白日の下のアラートと、偽りの境界線
体育倉庫の、あの息が詰まるような熱帯夜から一夜が明けた。
制服の第一ボタンと第二ボタンを新しいものに付け替え、襟元をきっちりと上まで閉める。ブラウスの奥、鎖骨の窪みに刻まれた蓮の新しい歯痕は、動くたびに制服の生地と擦れて、甘い痛みを脳に直接送り込んでくる。
学校の廊下を歩けば、昨日と変わらず「椎名さん、おはよう!」「今日も綺麗だね」という無機質な称賛の声が降ってくる。
私はいつもの完璧な仮面を貼り付け、優雅に微笑み返す。けれど、私のシステム(こころ)はもう、あの暗闇の中で蓮に手酷く上書きされた熱を忘れられなくなっていた。
「——おはよう、椎名さん。昨日は随分と遅くまで残っていたようだね」
階段の踊り場で、行く手を阻むように現れたのは、生徒会長の神条 律先輩だった。
銀縁眼鏡の奥の瞳が、私のしっかりと閉められた襟元を、すべてを見透かすようにじっと見つめる。
「神条先輩……。昨日は、器具の片付けに時間がかかってしまって」
「ふうん。……でも、君のそのブラウス、昨日とはボタンの縫い糸の色が微妙に違う。それに、少し首を傾げたとき、昨日まではなかった『新しい赤』が見えたよ」
先輩は一歩、私との距離を詰めた。その声はどこまでも理性的で、だからこそ逃げ場のないプレッシャーとなって私を押し潰す。
「一之瀬くんの独占欲は、もはや風紀委員の仕事を逸脱して、ただの犯罪行為だ。君がその鎖に縛られ続ける必要はないんだよ、椎名さん。僕なら、もっとスマートに君を『管理』してあげられる」
先輩の手が、私の頬に触れようと伸びてくる——。
「僕の所有物に、気安く触るなと言ったはずですが。生徒会長」
冷酷な、地を這うような声が響いた。
神条先輩の手が私の肌に触れる寸前、蓮がその手首を真横から強引に掴み取っていた。
蓮の翡翠色の瞳は、濁った黒を孕んで神条先輩を睨みつけている。掴まれた先輩の手首からは、ミりみりと骨が軋むような音が聞こえそうなほどの圧力がかかっていた。
「おやおや、風紀委員長。校内での暴力行為は一発で停学処分だよ?」
神条先輩は顔色一つ変えず、眼鏡の奥で冷たく笑う。
「これは正当な風紀規定の執行です。生徒会権限を利用した、一般生徒へのハラスメント行為の抑止」
蓮は神条先輩の手首を突き放すように払い除けると、私の前に立ちはだかり、その背中で私を外敵から完全に隠した。
「神条先輩。あなたがどれだけ優秀なプログラマー(策士)だろうと、僕と柚留の間の領域に介入するポートは、最初から存在しません。次に行動を起こすなら、僕も相応のカウンター・プログラムを用意します」
「……面白い。そこまで言うなら、来週の『校内弓道大会』、楽しみにしているよ。僕もゲストとして弓を引くことになってね。君がその歪んだ執着のせいで、的を外す姿を全校生徒の前で見せてあげよう」
神条先輩は挑発的な笑みを残し、今度こそ去っていった。
蓮は先輩の背中が見えなくなるまで、その場から一歩も動かなかった。彼の背中からは、まだ昨日の体育倉庫の熱が冷めやらぬような、狂暴なアドレナリンが陽炎のように立ち上っていた。
その日の夜。
お互いの部屋の窓を開ければ、手を伸ばせば届きそうな距離にある、幼馴染だけの特権的な空間。
私の部屋のベランダを伝って、蓮が音もなく侵入してきた。
「蓮……、お母さんたちが下にいるよ……」
「静かにして、柚留」
蓮は私の言葉を遮り、私の身体をベッドの上へと押し倒した。
月光だけが照らす薄暗い部屋の中。蓮は私のパジャマのボタンを乱暴に外し、昼間、神条先輩に見られそうになったあの鎖骨の傷痕を、確認するように狂ったように見つめた。
「あの男が、ここを見ただろう。触れようとしただろう」
蓮の翡翠色の瞳が、暗闇の中で妖しく発光する。彼の指先が、私の肌をなぞるように強く這い回り、それだけで私の身体は小さく跳ねた。
「見てない、触らせてないよ……。私は蓮だけのものだから……っ」
「口では何とでも言える。……お前の身体に、もっと深いコードを書き込まないと、僕は安心できないんだ」
蓮は激しい排熱のような吐息とともに、私の胸元、昨日よりもさらに深い、心臓に近い場所へと噛みついた。
「あ、っ……! 嗚呼……っ!!」
私の口から漏れそうになった悲鳴を、蓮は自分の唇で強引に塞いだ。
舌を突き入れられ、呼吸をすべて奪われながら、胸元に突き刺さる鋭い痛みが、ドロドロとした甘い快感へと変換されていく。蓮の引き締まった大きな身体が、私をベッドに沈め込み、逃げることなんて最初から不可能なのだと思い知らせてくる。
蓮の手が、私の腰を強く掴み、指の形が残るほどの力で引き寄せる。
月明かりに照らされた彼の横顔は、ひどく苦しそうで、そして世界で一番美しかった。
「柚留……、お前を誰にも渡さない。生徒会長も、他の奴らも、お前に触れる有象無象は全員、僕がこの手で排除してやる。……だから、僕の痛みを、僕の熱だけを、その身体に一生刻み込んでおけ」
「うん……、蓮……、もっと……強く……。あんたの印で、私を全部、めちゃくちゃにして……」
階下からは微かにテレビの音が聞こえる、そんな普通の日常の裏側で。
私たちは、誰にも見せない深夜の密室で、互いの限界を壊し合うような深い、深い越境のログを、二度と消えないように刻み続けていた。




