高嶺の花の専属飼育、と越境の熱度
六月の朝、空気にはすでにまとわりつくような暑さが混じり始めていた。
私立翠鳳高校へと続く長い坂道は、両脇の桜の木々がすっかり深い緑の葉を茂らせている。セミの鳴き声が細い電流のように、透明な空気の中で不穏に跳ねていた。
「蓮……もうちょっとゆっくり、落ちちゃう……」
自転車の荷台に横座りした椎名柚留は、一之瀬蓮の制服の裾を細い指で必死に掴んでいた。
風に翻るプリーツスカートから、白皙の、ほとんど透明に近い太ももが覗く。しかし、二人きりのこの秘密の抜け道では、蓮以外の誰もその景色を見ることはできない。
「柚留、お前が遅すぎるんだ」
蓮はペダルを漕ぎながら、いつもと変わらぬ氷のように清廉な声で言った。朝光の中に伸びる彼の背中は真っ直ぐで、どこまでも孤高に見える。だが、彼自身だけが知っていた。段差の衝撃で柚留が腕を縮め、自分の背中にぴったりと体を押し付けてくるたび、ハンドルを握る指関節が力を込めすぎて白く染まっていることを。
校門の手前百メートルというところで、蓮は静かにブレーキをかけた。
柚留は慣れた動作で荷台から飛び降り、少し乱れた長い髪を整える。その瞬間、彼女の顔から先ほどまでの依存的で、どこか抜けたような表情が消え失せた。代わりに現れたのは、学校で無数の男子生徒を狂わせている、優雅で不可侵な「女神」の仮面だった。
「放課後、またね。蓮」
彼女は小さく頷き、優美な足取りで校門へと歩いていく。蓮は一人、木漏れ日の陰に取り残された。
去り行く彼女の背中を見つめる蓮の翡翠色の瞳には、温度など微塵もなかった。あるのは、病的なまでの焦燥だけだ。制服越しに感じた彼女の体温が今も背中に残っていて、彼の脳内演算回路を狂ったように走らせる。
今朝、彼女の脚を凝視した男、十二人。
今朝、彼女が部外者に笑顔を見せた回数、三回。
今朝も……柚留は、僕の部屋に閉じ込めてしまいたいほど美しい。
校舎に入ると、生徒たちの喧騒が押し寄せてくる。
椎名柚留が廊下に姿を現した瞬間、その賑やかさはまるでミュートボタンを押されたように静まり返り、次いで無数の押し殺した感嘆と私語へと変わった。彼女はこの学校の「絶対の女神」であり、全男子生徒の信仰そのものだった。
しかし、彼女が自分の下駄箱を開けた瞬間、その信仰は狂熱的な騒ぎへと変貌する。
「パサパサッ」と音を立てて、十数通のピンク色のラブレターと、綺麗にラッピングされた小物が雪崩のように床へ滑り落ちた。
「おや、今日も大豊收だね、椎名さん」
軽薄で自信に満ちた声が響く。サッカー部のスター選手であり、現充(リア充)の代表格である橘蒼汰が、部員たちを引き連れて冷やかすように歩いてきた。その手には高級な限定チョコレートの箱が握られており、柚留の行く手を完全に塞いでいる。
「これ、昨日の試合でMVPを取った記念のプレゼント。全校一の女神にあげるんだから、悪くないだろ?」
橘は数々の女子を落としてきた眩しい笑顔を浮かべ、柚留の肩に手を伸ばそうとした。柚留はわずかに半歩引き、顔には丁寧だが疎遠な微笑みを保ちながらも、その近すぎる物理的距離に内心で激しい嫌悪感を抱いていた。
「橘くん、遠慮させて……」
「橘」
地を這うような冷徹な声が、強引に二人の間に割って入った。
一之瀬蓮が、いつの間にか柚留の背後に立っていた。仕立ての良い制服に身を包み、手には風紀委員のチェックノートを握っている。端正な顔には何の感情も浮かんでいないが、周囲の温度は一瞬にして氷点下まで吹き飛んだようだった。
「校内での高額な私物品の受け渡しは禁止されている。この手紙とチョコレートは、風紀委員として没収する」
蓮は面無表情に手を伸ばし、橘の手からチョコレートを直接ひったくると、散らばったラブレターの山を冷ややかに一瞥した。
「一之瀬……またお前か」
橘は歯を食いしばり、瞳に怒りを走らせる。
「ただ向かいの家に住んでるだけの幼馴染のくせに、管理が行き届きすぎじゃないか?」
「僕は風紀委員だ」
蓮はそれだけを冷たく言い捨てると、柚留の手首を掴み、全校生徒の呆然とする視線の中、彼女をその場から連れ去った。
放課後の部活棟、誰もいない文芸部の部室。
窓から差し込むオレンジ色の夕日が、室内をどこか不穏な血の色へと染め上げていた。
「カチャリ」と音を立てて、蓮がドアの鍵を閉める。
外で見せる高嶺の花の姿はどこへやら、現在の女神・柚留はソファの隅で身を縮め、目尻を微かに赤くしていた。彼女はまるで骨を抜かれたかのように、自ら蓮の胸へと飛び込み、彼の腰に細い腕をきつく絡ませて、泣き出しそうな声で溢した。
「蓮……さっきの男の人、怖かった……。視線が、すごく汚いの……」
蓮は何も答えなかった。ただ、柚留の華奢な腰を強く掴み、彼女の体を軽々と持ち上げて、夕日の光が溜まった大きな机の上へと座らせた。
「蓮……?」
柚留が驚いて顔を上げると、そこには蓮の翡翠色の瞳が、彼女がよく知っている狂乱と偏執の愛執に燃えているのが見えた。
蓮の修長な指が、柚留の唇を強く擦る。その動作は乱暴で苛烈であり、まるで他人に覗き見られた痕跡をすべて削ぎ落とそうとしているかのようだった。そして、彼は猛然と頭を下げ、彼女の唇を深く塞いだ。
「ん……っ、は……」
柚留の口から細い吐息が漏れ、両手は力なく蓮の肩に縋り付いた。蓮のキスにはお仕置きのような侵略性があり、彼女の呼吸を容赦なく蹂躙していく。
「今日、あの男の手がお前の袖に触れた」
蓮はわずかに距離を置き、掠れた、恐ろしい声で囁いた。彼は柚留の右手首を強引に引き上げ、他人に侵入されかけたその皮膚を陰隙な目で見つめる。
「汚い……全校生徒の視線がお前に張り付いている……。僕は嫉妬で頭が狂いそうだ、柚留」
彼は突然顔を伏せ、その白い手首に、強く、深く噛み付いた。
「あ……っ! 痛い……っ」
柚留は眉をひそめたが、彼を突き放そうとはせず、むしろ依存を孕んだ甘い声を漏らした。手首にじわりと浮かび上がる赤紫色の歯痕を見つめ、蓮はついに、今日初めての笑みを浮かべた。——それは、捕食者が獲物に刻印を押した、残酷で、絶美な笑みだった。
「これは暗号だ」
蓮は温かい舌先でその噛み痕をそっと舐め、顔を上げて、翡翠色の瞳で柚留の虚ろな目をじっとロックした。
「柚留、一生僕の視界から外れるな。もしまた他の男に笑いかけたら……次は本当にお前を僕の部屋に閉じ込めて、どこへも行けなくしてあげる。分かった?」
柚留は飼い慣らされた小動物のように、自分に狂う少年をトランス状態で、うっとりと見つめながら、柔らかく応じた。
「……うん。蓮のためなら、私、どこにも行かない」
窓の外では蝉の鳴き声がなおも騒がしかったが、この薄暗い部室の中では、一線を越えた秘密が夏の温度とともに、狂おしく増殖を始めていた。




