「会長さんも、部外者が道場で揉め事起こすのは風紀違反でしょ? 蓮、お前も落ち着け!」
神条はフッと鼻で笑うと、蓮の手を冷酷に振り払い、背を向けて道場を去っていった。
後に残されたのは、怒りと嫉妬で呼吸を荒くし、指先から今にも黒い衝動を溢れさせそうな、一人の狂える少年だけだった。
放課後の旧体育館、一番奥にある器具倉庫。
夕日が差し込まないその場所は、埃っぽさと、使い古されたマットのゴムの匂い、そして昼間の熱気が抜けないままの蒸し風呂状態だった。
私は一人、重い飛び箱のセクションを片付けていた。
「ふぅ……」
額に汗が浮かび、制服のブラウスが肌にピトリと張り付く。不意に、背後の重い鉄扉が「ガチャン!」と大きな音を立てて閉まり、内側から鍵が回される金属音が響いた。
「誰……っ?」
振り返った私の視界に飛び込んできたのは、息を切らし、前髪を乱した蓮の姿だった。
彼の翡翠色の瞳は、夕闇のせいでほとんど黒に見えるほど濁っており、その全身からは隠しきれないほどの焦燥感と、狂暴なほどの排熱が立ち上っていた。
「蓮……? どうしてここに……」
「柚留」
蓮は私の問いに答えず、一歩、また一歩と距離を詰めてくる。その足取りは、まるで獲物を追い詰める肉食獣そのものだった。
「神条と、何を話した」
「え……? 会長とは、何も……」
「嘘をつくな!!」
蓮が激昂し、私の両肩を掴んで、背後の大きな跳び箱へと押し倒した。
「きゃっ……!」
柔らかいマットが敷かれた跳び箱の上に、私は仰向けに組み伏せられる。逃げ場のない密室。蓮の重い身体が私の上に覆いかぶさり、彼のずぶ濡れの制服から、微かに血の匂いがした。見ると、彼の右手の指先には、弓の弦で切った傷から新しい血が滲んでいる。
「あの男が、お前を自分のものにすると言った。お前を僕から奪って、自分の机で泣かせると……!」
蓮の呼吸は荒く、その指先が私の制服の襟元へと伸び、ボタンを乱暴に二つ引き千切った。
「あ、っ……!」
パチパチと音を立ててボタンが床に転がり、私の鎖骨と、昨日彼が刻んだばかりの赤黒い噛み痕が、灼熱の空気の中に剥き出しになる。
「蓮、待って……ここは学校の……っ」
「関係ない! お前は僕のドールだ……僕の、僕だけのものだ……!!」
蓮は私の制服のブラウスを大きく押し広げ、露わになった胸元の白い肌へと、飢えた獣のように顔を埋めた。
「ん、あ……っ! 蓮……っ!!」
首筋ではない、もっと敏感な鎖骨の窪みに、蓮の鋭い犬歯が容赦なく突き立てられた。
強烈な痛みと、それを遥かに凌駕するほどの熱い快感が、私の背骨を電流のように駆け抜ける。蓮の血の滲む右手が、私の細い腰を骨が軋むほどの力で抱きすくめ、逃げられないように完全に固定していた。
「痛い……痛いよ、蓮……っ」
「痛がれ、柚留。その痛みが、お前が僕の所有物であることの証明だ」
蓮は噛みついたまま、滲み出た私の血を、愛おしそうに何度も舌先で舐めとった。
彼の熱い吐息が、汗ばんだ私の肌に触れるたび、頭の中の理性がドロドロに溶けていくのが分かる。
外からは、まだサッカー部の部員の掛け声や、遠い世界の喧騒が聞こえている。
それなのに、この狭くて暗くて、40°C近くまで達している過熱した体育倉庫の中だけは、世界で一番不条理で、一番濃密な、二人だけの絶対的な飼育箱だった。
蓮は私の唇を強引に奪い、互いの息が詰まるほどの深い、深い口づけを交わした。
彼の口内からは、鉄の味と、私に対する狂おしいほどの執着の味がした。
「……もう、誰にも見せない。誰にも触れさせない。……お前を、僕のコードで完全に上書きしてあげる」
蓮は私の耳元でそう囁くと、手首の、そして首筋の傷跡をなぞるように、何度も、何度も、排熱を焼き付けるようなキスを繰り返した。
痛みの向こう側で、私はこの少年の狂気に完全に調律されていくのを感じていた。
全校生徒が憧れる「高嶺の花」は、この暗闇の中で、一人の少年のためだけに、甘い蜜を滴らせて完全に飼い慣らされていく。
「うん……いいよ、蓮……。私を、あんたの部屋に、ずっと……閉じ込めて……」
夕闇が完全に体育倉庫を支配する中、私たちは互いの汗と体温を貪り合いながら、二度と戻れない臨界点の向こう側へと、深く深くログインしていった。




