深淵のセクターと、豪雨の亡命
療養院の非常階段を駆け下りた私たちを迎え入れたのは、世界を塗り潰すような圧倒的な豪雨だった。
激しい雨粒がアスファルトを叩きつけ、遠くの街灯の光を鈍く乱反射させている。私の薄い病衣は一瞬にして肌に張り付き、冷たい雨水が首筋の、さっき蓮に深く刻まれたばかりの噛み痕を激しく刺激した。痛みがじくじくと脳の奥にパルスを送り、私が今、現実のバグの中にいることを生々しく教えてくれる。
「——柚留、こっちだ。大人の追跡プログラム(追手)が近づいている」
蓮は拘束衣の袖を引き千切った左手で、私の手首を骨が軋むほどの力で握りしめたまま、泥水の跳ねる路地裏へと私を引っ張っていく。彼の黒髪からは激しく雨水が滴り、その翡翠色の瞳は、濁った夜の闇の中で獣のように妖しく明滅していた。
遠くから、パトカーのけたたましいサイレンの音が、雨のノイズを切り裂いて近づいてくるのが聞こえる。
病院のシステムを強制解除した代償は、すでに白日の世界へとアラート(警告)として拡散されていた。大人たちは今頃、完璧な偶像だった「椎名柚留」の失踪と、狂暴なエラーの再起動に大混乱しているはずだ。
「蓮……私たちは、どこへ行くの?」
「誰も僕たちを見つけられない、深淵のセクター(未登録の場所)だ。……あらかじめ、この街の地下に避難経路を用意しておいた」
蓮が私を連れ込んだのは、街の片隅にひっそりと佇む、すでに使われなくなった廃駅の搬入口だった。錆びついた鉄扉を彼が力づくでこじ開けると、中は光を一切拒絶した、完全な暗黒の地下世界へと続いていた。
地下へと続く階段を下りきると、そこには古い地下鉄の廃線軌道が、どこまでも続く暗いトンネルとなって横たわっていた。
地上の激しい雨の音が遠ざかり、代わりに地下水を吸い込んだコンクリートの不気味な湿気と、冷たい静寂が私たちを包み込む。
「ガチャン」と蓮が内側から鉄扉を閉め、古い南京錠を強引に噛み合わせた。
これで、外の世界とは完全に遮断された。
蓮は激しい呼吸を繰り返しながら、ゆっくりと私の前に立ち塞がった。トンネルの奥から漏れる、微かな非常用誘導灯の赤白い光だけが、彼の乱れた輪郭を浮かび上がらせる。
「……柚留。お前は、まだあの医者の匂いがする」
蓮の声が、狭いコンクリートの空間に低く、不穏に響き渡った。彼の翡翠色の瞳に、再び理性を焼き切るほどの嫉妬の排熱が灯る。
「蓮……? 榊先生なら、私は何も……」
「あいつはお前の髪に触れようとした! お前を『正常に戻す』と言って、僕の刻んだ痕跡を消去しようとしたんだ……っ! 汚い、汚すぎる……! 全て僕の熱で、もう一度完全に上書き(上書き)してやる……っ!!」
蓮は狂暴な声を上げると、私の身体を古いトンネルのコンクリートの壁へと激しく押し倒した。
「ドン!」という鈍い衝撃が私の背中に走り、彼の引き締まった身体が、逃げ場のない密室の中で私を完全にロック(拘束)する。
「蓮、待って……ここはまだ、完全に安全じゃ……っ」
「うるさい! 僕の目の前でお前が他の男に観測されるだけで、僕は世界をすべてデリートしてしまいたくなるんだ……っ!!」
蓮は私の叫びを自分の唇で強引に塞いだ。
「ん、んん……っ! む……っ」
深く、激しく、三ヶ月分の空白をすべて埋め尽くすような、狂おしいほどの口づけ。
冷たい雨水で冷え切っていたはずの互いの舌が絡み合い、呼吸の主導権を完全に奪われる。蓮の口内からは、隔離施設を脱出する際に負った傷のせいか、濃厚な鉄の味がした。掴まれた両手首からは、彼の左手から溢れ出た赤い血が私の肌へと移り、ドロドロとした熱い液体が腕を伝って、無機質なコンクリートの床へと滴り落ちていく。
蓮は唇を離すと、激しい息を吐きながら、私の胸元、療養院で消えかけていたあの心臓の真上の一番柔らかい皮膚へと、飢えた獣のようにその鋭い犬歯を深く、深く、肉を抉るような力で突き立てた。
「あ、ああっ……! 嗚呼……っ!!」
地下の廃駅に木霊する、私の小さな悲鳴。
けれど、その強烈な痛みの向こう側から、頭の中をドロドロに溶かすような甘い快感が溢れ出し、私の理性を完全に破壊していく。蓮の身体が私の身体を壁にめり込ませるように強く圧迫し、彼の手が私の濡れた病衣を強引に引き裂き、細い太ももの肉を、指の形が紫色の痣になるほどの力で強く、強く掐りあげた。
「痛がれ、柚留! その痛みが、お前が僕だけのドールであることの、消えないログだ! 誰にも、一ミリだって触らせない……っ!」
蓮は噛みついたまま、私の肌にじわりと滲み出た血と汗を、愛おしそうに何度も何度も舌先で貪るように舐めとった。
彼の熱い舌が傷口に触れるたび、私の身体は小さく跳ね、口から「あ、んっ……蓮、蓮ぇ……」という、完璧な仮面を完全に剥ぎ取られた、淫らで、哀れな悲鳴が漏れ続ける。
地上では、大人たちが私たちのバグ(暴走)を必死に追いかけている。
それなのに、この薄暗くて、熱気が抜けない廃軌道の片隅だけは、世界で一番不條理で、一番濃密な、二人だけの絶対的な飼育箱だった。
蓮は何度も、何度も、私の首筋や胸元に、新しい排熱を焼き付けるようなキスと標記を繰り返した。
「うん……いいよ、蓮……。私を、あんたの印で……完全に満たして……っ」
赤白い誘導灯の光が二人の影を不気味に歪ませる中で。
私たちは、世界のルールをすべて置き去りにし、二度と引き返せない越境の底へと、互いのすべてを再びログインさせ続けていた。
数時間が過ぎ、過熱した排熱が地下の冷気によって徐々に冷まされ始めた頃。
蓮は私の横に寄り添い、血の混じった左手で私の細い髪を愛おしそうに指に絡めていた。
その時、蓮が胸元に隠し持っていた、療養院から奪ったポータブル端末が、ピピッと静かに不協和音を鳴らした。
画面に表示されたのは、街全体の防犯カメラネットワークを逆ハッキングした、エリアの稼働ログだった。
「……さすがだね、生徒会長」
蓮の翡翠色の瞳が、冷酷な光を宿して画面を睨みつける。
画面のマップ上には、この廃線軌道の地上出口を完全に包囲するように配置された、無数の赤いドット(追手)が映し出されていた。そして、その中心コマンドを動かしているのは、やはりあの銀縁眼鏡の男、神條 律だった。彼は自らの家族の権力を使い、警察だけでなく、私設の警備ネットワークまでも動かして、この街全体に巨大な「一之瀬蓮・排除プログラム」を構築していたのだ。
「神条先輩……まだ諦めてないんだね」
「あいつはお前という完璧な偶像を、自分のシステムで管理したいだけさ。……だが、僕たちの同期を邪魔するノイズは、今度こそ完全に消去してあげる」
蓮は立ち上がると、私の手首を再び強く握りしめ、暗いトンネルのさらに奥、大人たちのロジックが絶対に届かない深淵へと歩みを進めた。
二人の狂った連鎖は、もう、誰にも止めることはできない。




