無菌室のデバッグ、あるいは再起動のシグナル
世界を巻き込んだあの「シャットダウン」から、三ヶ月の月日が流れた。
私立翠鳳高校での事件は、表向きは「精神錯乱を起こした男子生徒による監禁・暴力事件」として処理され、ネット上のあらゆるログは生徒会と大人たちの手によって徹底的に検閱された。一之瀬蓮という風紀委員長の名前も、椎名柚留という完璧な偶像の存在も、今や校内では誰も口にしない「禁忌のバグ」となっていた。
「——椎名さん、時間だよ。今日の『デバッグ(精神カウンセリング)』を始めようか」
白く、光沢のある壁に囲まれた無菌室のような部屋。
静寂の中に響いたのは、この「聖マリア隔離療養院」の主治医である榊医師の声だった。彼は白い白衣に身を包み、冷徹なプラスチックのタブレットを手にしながら、私の前に座った。
「体調はどうだい? 首筋の……あの痛々しかった『傷』も、ずいぶんと綺麗に消えてきたね」
「はい。先生のおかげで、もう何も感じません」
私はいつもの、一ミリの狂いもない完璧な「従順な患者」の微笑みを貼り付けて見せた。
だが、白衣の男は知らない。
私の制服から白い病室の衣類へと書き換えられたこの肌の内側で、蓮が刻みつけたあの甘くドロドロとした排熱の記憶が、一秒たりとも消えていないということを。
首筋の噛み痕は、大人の用意した最先端の消炎剤によって確かに薄くなっている。けれど、皮膚のさらに奥、心臓の真上に埋め込まれた「蓮の所有物」という名のコードは、今も私の血流を支配し、彼との同期を求めて激しく脈打っていた。
「それは良かった。一之瀬くんという『重度の被害妄想と偏執病を患ったノイズ』から隔離されて三ヶ月。君のシステムは確実に正常に戻りつつある。……もうすぐ、外の世界(学校)へリブートする許可を出せるよ」
榊医師は満足そうに微笑み、私の頭を優しく撫でようと手を伸ばした。
その指先が私の髪に触れる寸前、私の脳内の防衛システムが激しい拒絶反応を叩き出す。
(触るな。その汚い手で、蓮の最高傑作に触るな——)
私は微笑みを崩さないまま、不自然にならない速度でスッと首を傾げ、医師の手をやり過ごした。
大人の用意したこの白い檻は、一見すると安全な避難所のようだが、その実、私から蓮のコードを完全に消去するための、最も残酷な断頭台だった。
その日の夜。
消灯時間を過ぎ、完全な漆黒と無機質な機械音だけが支配する、隔離病棟の三〇二号室。
私はベッドの上に座り、窓の外の厳重な鉄格子を見つめていた。
ここは地上四階。周囲は高いコンクリートの壁と防犯カメラで囲まれており、外部からの物理的な侵入は一〇〇%不可能とされている。蓮が今、どこの施設に隔離されているのかすら、私は教えられていない。
(蓮……会いたいよ。あんたの痛みが、あんたの狂気が足りなくて、私、システムダウンしちゃいそう……)
私が自分の細い手首を、あの夜のように強く爪で掻きむしろうとした、その瞬間だった。
ピピッ——。
部屋の片隅、普段は病院のインフォメーションしか流さないはずの、壁掛けの液晶モニターが不意に奇妙な駆動音を立てて起動した。
暗闇の中に、青白い電子の光がぼうっと浮かび上がる。
「え……?」
画面に映し出されたのは、病院のシステムではない。
黒い背景の上に、億単位の速度でスクロールしていく、見覚えのある「翡翠色」の暗号コード。そして画面の中央に、一つの不気味なテキスト・シグナル(警告)がポップアップした。
【 SYSTEM_OVERRIDE : WELCOME_BACK_MY_DOLL 】
「蓮……っ!?」
私はベッドから飛び起き、吸い寄せられるようにモニターの前へと駆け寄った。
画面のカメラが作動し、そこからノイズ混じりの、けれど世界で一番愛おしい「沙啞れた声」が響いてきた。
『——見付けたよ、柚留。お前を閉じ込める大人の防壁なんて、僕の愛の前ではただの紙切れ同然だ』
画面の向こう。薄暗い、どこか別の隔離施設のベッドの上に座り、拘束衣を引き千切ってノートパソコンを叩いている、一之瀬 蓮の姿があった。
彼の前髪は乱れ、翡翠色の瞳は、三ヶ月の隔離を経て、より一層狂暴で、より一層深い「純黒」の愛執へと染まりきっていた。
『僕たちの領域に介入した大人たちへの逆ハッキングは、すべて完了した。今から、お前の部屋の電子ロックを強制解除する。……僕の元へ、ログインしてくるね、柚留』
「うん、蓮……! 今すぐあんたの檻へ、私を連れ去って……っ!」
画面の中で、蓮の細い指先がキーボードの「Enter」を強く叩いた。
その刹那、ガチャン!!! と、私の部屋の頑丈な鉄扉の電子錠が、内側から一斉に強制解放された。
廊下の非常灯が真っ赤に点滅し、「システムエラー! 避難誘導を開始します」という機械的なアラートが鳴り響く。
病院中の看護師や警備員たちが大混乱に陥る中、そのノイズを切り裂くようにして、廊下の向こうから一人の少年が足音を立てて走ってきた。
白い拘束衣の袖を自ら引き千切り、右手の手首には、あの夜よりもさらに生々しい、鉄格子の破片で切った血が滴っている。
一之瀬蓮が、私の目の前に現れた。
「蓮……っ!!」
「柚留ーーーっ!!」
蓮は部屋に飛び込んでくるなり、私の身体を白い壁へと激しく押し付けた。
「ドン!」と壁が鳴り、私の背中に鈍い衝撃が走る。三ヶ月ぶりの、彼の圧倒的な体温と、狂おしいほどの排熱の匂いが、私の無菌室の空気を一瞬で汚染していく。
「蓮、本当に来てくれた……っ」
「当たり前だ! お前をこんな白い檻に閉じ込めて、僕のコードを消去しようとしたあの医者どもを、僕は絶対に許さない……っ! お前の皮膚のすべてを、もう一度僕の熱で、僕の血で、完全に書き換えてやる……っ!!」
蓮の呼吸は完全に熱暴走を起こしており、彼の翡翠色の瞳は、狂気と歓喜のオーバーフローを起こしていた。彼は私の着用していた白い病衣の襟元を、血の滴る右手で強引に引き千切った。
ブチブチと布地が裂け、青白いモニターの光の中に、私の白い肌と、消えかけていたあの赤紫色の噛み痕のログが、生々しく全て曝け出される。
「蓮、あ、っ……!!」
蓮は私の叫びを自分の唇で強引に塞いだ。
「ん、んん……っ! む……っ」
深く、激しく、三ヶ月分の飢餓感をすべてぶつけるような、狂暴な口づけ。
舌を深く突き入れられ、呼吸の主導権を完全に奪われる。彼の口内からは、警備員たちを力づくで排除してきたのであろう、鉄の味がこれでもかと濃厚に混ざり合っていた。掴まれた両手首からは、彼の傷口から溢れ出た赤い血が私の肌へと移り、ドロドロとした熱い液体が腕を伝って白い床へと滴り落ちていく。
蓮は唇を離すと、激しい息を吐きながら、私の胸元、心臓の真上の最も柔らかい皮膚へと、飢えた獣のようにその鋭い犬歯を深く、深く、昨日よりもさらに狂暴な力で突き立てた。
「あ、ああっ……! 嗚呼……っ!!」
無菌室の壁に頭を打ち付けるほどの、強烈な激痛。
けれど、その痛みの向こう側から、頭の中をドロドロに溶かすような甘い快感が溢れ出し、私の理性を完全に破壊していく。蓮の引き締まった身体が、私の身体を壁にめり込ませるように強く圧迫し、彼の手が私の病衣のズボンを強引に引き裂き、細い太ももの肉を、指の形が紫色の痣になるほどの力で強く、強く掐りあげた。
「痛がれ、柚留! この三ヶ月の空白を、僕のマークで埋め尽くしてやる! お前は一生、僕だけのドールだ! 誰にも、一ミリだって触らせない……っ!」
蓮は噛みついたまま、私の肌にじわりと滲み出た血と汗を、愛おしそうに何度も何度も舌先で貪るように舐めとった。
彼の熱い舌が傷口に触れるたび、私の身体は小さく跳ね、口から「あ、んっ……蓮、蓮ぇ……」という、大人の用意した正常な仮面を完全に剥ぎ取られた、淫らで、哀れな悲鳴が漏れ続ける。
外からは、まだ非常ベルのけたたましい音や、警備員たちの怒号が近づいてくるノイズが聞こえている。
それなのに、この薄暗くて、熱気が抜けない三〇二号室の中だけは、世界で一番不条理で、一番濃密な、二人だけの絶対的な拘束空間だった。
「……行こう、柚留。大人の用意したこの隔離サーバー(病院)ごと、すべてを完全に破壊して、僕たちの本当の楽園へ」
蓮は私の耳元でそう囁くと、手首の、そして首筋の新しい傷跡をなぞるように、何度も、何度も、排熱を焼き付けるようなキスと標記を繰り返した。
痛みの向こう側で、私はこの少年の狂気に完全に調律されていくのを感じていた。
全校生徒が憧れた「高嶺の花」は、この隔離病棟の暗闇の中で、一人の少年のためだけに、甘い蜜を滴らせて完全に再起動していく。
「うん……いいよ、蓮……。私を、あんたのコードで、全部めちゃくちゃにして……っ」
赤く点滅する非常灯の光が二人の影を不気味に歪ませる中で。
私たちは、大人の用意したすべてのプロトコルをやり過ごし、二度と引き返せない越境の底へと、互いのすべてを再びログインさせ続けていた。
数分後、主治医の榊医師が警備員を引き連れて三〇二号室に踏み込んだとき、そこに二人の姿はすでになかった。
床に残されていたのは、引き裂かれた白い病衣と、拘束衣の破片。
そして、壁の液晶モニターに、蓮が残していったと思われる、真っ赤な文字のカウンター・プログラムが、挑白的に点滅を繰り返していた。
【 REPORT : DISCOVERY_OF_ERROR. BOTH_LOGGED_OUT_PERMANENTLY. 】
(レポート:エラーを発見。両名は永久にログアウトしました)
「一之瀬……! 椎名さん……! どこへ行ったんだ……っ!」
榊医師の絶望的な悲鳴が、無菌室に虚しく響き渡る。
その頃、私たちは病院の非常階段を駆け下り、夜の深い霧が立ち込める街へと飛び出していた。
蓮の血まみれの左手が、私の手首を強く、離さないように握りしめている。そこから伝わってくる確かな痛みに、私は歪んだ、けれど世界で一番幸福な微笑みを浮かべた。
大人の世界、学校のルール、社会のシステム。
そのすべてを敵に回し、私たちの「第二の暴走」が、今、完全に幕を開けたのだ。
二人の狂った連鎖は、もう、誰にも止めることはできない。




