侵入者(ノイズ)の影と、放課後のアドレナリン
翠鳳高校の梅雨明けは、容赦ない青空とともにやってきた。
昨日、蓮に手首を深く噛まれた痕は、制服の長袖の奥でじくじくと熱を持って主張している。痛いのに、どこか満たされているような感覚。それが私の、誰にも言えない秘密の証明だった。
けれど、私たちの完璧な飼育箱に、新しいノイズが侵入してくるのに時間はかからなかった。
「——椎名さん。ちょっと、生徒会室まで手伝ってもらえるかな」
放課後の廊下。私を呼び止めたのは、細い銀縁眼鏡の奥で冷徹な瞳を光らせる、生徒会長の神条 律先輩だった。高三の先輩は、学校のすべての権力を握る絶対的な天才。
「あ、はい……」
私が断る間もなく、神条先輩は私の前に一冊の資料ファイルを差し出した。
その瞬間、先輩の視線が、私の手首の袖口からチラリと覗いた「赤紫色の噛み痕」に一瞬だけ留まったのを、私は見逃さなかった。眼鏡の奥の瞳が、面白そうに、そして値踏みするようになぞる。
「……一之瀬くんの風紀管理は、少し行き過ぎているようだね。幼馴染という特権を、勘違いしているんじゃないか?」
「え……」
「これからは僕が君を『保護』してあげてもいい。……生徒会補佐、引き受けてくれるだろう?」
先輩の低く理性的な声が、私の耳元で不快なノイズのように這い回った。
その頃、西日に照らされた弓道場。
バンッ!! と、鼓膜を突き破るような激しい破裂音が響き渡った。
「……おいおい、蓮。これで今日、五本目だぞ」
副主将の長谷川 徹が、呆れたように、だけどどこか怯えた目で蓮を見つめていた。
蓮が放った矢は、すべて的の真ん中(中心核)を寸分の狂いもなく射抜いている。しかし、その立ち姿から放たれる気配は、いつも以上に刺々しく、暗い殺気に満ちていた。
「神条先輩が、柚留を連れて行った」
蓮は新しい矢を番えながら、感情の消えた声で呟いた。
ギリギリと弓が限界まで引き絞られる。彼の脳内では、今この瞬間も、神条が柚留の隣にいるというシミュレーションが、億単位の熱量でループを繰り返していた。
「あーあ、また始まった。お前、椎名のことになるとマジで狂うよな」
徹は頭を掻きながら溜息をついた。「生徒会長は食えない男だ。手出しするなら慎重にやれよ、風紀委員長?」
「関係ない」
パキンッ。
次の瞬間、引き絞られた限界以上の負荷に耐えかね、高級な和弓の弦が大きな音を立てて弾け飛んだ。蓮の細い指先から、赤い血がじわりと滲み出す。けれど、彼はその痛みすら感じていないかのように、ただ血の滴る手を見つめ、冷酷に目を細めた。
「僕の領域に触れる奴は、誰であれ排除する」
生徒会室から解放され、夕立が激しく窓を叩く中、私は一人で旧館の更衣室にいた。
神条先輩のねっとりとした視線に晒された恐怖で、身体が小さく震えていた。
「——柚留」
不意にドアが開き、ずぶ濡れの蓮が立っていた。
彼の指先からは、雨水に混じって赤い血が床にポタポタと落ちている。
「蓮……! その手、どうしたの!?」
私が駆け寄ろうとした瞬間、蓮は私の両手首を掴み、更衣室の冷たいスチール製のロッカーへと激しく押し付けた。
「ドン!」という鈍い音が室内に響き、私の背中に衝撃が走る。
「……神条に、何をされた」
蓮の翡翠色の瞳は、完全に理性を失った「黒」に染まっていた。ずぶ濡れの黒髪から滴る水滴が、私の鎖骨へと落ちて弾ける。
「何もされてない、ただ資料を……っ」
「嘘だ。あの男は、お前のここを見ていた」
蓮は私の制服の襟元を強引に引き下げ、昨日自分が刻んだばかりの歯痕を、狂ったように見つめた。そして、自分の血が滲む指先で、その痕をなぞるように強く押し潰した。
「痛っ……蓮、痛いよ……!」
「痛がればいい。そうやって、僕だけの痛みを脳に焼き付けろ」
蓮は私の叫びを無視し、激しい排熱のような吐息とともに、私の首筋へと噛みついた。
昨日の手首よりも、もっと深く、もっと執拗に。柔らかい肌に彼の尖った犬歯が食い込み、私の口から「あ、んっ……」という、甘く切ない悲鳴が漏れる。
ロッカーに押し付けられた私の身体は、蓮の冷たい雨の匂いと、熱い体温の間に挟まれて身動きが取れなかった。彼は私の腰を折れそうなほど強く抱きすくめ、耳元で、壊れた機械のように何度も、何度も囁き続けた。
「お前は僕の最高傑作だ……。他の男に視線を許すな、触れさせるな。神条も、橘も、全員僕が壊してやる……。だから柚留、僕だけを見て泣いてくれ……」
痛みの向こう側で、私は蓮の圧倒的な狂気に、どうしようもない快感を抱いていた。
この人が私なしでは生きていけないという事実が、私の歪んだ心をどこまでも満たしていく。
「うん……蓮……、私を、もっと壊して……」
外の雷鳴が更衣室を白く照らす中、私たちは制服を濡らしながら、深く、二度と引き返せない暗闇の底へとログインしていった。




